僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

繖山の山頂と観音城跡~イワカガミの咲く山~

2022-04-28 17:05:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 繖山の山麓や山中には巨石群や神社仏閣が数多くあり、複数のルートからのハイキングコースが整備されている山です。
今回は安土側にある桑實寺を経由して、繖山の三角点まで行こうと思ったのですが、桑實寺の山門に到着した時はまだ閉門中。
開門時間は9時からとなってり、事前調査してなかったことが仇となりました。

計画変更で観音正寺側から三角点を目指すことにして、三角点まで行った後に観音寺城跡を巡って、余力があれば桑實寺までのピストンに計画を変更しました。
結局、桑實寺まで行ってしまうと昼食抜きになりそうなので、観音寺城跡で折り返しましたが、好天に恵まれて額から汗を滴らせながらの道中です。



観音正寺の裏参道は少し前までは林道の崩落により、車両も人も通行止めとのことでしたが、4月1日より仮開通されていました。
裏参道は石段のない緩やかな道なので楽に登れる良さもありますが、何といっても道筋にある観音正寺の「奥之院」の磐座が素晴らしい。



「奥之院」の鳥居の先には磐座と思われる正面が垂直な面になっている鏡岩のような巨石が祀られる。
日吉大社のある八王子山の奥宮にも同じような鏡岩がありましたが、前方が開けている場所にこういう巨石が祀られているのは、古代の信仰と何か関係があるのかもしれない。

空想的な話になります、がこれらの磐座は鳥瞰した時に位置を知ったり、通信的な意味合いもあったのではと考えてみるのも面白い。
湖西・湖東・湖南の磐座の配置や方向図を作れば何か興味深いものが見えてくるかもしれませんね。



更に上部には巨石群が積みあがった中に岩窟があり、圧倒的な威圧感には古代からの信仰の場として、あるいは山岳信仰の行場であったことを強く感じて厳粛な気持ちとなる。
奥之院には1400年前、聖徳太子が巨岩の岩で舞う天人を見て、「天楽石」と名付けたという伝承が残っているという。
観音正寺は聖徳太子が湖水から浮かび上がってきた人魚の懇願により、千手観音の像を刻み堂塔を建立したという開基の伝承があり、聖徳太子との縁が深い。



岩窟の中を覗いてみたが、中には人ひとり座れるくらいのスペースとなっていて、この中かどうかは分かりませんが、磐座群のどこかに平安後期に彫られたという摩崖仏があるという。
昨年1月に奥之院に参拝した時には、奥之院から巨石群を辿りながら「佐佐木城址」まで行って折り返しましたが、道中には多数の巨石が点在する聖域でした。



白洲正子さんは「西国巡礼」で奥之院について次のように書かれています。

奥の院には、びっくりするような大きな石窟があった。
近江は帰化人が住んだ国だから、あるいはその墓だったのかもしれないし、もっと古いものかもしれない。
くわしいことは私には分からないが、ここが信仰の元だったことは間違いない。(白洲正子「西国巡礼」)



参道に戻って「ねずみ岩」を越えると、観音正寺の仁王像の門固めが見えてくる。
境内には巡礼衣装に身を包まれた巡礼者や参拝の人が多く参られ、コロナ渦で出歩きにくかった方々が一気に外出するようになっていることが実感出来ます。



本来なら参拝が先ですが、本堂へ参る前に観音城跡・三角点方面へ道を折れ、まずは繖山の山頂を目指します。
繖山の山道はこれまで行った限りでは平坦な道があまりなく、木段の登り・下りが続きますので、尾根筋をゆったり歩ける道は少ないように感じています。



ほどなく三角点の分岐に出て三角点方向へ向かいますが、距離は短いのに急登の木段登りになる。
少し開けたところが見え、あれが頂上かと思いきや木段はまだまだ続くの繰り返しで、木段の繖山のしんどさを実感する。



木段を登りきると頂上の開けたスペースに出る。
木が回りを囲んでいるので下界を見渡せる景観はあまりないが、虫食いの地図のように登っていた繖山の頂上に初めて立つことが出来ました。



三角点は、木段の横にひっそりと立っており、よく見ると標石には二等三角点と刻まれている。
繖山は南北約4㌔の細長い山系ですので、虫食い登山ではまだ足を踏み入れていない場所があるのが今後の課題です。



三角点への道を折り返した後、気が変わって観音城跡へ行ってみることに。
観音寺城は繖山の山頂から南山麓にかけて築城された大城郭で、近江国守護・佐々木六角氏の居城だったといいます。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際の戦いで、六角氏は観音寺城から逃げて無血開城したという。

観音寺城の本丸跡は現在はなにも残っていませんが、何ヶ所かの郭跡には石垣が残っており、六角氏の被官だったという平井氏・池田氏の屋敷跡とされる虎口や石塁が残されている。
現在のところ、城郭跡ファンではないので細かく見て回ってはいませんが、現地で会った人の話だと「大石垣」の辺りからは絶景が広がっていると聞き、大石垣を目指すことにする。



大石垣へ向かう道は途中で分岐があったのでそのまま歩いていったが、途中から崖になってしまった。
掴まれる木は少なく、途中まで降りてしまったので登り返すのも困難でしたので、四苦八苦して崖を下ることになりました。

下に山道が見えていたので、あそこまで何とかと思いつつも中々降りられない。
下の道を涼しい顔で歩いていた人がいたけど、あの人あんな所にへばりついて何やってんだろ?と思われたことでしょう。



やっと降りた場所から眺めると、山の斜面に巨石群。
石の山・繖山らしく巨石が無造作に並ぶ光景に圧倒されてしまいます。



巨石群の一番下に立つ岩には「女郎岩」と命名されている。
なぜ女郎なのかは説明板がなかったので分かりませんが、立ち姿からイメージしたのかもしれません。



巨石群の反対側には湖東平野の絶景が広がります。
遠くに見えるは三上山。湖東には低山が多いですが、それぞれ個性や歴史があって楽しめる山が多い。



観音正寺から繖山山頂、観音城跡まで来てすっかり満足してしまい、当初予定していた桑實寺は見送って元来た道を戻ります。
下山途中に発見したのはイワカガミの花。繖山でイワカガミが見られる場所があるのは聞いていたが、まさかここで出会えるとは!



同じ道を登っていた時には気付かなかったのに、帰りの下り道になって見つけられたのは、それだけ気持ちに余裕が出てきていたということでしょうか。
TVの山番組でしか見たことのなかった花に出会えたのは幸運でしたね。



観音正寺まで戻ってきましたので、参拝に向かいます。
入口にある塗香で身を清めて外陣に入ると、西国三十三所第32番札所らしく、巡礼姿の方の姿も多く見受けられ、巡礼寺院の活気に包まれていました。

観音正寺の本堂は1993年の火災で焼失してしまい、現在の本堂は2004年の再建。
仏師・松本明慶さん作の「千手観音坐像」は、光背を含めると総高6.3メートルにも及ぶ巨大な坐像です。
外陣でお線香をあげて、結縁の紐に触れて縁を結ばして頂いて、手を合わせる。



本堂の横には迫力のある石積みがあり、観音像が祀られている。
この石積みは本堂の火災後に積まれたもののようで、古い信仰によるものではないようだが、石の山・繖山らしい光景です。



下山した後に安土方面から見た繖山の一部です。
春の穏やかな日の繖山のどの辺りに居たのでしょうか。




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繖山の雨宮龍神社を目指せ!~猪子山ルート~

2022-04-22 05:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 数年前に石馬神社に参拝した折り、「雨宮龍神社」の鳥居がありその先に石段の参道が続いていましたが、あまりにも寂しそうな道でしたので行くのを断念したことがあります。
それ以来、いつか参拝してみたい神社でしたが、石馬寺からの表参道は石段が延々と続き、かなり辛い石段登りだということが分かりましたので、別の道を探していました。

雨宮龍神社への道は幾つかあるようなのですが、北向岩屋観音のある猪子山からの道は整備されているとのことでしたので、北向岩屋観音の石段を登って、猪子山頂上から雨宮龍神社を目指すことにしました。
道は前回、猪子山まで行った時に確認していたので、あとは歩けば神社まで到着できるだろうと考えていたものの、要する時間は読めないままのスタートでした。



猪子山山頂からの道は木段で整備され、最初は緩やかなアップダウンが続いていたのでそれほど苦にはならなかったが、道中あまり景色が見えずただひたすら登っている感が強い。
ただ道中には巨石が何ヶ所か見られ、繖山の山系は石の山なんだと実感する。



猪子山には山麓の岩舟神社の「岩舟」や「磐座」、山頂近くの北向岩屋神社には観音像を祀る岩窟や「玉祖神命」という磐座があり、「巨石の神々を訪ねる道」というルートもある。
あちこちに巨石が見られる山ですから、山中に巨石があるのは不思議ではないものの、次々と巨石に出会えるのはこの山の魅力かもしれません。



ただし道は平坦な一部の部分を除いて、ほぼ木段の登り降りになります。
登りの木段と下りの木段が連続していますから、こりゃ帰りも楽は出来ないなと思いつつ進んで行きます。



道を進めば再び巨石と出会う。
いわゆる稜線歩きの道ではあるものの、両側に木が茂った代り映えしない景色の中で、巨石に出会えるのは歩く楽しみになります。
岩場が続く山ではないのに、ポツンと巨石が点在しているのは何か不思議に思えます。





猪子山の山麓の岩舟神社には舟の形をした岩舟があり、後述しますが雨宮龍神社の磐座も舟の形をしていて、途中の道にも舟の形をしていると見える巨石がありました。
こうしてみると、猪子山には岩舟に対する信仰があったのだと思うに至りますが、それは古代の渡来人の信仰によるものか、この地にいた人の自然崇拝の形なのか...。



道中の半分辺りまで来た所から傾斜が強くなってきて、木段の登りが続くようになります。
木段には名前や日付、メッセージが書かれてあり、これはボランティアの方々が丸太を担ぎ上げて木段を整備されて方々からのメッセージです。
そろそろ疲れが出てきた頃、木段に書かれた“ガンバレ”のメッセージにどれだけ励まされたことか。





元気を取り戻して登っていくと急に開けた場所に出た。
雨宮龍神社に到着です。



境内の入口の巨石群は、猪子山の山頂以降の山道にあったどの巨石よりも大きい。
これが雨宮龍神社の磐座かと思ったが、すぐ奥には玉垣に囲われた中に巨石があったので、本当の磐座はそちらになるのかもしれない。



裏側に回り込んで巨石群を眺めてみると、随分と印象が異なります。
崖側の木にはお札が付けられており、書かれていたのは令和3年、この地を訪れた行者がここで祈祷した証のようでした。



玉垣の中には数本の木と一緒に3つの磐座が祀られており、ここが神の降り立つ場所であることを示しています。
前方に碑のような石があり、後方には横たわったような巨石。



中心となると思われる磐座は、よく見ると舟形のように見えてしまう。
山麓の岩舟神社の舟石が印象に残っていることもあって、そう見えるのかとも思いますが、どうにも気になるところです。



本殿の横にはこれも御神木と考えられる木が何本もの幹に分かれて林立しています。
それぞれの幹が曲がりながら伸び、上へ行くほど広がるように伸びている姿には何か異形の姿を感じてしまいます。





さて、いよいよ雨宮龍神社へ参拝しますが、木製の両部鳥居の中には神門、そこから石段が続き本殿へと至ります。
山中にあるにも関わらず立派な神社となっていることに驚きますが、それだけ氏子の方の信仰が篤いということなのでしょう。



雨宮龍神社は御祭神に大山祇神・級長津彦・ 級長戸辺命・彌都波能賣神・大綿津見神・底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の八柱を祀り、八大竜王社と呼ばれていたという。
水を司る龍神を祀るこの神社は、雨乞いの霊験のある神として麓の村々の信仰を集め、初夏の7月には雨乞いの神事が行われ、降雨明神・雨明神とも呼ばれて信仰されているとされます。

文政11年には大干ばつにより飲料水にも事欠く始末であったが、石馬寺住僧が社頭で大般若経理趣分を真読すると、一匹の小さな白蛇が出てきたという。
僧が持っていた鉄如意で一撃して社殿に投げつけると、雨が盆を覆すように降ったをいう伝説が残されています。



社はそれほど大きなものではありませんが、彫刻は実に精巧に造られており、山の頂にある社にも関わらず、その見事な彫刻に目を奪われる。
本殿は琵琶湖の湖面に向かっているといい、この神社には生きていくためには不可欠な水への祈りが託されてきたのだと思います。



雨宮龍神社の先は繖山の山頂へとつながる。
さらに先には観音正寺や観音寺城跡や桑實寺。



元来た道を引き返している途中に何人かの人が登ってきたので少し言葉を交わしましたが、それぞれ自分の目指す場所まで行こうとされているようです。
北向岩屋観音からのコースを歩く人は、観音さんまで日課のようにして歩く人、ジョギングで駆け上がって駆け降りる人、雨宮龍神社や繖山まで行く人、縦走して安土から下山する人など様々です。
みな自分のペース、自分の目標に向かって苦しいながらも楽しんでおられます。




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繖山「須田不動の滝」の磐座と「五十余州神社」~東近江市~

2022-04-17 17:08:08 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖東地方の東近江市にある繖山・猪子山が連なる山には、西国三十三所札所の観音正寺や桑実寺・教林坊、石馬寺・北向岩屋十一面観音を始めとする神社仏閣が集中しています。
繖山の西方向には安土山、東南方向の山には箕作山・赤神山(太郎坊山)・岩戸山などの霊山があり、それらの山々には数多くの巨石が見られ、聖徳太子と縁の深い寺院が多い。

繖山の西側の中腹には「須田不動」という不動尊を祀る祠がありといい、滝行修行が行われていたという繖山の中腹にある修行場へと足を運びました。
集落を外れて山麓へ進んでいくと、獣除けの鉄柵が張られている場所に着き、鉄柵の扉は参拝歩道と参拝車道への道に分かれている。



参拝歩道の方は手前の駐車スペースの向こうに石段があって登って行くのだと思われますが、ひとけが全くなく、先の道が見えないこともあって、怖くなってしまい林道からの道を進むことにします。
参拝車道の鉄柵を開けて中に入り、再び閉じて鎖を掛けていると、自分で自分を檻の中に収監するような気分になり、思わず“何やってんだろ”と複雑な気分になる。



林道の途中には養蜂の巣箱が並べられていますが、場所の寂寥感もあって墓地のような印象すら感じてしまう。
滋賀県の山麓などで養蜂されている場所や、道の駅などで地元産の蜂蜜が販売されているのを見かけることがありますが、それだけ滋賀には豊かな自然が残されている場所が多いということなのでしょう。



林道終点の駐車場から参道へ入り参拝歩道の石段を見降ろしてみると、しっかりとした石段が続いており、石段登りで不動尊を目指す。
獣除けの柵から入って人の姿のない場所ですので、最近愛用している熊鈴を付けて石段を登ります。
熊鈴の音は腰に付けているだけで頼りがいのあることか。効果はともかく安心感が増しますね。



石段はすぐに登りきることができ、「大聖不動尊」と彫られた石碑が見えてくる。
石碑の後方には川が流れ水音が聞こえてきており、平地からさほど離れている場所ではないにも関わらず秘境感のある場所です。



石組で造られた手水があったが、源泉が枯れているのか渇水しているのか水は出ていない。
尺が置いてあったが、さすがにこの水で清めるのは躊躇われるため、遠慮させていただく。



驚いたことに少し坂を下った所には巨石があり、注連縄が巻かれているのでこの不動尊の磐座なのでしょう。
磐座があるのは想定外でしたが、導かれるように坂を下っていきます。

磐座の前には滝行の姿に着替える場所があり、紅と白のふんどしが掛けられていました。
随分長い間放置されていたようで汚れたものだったが、かつてはここでふんどし1枚になって滝行へと向かったのでしょう。



磐座は坂の上からは平坦な岩のように見えたが、回り込んで横から見ると川に寄り掛かるような姿をしています。
大きさも見ごたえのある巨石で、苔の生え方も日陰になる部分に厚みがあり、平坦部にはスギの枯葉が積もっています。



磐座の横には山の清流が岩の間を縫うように流れていて、透明度の高い清水です。
奥に見えるのが不動尊へ通じる橋ですが、この辺りの巨石の多さも感慨深い。



川の向こう側の高台の崖になっているところに不動尊は祀られており、石垣の上部に滝行の水の落ちる場所がある。
残念ながら水は流れておらず、滝行の場所にも近い時期に水が落ちていた形跡がないが、かつては水量のある滝行の場だったようです。



滝が流れている時であったら、その直下に不動明王石仏が祀られています。
倶利伽羅剣・腕飾り・首飾りなどの装飾部は青く着色され、火炎光背は白系と特徴的な姿をしておられます。



不動尊への階段を登っていくと石碑があり、壊れた祭壇の下に白蛇の置物がありました。
繖山の西側には湖東平野の田園地帯が広がっており、繖山の龍神に雨乞いをしていたのかと思います。



最上部の不動堂の中には石造りの祠があり、鍵が掛けられていて拝むことは叶いませんが、中には不動尊が祀られていると思います。
不動明王を祀る水行の場独特の空気が流れる場所には、厳粛さと得体のしれぬ怖ろしさのようなものを感じざるを得ません。



不動堂から下を見ると磐座を上から鳥瞰することができます。
手前に突き出ている管から水が落ちて水行の場となります。時期によって水が流れるのであれば再訪したい場所です。



「須田不動の滝」から山裾へ戻り「五十余州神社」に参拝します。
「五十余州神社」は、観音寺城落城の際に自害した「佐々木六角一族五十余人之霊神」を御祭神として祀っているといいます。
織田信長が将軍・足利義昭を擁して上洛の折、信長軍と佐々木六角氏と戦いになり、敗れた佐々木六角氏の家族・家臣50余人が須田川原で自害し、その御霊を祀っているといいます。



鳥居を抜けると山のすぐ下まで緩やかながら長い石段が続き、本殿までの間には「天満宮」「愛宕神社」がそれぞれ境内社として祀られている。
この一直線の石段の道は繖山へと続き、集落側を見れば真っすぐな坂道となって集落を横切っている。



本殿の境内には遥拝所が設けられていて、方角は繖山の方を向いているように思える。
繖山への山岳信仰と考えられますが、その方向には佐々木六角氏の居城の観音寺城址があり、遥か先には伊勢神宮もある方向なのが気になります。



拝殿から本殿へとつながる渡り廊下は雪囲いされていはいますが、神社自体は境内も広く立派な神社だと思います。
大名ではない人たちの自害した御霊を寺院に祀ることが多々あるとはいえ、神社の御祭神として祀るのもこの地域独特の祀り方のように思います。



木々の間から見えるのは安土山でしょうか。
戦国時代やそれ以前の時代には琵琶湖の内湖が広がっているのが見えたのかもしれません。




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川内倫子写真展|やまなみ|自分が自分であるだけでいい場所~湖のスコーレ~

2022-04-13 06:08:08 | アート・ライブ・読書
 長浜市街地の旧パウワースの跡地にオープンした「湖(うみ)のスコーレ」には発酵をテーマとした醸造室・チーズ製造室・味噌熟成庫があり、家具やファッション・生活道具・アンティークの並ぶストアが人気を集めているようです。
当方も何度か「湖のスコーレ」へ立ち寄っていますが、入るのはいつも裏側の入口から入り、探しても手に入らないような古書が並ぶ書籍コーナーやアールブリュット作品を展示するギャラリーを見て回っています。

「湖のスコーレ」がオープンした最初の企画展は、「やまなみ工房」の榎本高士さんの美術展でしたが、第二回目の企画展は川内倫子さんの写真展とやまなみ工房の造形を主とした美術展でした。
写真家の川内倫子さんは、2018年からの約1年半、甲賀市にある「やまなみ工房」で日常的な生活や風景を撮られていた方で、写真家としては木村伊兵衛写真賞を受賞をされています。



川内倫子さんの写真と「やまなみ工房」の作家とのコラボは過去にも見たことがあり、つい造形作品の方に目が行ってしまった記憶がありますが、今回も「やまなみ工房」の有名作家の作品に目が行ってしまいました。
「やまなみ工房」の建物が写ったモニターの前には「正巳地蔵」や「菜穂子地蔵」「オニ」「目・目・鼻・口」などの造形作品が並び、ギャラリーに入った瞬間に圧倒されます。



山際正己さんの「正巳地蔵」は、どの地蔵さんも笑っているが、少しづつ表情が違います。
「やまなみ工房」の紹介文によると、家事や工房の掃除・珈琲の接客や古新聞の回収など忙しい日常の中で、彼にしか分からない今だ!という時だけ粘土に向かい、すさまじい勢いで作品を作るのだという。



「正巳地蔵」以外にも「オニ」というシリーズがあるようですが、愛嬌のあるお地蔵さんの作風とは違って、感情が迸るような力強さと異形の生物然とした勢いが感じられます。
アールブリュットとカテゴリーされる作品には、プリミティブな印象や何か未知の生き物のような魅力を感じます。



「オニ」と並ぶオブジェは吉川秀昭さんの「目・目・鼻・口」だと思いますが、これだけ並ぶと誰にもその存在を知られていない未開の地に住む人間の原始信仰のような雰囲気を想像してしまいます。
「目・目・鼻・口」はシンボリックなモニュメントのようであり、近代陶芸にもあるかもしれないと思ってしまうようなシンプルながら独創性がありますね。



同じお地蔵さんでも「正巳地蔵」と大原菜穂子さんの「菜穂子地蔵」とでは全く違います。
ユーモラスに笑っている「正巳地蔵」に対して、「菜穂子地蔵」も笑っているのは同じでも優しさやはにかみを感じるような静かな笑顔です。
こうして混じり合うように展示されると2つのお地蔵さんの魅力が広がります。後方にはオニが控えている訳ですから、見ている方はお地蔵さんたちに守ってもらっている心境になります。



得体のしれない生き物のような作品は、鎌江一美さんの粘土作品。
「やまなみ工房」の紹介では鎌江さんは“恋をしている彼女”とされていて、憧れの人と話すため、作品を見てもらうため、そして褒めてもらう想いが創作に込められているという。



粘土で原型を作ると、その表面全てを細かい米粒状の陶土を丹念に埋め込んでいって作品が完成されていくという。
埋め込まれていった粒に覆いつくされた作品は、異形の肌感覚を持った質感に覆われていて、混沌から生まれ出た生命のような印象さえ受けます。





滋賀県立美術館での「人間の才能 生みだすことと生きること」でも展示されていた井村ももかさんは、カラフルな布に糸を縫い付けた作品を作られます。
今回は12個の作品が展示されていましたが、作品が積み上げられるように展示されることの多い井村さんの作品にしては少し違和感のある展示方法でした。



壁には川内倫子さんの写真が展示されている。
川内さんは「やまなみ工房」で1年半の間、撮影を続けられていたといい、どの写真も作家たちが作品制作に没頭する様子を、自然な日常の姿で撮られています。



中の人達の一員になったように打ち解けていないと、こういう自然な姿の写真は撮らしてはもらえないのではないかと勝手に推測します。
川内倫子さんの写真は、たねやグループの冊子『La Collina(ラ コリーナ)』で偶然見たのが最初で、2019年に「日野まちかど感応館」で開催された「いのちといのち」展に行って以来です。

ギャラリー入口に貼られた川内さんの言葉を紹介します。
“いつも自分以外の誰かと比べて自分を追い込んだり、過去の失敗を悔やんで未來を憂い、今現在に自分がいなかったりする。”
“毎回やまなみ工房に来るといつのまにかその闇から逃れ、なんだかすっきりと洗われたような気持ちになる。”
“目の前の人とただ笑い、制作に集中している姿を見て自分も一緒に無心になり、自分のなかの宇宙を再確認する。”



湖のスコーレを出て市街地の町並みを歩いていて面白いマンホールの蓋を発見しました。
合併前の旧長浜市のマンホールの蓋は豊臣秀吉にあやかった「千成瓢箪」と思っていましたが、これは石田三成の旗印の「大一大万大吉」をモチーフにしています。

石田三成は長浜市出身の武将でしたが、江戸時代以降は勝者によって作られた歴史に従って、悪者として語られてきた人物でした。
近年になって光成の再評価が進んでおり、「大一大万大吉」の旗印にも光成の意思が感じられます。
マンホールは左右に光成の兜を模した脇立、旗印に居城であった佐和山城、上には下がり藤。




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「バンクシー&ストリートアーティスト展~時代に抗う表現者の声よ響け」~佐川美術館~

2022-04-09 06:06:16 | アート・ライブ・読書
 壁に絵を描く行為を日本では“落書き”といい、横文字に直すと“グラフィティ”と呼ばれます。
ニューヨークのダウンタウンなどを舞台にした映画では壁や電車にカラフルな落書きがされている光景を見ますし、日本でもスプレーを吹き付けた落書きを見かけることが多々あります。
勿論、許可を受けたり依頼されたりして描かれたグラフィティも壁・電車・シャッター・車などに多く見られ、人の視線を釘付けにしたり気持ちを和ませてくれる絵も多い。

今回の美術展に登場するバンクシー&ストリートアーティストは、違法的な落書きに始まったグラフィティがストリートアートへと発展して、完成度の高い作品へ変遷していく過程がみえます。
サザビーズやクリスティーズのオークションで20億円以上の価格で落札されたなどでも有名なバンクシーは、今回の美術展で65点の作品が展示。
日本でもバンクシー作なのでは?と話題になったこもあって聞き覚えのある名前とはいえ、実像はイギリスを拠点とする正体不明のアーティストとされています。



美術展は5つのカテゴリーに分かれており、「バンクシー以前:グラフィティの時代」での12名のアーティストの作品35点を紹介。
次の「バンクシーとストリートアートの進化」ではスプレー缶を使った荒っぽさのあるグラフィティから完成度の高いストリートアートへ進化していったことが感じられる展示となる。
TVBOYの「フィンセントのセルフィー」ではゴッホがスマホで自撮りしている絵や、バンクシーの「風船と少女」をガラスのケースに入れた作品に「破産した場合はガラスを割る」など思わず吹き出してしまう作品がありました。

バンクシーはこのカテゴリーでは2作品。
1つは顔を隠したバンクシーの写真、もう一つはWelcomesと縫い付けられた玄関マット。
このマットは地中海のビーチに打ち上げられたライフジャケットの布地を使って、ギリシャの難民キャンプの女性に制作してもらった作品で、収益はすべて難民女性やその家族の元に届くのだという。



「インスピレーションの始まりと根源」ではバンクシー作品が11作展示され、アンディ・ウォーホールをパロったような作品や大手企業を皮肉った「ほとんど役に立たない」や「HMV」など。
またベトナム戦争でナパーム弾で大怪我をして泣きながら逃げていく少女(ピュリツァー賞受賞写真)を使って、両手をそれぞれミッキーマウスとマクドナルドが手を引いて歩く戦争を風刺した作品の「ナパーム」。

「バンクシー:作者、アーティストを越えて」ではイギリスのロックバンド「ブラー(Blur)」のCDジャケットなどが展示されていましたが、残念ながら90年代のロックミュージックの時代はロックに関心が薄れてたので知らない。
またエリザベス女王とダイアナ妃を入れ替えて作った偽札の「10ポンド紙幣、Dの肖像」はパフォーマンスでバラまいたところ、実際に使われてしまったという逸話もあるとか。



バンクシーは屋外でペインティグしている途中で警察に見つかり追われて逃げたことがあり、厚紙を切り抜いてスプレーを吹き付けるステンシルという手法を編み出して、時間をかけずに作品を作るようになったといます。
美術館に忍び込んで作品を展示したり、オークションで落札された作品をシュレッダーにかけられたことで更に落札価格があがったという「風船と少女」など話題に欠かない作品などゲリラ的な活動がどうしても目立つ。

「バンクシー:制度に対する芸術」では、爆弾の代わりに花束を投げようとする兵士・紛争でボロボロになった都市の残壁に描いた猫・拳銃の代わりにバナナを構えるパルプ・フィクションの一場面(タランティーノの映画)。
ピンクのリボンを付けた戦闘ヘリコプター・銃を構える警官の顔がマンガチックなスマイル顔・並んでいる兵士の顔が全てマンガチックなスマイル顔・ボーリング場で爆弾を転がす中年男、ここにバンクシーの信念がありそうです。



バンクシー作品からは、戦争や紛争・コロナ渦・人種差別や資本主義・政治に対する批判や風刺などのメッセージ性が感じられます。
ロシアのウクライナ侵攻が毎日のように伝えられる中、バンクシーの反戦への思いや批判が心に突き刺さります。


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絵本「トラックにのったクマ」早川鉄平~ヤンマーミュージアム~

2022-04-06 06:06:06 | アート・ライブ・読書
 米原市の伊吹山の山麓で暮らし、伊吹の自然と動物たちを主題に切り絵作品を創作されている早川鉄平さんは、企画展やインスタレーションで精力的に活動されていて企画展があるたびに見に行っている作家さんです。
今回の企画展はヤンマーミュージアムでの「トラクターにのったクマ」ということですので、農業機械のトラクターと自然界の動物のコラボとはどんな企画なんだろう?と楽しみにしてヤンマーミュージアムへと向かいました。



長浜駅前にはちょうど発車待ちの無料シャトルバスが停車中。
さっそく乗せてもらいヤンマーミュージアムへのバスの旅と洒落込みました。



ヤンマーミュージアムの前庭にはショベルカーとクルーザーが置かれてあり、黄色のショベルカーの前には同じく黄色の菜の花が花盛り。
ミュージアムには子供たちが遊べる“チャレンジ体験ミュージアム”がありますが予約制となっているため、次の入場時間を待つ大勢の子供連れが行列を作っていました。



早川鉄平さんの切り絵が展示されているエントランスは、予約なく入ることができますので、並ぶ事なく入館する。
エントランスの入口には早川鉄平さんの切り絵のボードとトラクターが展示されていて、トラクターのボディにも切り絵が貼られている不思議なコラボです。



来館した日は“絵本完成記念トークショー&早川てっぺい切り紙ワークショップ”が開催されますが、こちらは先着12組で受付終了。
ワークショップが受付終了となっているのを知りつつも、この日を選んで来館したのは、この日だけ絵本「トラクターにのったクマ」が無料プレゼントされる特別な日だったからです。



「トラックにのったクマ」の原画展は、エントランスの通路での展示となっており、貴重な原画が丁寧に展示されていました。
しかし、これだけ見ても物語の内容が分からない。
なぜ宇宙服を着たクマが宇宙の空間でトラクターに乗って漂っているのでしょう?





ポストカードになっている子ぐまは、トラクターに興味津々の様子。
トラクターに乗り込んでしまった子ぐまの冒険譚はここからが始まります。



絵本を読んでから原画を見直すと、それぞれの原画に込められたドラマが心に響きます。
早川さんは、精密で親しみを感じる切り絵作家であると同時に優れたストーリーテラーでもありますね。



エントランスにはヤンマーのマスコットキャラクター「ヤン坊マー坊」の歴史を展示した一角がありました。
“ぼくのなまえはヤン坊♪ぼくのなまえはマー坊♪”のCMは誰もが口ずさんだことのある歌ですが、「ヤン坊マー坊天気予報」は2014年に終了しているようですね。
どうりで最近この歌を聞いたことがない。




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スプリングエフェメラル カタクリの花をパチリ!

2022-04-03 08:05:05 | 花と蝶とトンボと昆虫
 毎年、春の季節になるとカタクリの花が待ち遠しくなります。
カタクリの花はスプリング・エフェメラル、春の妖精と呼ばれる早春の花で、ウグイスが囀り始めて桜が咲きかけた頃に、落葉樹林の林床などで咲き始めます。

カタクリの花にギフチョウが留まっているシーンを楽しみにしているのですが、花が盛りの頃とギフチョウが飛び交う時期がジャストのタイミングになる機会は中々巡ってきません。
今森光彦さんが自然写真の「撮影のチャンスは1年に1回だけです。何月何日の何時何分に、この場所にいなかったら、この光は二度と撮れません」と語られるように、出会いのチャンスは限られている。



従って、カタクリの花には出会えるけどギフチョウには出会えない、ギフチョウには出会えたがカタクリの花期は終わっていたということが多々あります。
この日もカタクリの花は盛りを迎えていたものの、気温が10℃と肌寒くギフチョウの出現は望めず、花を見て帰ることになりました。



カタクリの花は朝は花弁が閉じていますので、花被片が開いて反り返ったようになるまでに時間がかかります。
また、カタクリの花は記憶や写真の中では大きいイメージが残ってしまいますので、1年おきにしか見ないカタクリの花は驚くほど小さく感じます。
サイズ感ということでは、季節の野鳥でも残像のイメージと実際の大きさの違いに驚くことがありますね。



同じスプリングエフェメラルと呼ばれる仲間のショウジョウバカマもチラホラと咲いている姿に出会えました。
花によって違う花のように見えてしまいますが、この違いは花期の進行具合によって外観が違うことによるものだそうです。





天気予報は晴れだったものの、すぐに雲がかかってしまいましたので、空を見上げて雲の切れ間待ちといった感じでしたが、風上の空が雲で覆いつくされてしまったので撤収。
ゼンマイがニョキと伸びていたり、フキの小さな若葉も生え出していて、木の上にはエナガやシジュウカラ。
後方の山からはウグイスの囀りがよく聞こえてきて、朝の早い時間にはイカルの囀りも聞こえていました。



近所で咲く桜の花もそろそろ三分咲きといったところ。
大雪で雪に埋もれた長かった冬から、花々が咲き誇る春へ。日本は季節の変化が豊かな国ですね。


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早尾神社の板碑と山上不動堂~大津市山上町~

2022-04-01 06:08:08 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「早尾神社」の裏山には幾つかの巨岩と聳え立つように大きな「千石岩」があり、その巨岩群はかつての早尾神社の磐座だったのであろうと感じる神奈備の山でした。
山麓に祀られる「早尾神社」は、今から1200年前に坂本日吉七社の早尾大神を分霊して、不動像を刻み三井寺の守護神として建立されたという。

御祭神には「武速素盞鳴命」と「 猿田彦命」をお祀りし、境内社には「八幡神社」「 蛭子神社」「 児太友社」、参道の横には「稲荷神社」が祀られている。
しかし、「早尾神社」も山門派(比叡山延暦寺)と寺門派(三井寺)の対立により、幾度となく灰燼に帰したとされます。



参道の横には細長い石柱のような「板碑石仏」があり、高さが3m近くある。
阿弥陀坐像が彫られているというこの石碑は一説には鎌倉期のものだとも言われており、滋賀では見られる場所の限られている板碑の中でもかなり特徴のある板碑のように思います。



板碑は、中世に盛んに作られたとされる供養塔で、主に関東地方で盛んに造られたといいます。
阿弥陀如来坐像も風化の跡はみられるが、その姿ははっきりと残っており、神社の参道に祀られているのが不思議にも思える。
早尾神社は三井寺由来の鎮守神の神社ですから、神仏習合の名残りが残っているのでしょう。



現在の社殿は昭和57年に建て替えられたものといい、回廊の中には中央に本殿、左に児大友社・右に蛭子社と八幡社の社殿が並ぶ。
境内社の「児大友社」は、飛鳥時代の豪族で園城寺(三井寺)の開基とされる大友与多王を祀る神社で、大友与多王は壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子だとされています。
わずか5年で廃都となった近江大津京の物語が偲ばれます。





大津京の時代には「崇福廃寺」「南滋賀町廃寺」「穴太廃寺」「園城寺の前身となる寺院跡」があったといい、渡来人による大陸の新しい文化が受け入れられていた地域とされます。
寺院群は遥か昔に廃寺となってしまいましたが、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)や早尾神社や山上不動堂は今も信仰が続いている。



「早尾神社」の参道を谷のような場所に降りていくと「山上不動堂(山上浪切不動尊)があり、密教あるいは修験道の修行場特有の厳粛な空気が漂う。
「山上不動堂」は、園城寺(三井寺)の祖とされる智証大師・円珍によって開かれた御堂だとされ、不動明王の摩崖仏を本尊として祀るという。



御堂の下には‌山から引き込んだ水が落ちる水行の行場があり、水を手で受けてみると冷たいのは当然としても想像以上に勢いのある水量でした。
密教や修験道の水行の場の特有の緊迫した空気感は、場所自体が持つ力なのか、千年前の昔からここで繰り返し修行した人々が放ったエネルギーの蓄積なのか。



水行の場の最奥には「不動明王石仏」と眷属の「制吒迦童子」と「矜羯羅童子」が祀られています。
「不動明王」は大日如来の化身ともされ、迷いの世界から煩悩を断ち切るよう導いてくれる仏で、滝行や修験の場でお会いすることが多い。



水行の行場の上には懸造りの不動堂があり、早尾神社へと続く参道に沿って組まれた3段の石段には奉納されたと思われる石碑が並びます。
行場の前の広場のような場所には井戸と思われるものがあり、三井寺との深いつながりを伺わせる。



不動堂内には護摩壇があり、奥には御簾が掛けられた奥に不動明王摩崖仏が祀られているようです。
「山上不動堂」も寺門派(三井寺)と山門派(比叡山延暦寺)との法脈の違いから幾度となく焼き討ちにあい、千余戸も消失したこともあったといいます。
その供養のため、仁治三年(1243年)に不動明王の摩崖仏が開眼供養され、今も修験道の山伏姿で勇壮な法要が営まれているといいます。



不動明王摩崖仏は御簾の中に祀られているため、その姿を確認することは出来ませんが、不動堂内には写真が置かれているため姿を伺い見ることができる。
公開されている写真を見ると、不動明王立像の横には眷属の二童子も彫られているようである。



この山麓には山中に聳え立つ「千石岩」や巨石群があり、麓には鎌倉期の作とされる背の高い「板碑石仏」のある早尾神社。
厳粛な空気の漂う山上不動堂には「摩崖不動仏」と、修験道や密教・神の世界が広がります。


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