僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~長浜市 己高山 鶏足寺(旧飯福寺)~

2016-11-29 18:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の北部、旧木之本町の古橋地区にある己高山の麓に鶏足寺といえば、紅葉の名所として有名で、多くの観光客の方々が紅葉散策に訪れられます。
寺院としては既に廃寺となっており、一部の建物があるだけですが、かつては隆盛を誇った仏教文化圏があったそうです。

己高山(こだかみやま、923m)は、近江国の鬼門にあたり古代からの霊山・修行の場であったといわれています。
奈良時代になると北陸地方で栄えていた白山信仰(白山に関わる山岳信仰)の影響を受け、独自の「己高山仏教文化圏」が栄えたとされています。



 

鶏足寺は奈良時代の735年に行基(法相宗)が開基し、白山信仰の祖である泰澄(修験道)も修行していたとされています。
その後、荒廃していた寺院を平安時代の799年に最澄が再興し、奈良仏教・白山信仰・天台密教の影響を受けて「己高山仏教文化圏」が築かれていったようです。



1299年になると真言宗豊山派に改宗されて、江戸時代末期まで栄えたようです。
明治になると、廃仏毀釈の影響か衰退していき、1933年に焼失してからは廃寺となってしまったようです。
鶏足寺(旧飯福寺)の由来は分かりにくいのですが、己高山の五箇寺の一つだった「観音寺」の別院として「鶏足寺」「飯福寺」があったようで、現在は「旧飯福寺」があった場所が「鶏足寺(旧飯福寺)」と呼ばれているようです。



石段を登っていくと上に本堂がありましたが、寺院として機能している感じはしませんでした。
境内の各所には、かつて存在した寺院や坊舎の跡地に石碑が建てられており、隆盛期には大寺であったことが分かります。
下の護摩堂も比較的新しい建築物のようで、こちらも機能している感じはありませんでした。



この日は紅葉真っ盛り(ややピークは過ぎた)の晴天の祭日でしたので、とんでもない数の方が紅葉刈りに来られており、駐車が満杯だったため高月町の近江リゾートまで戻ってシャトルバスでの移動になりました。
参道の紅葉のレッドカーペットは通行禁止でしたので、踏み荒らされることない状態で見ることが出来るようになったのはいいアイデアですね。



境内には更に上へ行く石段がありましたので案内の人に聞いてみると、“観音堂があります。石段は100段くらいです。”と教えて頂いて、また石段を登って行きました。
観音堂には以前は「魚籃観音(ぎょらんかんのん)」が収められていたそうですが、現在は「世代閣」という区民の浄財によってのみによって建てられた収蔵庫に安置されています。




魚籃観音立像(江戸時代初期・県重要文化財)・・・ポストカード

「世代閣」には「旧 世代山 戸岩寺」の仏像や仏像仏画・古文書などがおさめられて奈良時代の「薬師如来立像(重要文化財)」や「十二神将(重要文化財)3軀」など見応えのある仏像が収納されていました。
境内には「旧戸岩寺」の本堂が残されており、この寺院の本尊であった薬師如来像が祀られていたのかもしれません。



                             
薬師如来立像(奈良時代・重要文化財)             十二神将3軀(奈良時代・重要文化財)・・・ポストカード


文化財収蔵庫は「世代閣」とは別に「己高閣」という国庫の補助で建てられた収蔵庫がありました。
「己高閣」には鶏足寺の十一面観音立像(平安時代初期・重要文化財)などが収められていて、両方の収蔵庫で約90軀といわれる仏像が安置されているようです。

 
十一面観音立像(奈良時代・重要文化財)            兜跋毘沙門天立像(平安時代)・・・ポストカード

古橋地区は大通りから村を抜けて鶏足寺方向へ歩いていくのですが、境内の最初に「與志漏神社(よしろじんじゃ)」の大鳥居があります。
御祭神は、「神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)」と「「波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)」で前者は「スサノオノミコト」、後者は「淡海臣の祖」とされている神様だそうです。



神社は、東西2里・南北2里の氏神として崇敬された大社であったと社伝に伝わり、平安時代の「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)」にある式内社とされています。





里山ムード満載の小路では地元で採れた柚子や赤唐辛子、甘物などが格安で並んでいて購買欲をそそります。
柚子はよく売れていたので、近くの柚子の木から収穫しながら販売で、店番をしている奥さんから催促されながら収穫に忙しそうな旦那さんの様子があったりして、なんとも気持ちの和む光景でした。


(小路の横にある赤唐辛子畑)

何ヵ所かでは、地元の小学生がお店で大きな声で地元産のお米を売っていたり、「オオサンショウウオの研究」と題して数枚の画用紙に手書きした絵を元に発表会をしている微笑ましい姿もあります。
紅葉・仏像・のどかな田園地帯に住む人々の活力。どこか遠くへ旅に来た気分でしたよ。


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御朱印蒐集~湖南三山 阿星山 長寿寺~

2016-11-27 08:20:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「善水寺」「常楽寺」と参拝して、湖南三山の最後に訪れたのは、「長寿寺」になりました。
同じ湖南三山の「常楽寺」と同じ地区にあることから、「常楽寺」を西寺(にしでら)と呼ぶのに対して、「長寿寺」は東寺(ひがしでら)と呼ばれています。

「長寿寺」の寺伝によると、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建し、聖武天皇の皇女誕生に七堂伽藍を建立し長寿寺と名付けたとされていますので、「常楽寺」とほぼ同様の歴史を持った寺院のようです。
開基は、「良弁(東大寺初代別当)」とされ、奈良時代の天平年中(729~748年)の創建とされていますので、「常楽寺」よりやや遅れて創建されたのかと思われます。



平安時代には阿星山を拠点とした山岳信仰が栄え、阿星山五千坊と呼ばれるほどの大仏教圏が広がっていたと言われます。
五千坊というと、とてつもない数になりますが、その中の寺院として「長寿寺」および「常楽寺」があったそうです。
その歴史があって「長寿寺」と「常楽寺」の山号は両者とも「阿星山」となっています。



「長寿寺」の本堂は国宝に指定されていますが、貞観年中(859~877年)に焼失(リーフレットより)、現在の本堂は鎌倉時代前期とみられる(説明板より)とあります。
鎌倉時代には源頼朝、室町時代には足利将軍家が祈願所となっていたが、織田信長により三重塔は安土城へ、楼門は栗東市の連台寺へ移築されてしまったそうです。





本堂の内陣には、秘仏である子安地蔵が国宝である春日厨子の中に安置されていますが、この仏像は50年に一度の御開帳となっています。
前回は2012年だったということですから、当方に見る機会はない仏像ということになります。
内陣には「阿弥陀如来坐像(平安時代藤原期・重要文化財)や「釈迦如来坐像(平安時代藤原期・重要文化財)」などが安置されていて、湖南三山を通じて言えることですが、仏像の宝庫のような寺院です。



本堂から少し登ったところには収蔵庫があり、「丈六阿弥陀如来坐像(平安時代藤原期・(重要文化財)」が安置されていました。
丈六(1丈6尺 (約 4.85m)の半跏像(約8尺 (2.43m)ですからその迫力に圧倒されてしまいます。

境内には小さな池の中に弁天堂が建てられていました。
これは文明16年(1484年)室町時代の建立で重要文化財に指定されています。



ところで、寺院の入り口の門をくぐって入ると二手に参道が分かれていて、左手の道の先には「長寿寺」の鎮守社である白山神社がありました。
室町時代後期の作とされる拝殿(写真なし)は重要文化財に指定されており、白山神社の御祭神は白山信仰で祀られる「白山比咩大神 (菊理媛神)」が祀られているとありましたので北陸の白山信仰がここまで来ていると思われます。





寺院ではないのですが、出口付近に長寿庵という建物があって、室内では竹灯篭の展示をされていました。
中に居られた方から“外の灯篭を真ん中にして撮るといいよ”とアドバイスして頂いて撮ってみました。
うまくは撮れないのですが、実に雰囲気があって精密な竹灯篭でした。





湖南三山のある湖南市は、2004年に甲賀郡石部町と甲西町が合併して発足した市で、合併に伴い「長寿寺」「常楽寺」「善水寺」の3つの寺を湖南三山と呼ぶようになったそうです。
いずれの寺院にも国宝・重要文化財の建築物や仏像群などがあり、湖南三山は魅力のある寺院が揃っているなぁと感じます。


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御朱印蒐集~湖南三山 阿星山 常楽寺~

2016-11-24 18:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖南三山は「常楽寺」・「長寿寺」・「善水寺」の3つの寺のことを言いますが、中でも「常楽寺」と「長寿寺」は同じ地域にあることから、「常楽寺」を西寺(にしでら)・「長寿寺」を東寺(ひがしでら)と呼ばれているそうです。
創建は、飛鳥時代の和銅年間(708~715年)に元明天皇(第43代天皇・女帝)の勅命により、良弁(東大寺初代別当)が開基した阿星寺5千坊の中心寺院として開基されたと寺伝にあります。

また奈良時代に聖武天皇が都を開いた紫香楽宮(742~745年)の鬼門守護として栄えたようです。
平安時代になると皇室の帰依を受けて寺運は隆盛し、延暦年間(782~805年)には天台宗に改宗され、天台仏教園が広がっていったとされています。



寺院は、阿星山(あぼしやま)の麓の閑静な集落の中にあり、境内へ入っていくと本堂・三重塔が紅葉の後方に見えてきて、“さすが紅葉の湖南三山!”と拝観できたことが嬉しくなります。
国宝に指定されている本堂は1360年に焼失していますが、同年に観慶らによって再興されたとされています。





入母屋造・檜皮葺(ひわだぶき)の本堂は、桁行七間(12.7)・梁間六間(11m)の重厚な建築物でした。
堂内には、内陣に本尊で秘仏である千手観音(重要文化財)こそ逗子の中で見ることは出来ないものの、両脇に眷属である「風神・雷神」と「二十八部衆立像」が3段の須弥壇に並ぶ姿は非常に迫力がありました。

しかし、この内の2体(風神、摩ご羅伽王)は無住職時代の1981年に盗難にあって行方知れずになっていて、須弥壇の本来安置される場所は空席になっていました
後堂にも「木造釈迦如来坐像」(平安時代・重要文化財)などが安置されており、仏像群にも魅力の多い寺院でした。



本堂の左手には、室町時代に再建されたという三重塔も国宝に指定されていて、高さ23mの立派な塔が紅葉の間から見えてきます。
三重塔の2枚の瓦には1400年と記されているとのことですので、室町時代でも初期の建築物と考えられそうです。







本堂と三重塔の周りには「三十三体の観音めぐり」という西国三十三箇所巡りを模した散策コースがあります。
コースになっている高台を歩いていくと観音石仏が順番にあり、御利益はともかくとしても、いろいろな角度から本堂や三重塔の風景を見られるのは中々魅力的でした。







寺院や古刹巡りをしていると、建築物や仏像群の素晴らしさに驚いてしまうことが多々あります。
常楽寺は紅葉の期間以外は予約拝観になっているそうで、普段はひっそりとした古寺なのかと思います。
そこで静かに眠っている仏像群の何と魅力的なことか。


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御朱印蒐集~湖東三山 岩根山 善水寺~

2016-11-22 20:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖東地方にある湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)はそれぞれ歴史や風格のある寺院ですが、湖南地方にも湖南三山(常楽寺・長寿寺・善水寺)の3つの寺院があります。
湖南三山も湖東三山と同様に紅葉の名所と呼ばれていますが、三山がそれぞれ有する歴史や仏像についても引けを取らない寺院とされております。
湖南三山は位置的なこともあって馴染みがなかったのですが、今回1山目として善水寺へ参拝に訪れることが出来ました。

善水寺は岩根山(405m)の中腹に佇んでいる天台宗の寺院で、山号にもなっている岩根山は通称一二坊山と呼ばれ、かつては嶽、甲賀山とも呼ばれていたそうです。
一時は26の坊舎があったほどの興盛で、全山で数十名から百名を超える僧侶が在住していたと寺伝に伝わるとされています。



寺院の草創は、奈良時代の710年頃に第43第天皇の元明天皇(天智天皇の皇女、すなわち女帝)の勅命により鎮護国家の道場として「和銅寺」と号されて建立されたのが始まりだそうです。
その後、平安時代の800年頃、桓武天皇(737~806年・第50代天皇)が病気になった際、最澄が法力により善水寺の霊水を献上したところ病気平癒した縁で「善水寺」の号を賜ったと伝わります。



善水寺の本堂は1360年に近くの坊よりの出火の延焼により焼失。
幸い堂内の仏像は運び出されて、再建された本堂へ戻されたとされています。
しかし、1571年に織田信長の焼き討ちにあってしまいますが、運良く本堂だけは焼き討ちをのがれ、現在に至るそうです。



参道の途中には「不動の大岩」と呼ばれる、東西6m・南北5.5m・高さ8.2mの巨石がありました。
上部には「磨崖不動明王」があるとされているのですが、これは見つけることは出来なかったのが残念です。



境内には、鎌倉時代後期の作とされる地蔵磨崖仏もひっそりと祀られていました。
古刹の雰囲気の漂う境内をウロウロと歩きながら、山の古寺を楽しむ時間はとてもリラックス出来る時間です。



本堂は焼失の後、南北朝時代の1366年に再建されたもので、平安時代の比叡山延暦寺の根本中堂の仏像を模造したものとされています。
根本中堂は織田信長の時代に焼き討ちで焼失していますから、平安時代の天台密教を伝える貴重な建築物ですと住職さんが説明をして下さりました。



この本堂は国宝に指定されている建物で、桁行七間・梁間五間(約12.7m×約9m)の大きな建物になっています。
下がれるだけ下がっても写真には収まりきらない大きさです。



善水寺とはこれほどの寺院だったのかと少々驚くこととなりました。
正面の中央には開き戸がありますが、堂内へは回り込んで側面の入口から中へ入ることになります。



本尊の薬師如来座像(平安時代・重要文化財)は秘仏のため逗子の中に安置されていて非公開になっており、御開帳される周期は不定ということでした。
前回は2015年に御開帳されたということで次回は未定とのことです。

この薬師如来像は明治37年の修理の時に胎内からり多量の稲籾と正暦4年(993年)の年号が記された結縁校名記(文書)が見つかったそうです。
その稲籾は逗子の前に置かれてあります。
仏像の胎内に稲籾を入れることはあるそうですが、この稲籾は現存する日本最古のものだと言われています。


「薬師如来像」(重要文化財-平安時代-)...ポストカード

本尊の逗子の横には四天王立像の「広目天」「多門天」「増長天」「持国天」(全て平安時代作・重要文化財)が逗子の横に二躯づつ並び、そのやや後方には「梵天立像」「帝釈天立像」(二躯とも平安時代作・重要文化財)が安置されています。
その前には薬師如来の眷属である十二神将(鎌倉時代作)が安置されていました。


「帝釈天像」・「梵天像」(共に重要文化財-平安時代-)...ポストカード


「兜跋毘沙門天立像」(重要文化財-平安時代-)...ポストカード

後堂(逗子の裏側)にも「不動明王座像」「兜跋毘沙門天立像」「僧形文殊菩薩座像」「金剛力士像(二躯)」(全て平安時代作・重要文化財)などが安置されており、全部で30躰あまりの仏像が安置されているということですので仏像ファンには堪らない寺院です。


「金剛力士像」(重要文化財-平安時代-)...ポストカード

境内には他にもお堂があって、本堂のすぐ横に元三大師堂(1713年再建)がありました。
元三大師(良源)は延暦寺中興の祖で966年には天台座主にまでなった方とされていますが、“おみくじの原型を作った人”として名前を聞かれた方もあるかもしれません。
元三大師の出生地は滋賀県長浜市の虎姫町とされていて、虎姫では「角大師」の田圃アートなどで元三大師信仰が続いているのは興味深いところです。



石段を下っていくと観音堂がありました。
堂内を見て思わず声をあげそうになったのは、中に安置されていた「聖観世音菩薩(鎌倉時代)」を見た時でした。
金網が貼られた奥に見える丈六の座像ですが、“こんな人気(ひとけ)のない場所にこんな立派な仏像が祀られているとは!”と予想していなかったこともあってこれには驚きました。



実はこの日、時間しだいで湖南三山の他の2寺(常楽寺・長寿寺)にも足をのばしてみようかと思っていたのですが、この善水寺の仏像群にすっかり堪能してしまいました。
旅行に来ていた訳ではないので、“湖南三山を一気に巡ってしまうのはいかにももったいない!”...そんな心境でしたね。


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御朱印蒐集~栗東市 こんぜの里 総社 大野神社~

2016-11-19 20:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「こんぜの里 総社 大野神社」は若い女性に人気の神社ですが、実際にも由緒正しい歴史のある神社です。
金勝山にある金勝寺の鎮守として平安時代後期に建立された神社(社殿では993年)とされています。

かつては「天神社」・「狛坂(こまさか)天神」と呼ばれていたことがあったようですが、明治の神仏分離令により「大野神社」と名を改めたそうです。
御祭神は菅原道真公(すがわら の みちざね こう)ですから「学問の神」ということになります。



菅原道真は平安時代の政治家・学者で、子供の頃から聡明・朝廷での出世も早かったのですが、時の左大臣 藤原時平の讒言によって大宰府に左遷されてしまい、2年後に太宰府で生涯を閉じてしまいます。
都(平安京)では道真没後、天変地異や災害・関係者の非業の死が相次いだため、道真の怨霊と恐れおののき、京都北野天満宮に神として祀ったそうです。
その後、全国に道真への信仰が広がり、道真を祀った神社は全国で一万社以上あるといわれています。



道真公は「天神様」とも呼ばれていましたから、大野神社のかつての名称の「天神社」の名は道真由来となり、金勝山の守護神であったため「狛坂天神」とも呼ばれていたそうです。
山門をくぐると、すぐに楼門がありますが、この楼門は鎌倉時代初期の建築とされ、国の重要文化財に指定されています。



境内に入ると手水舎に立ち寄り、拝殿(祈祷殿)へ向かうこととなります。
この日はなぜか参拝者がなく閑散としていましたが、明るい雰囲気の神社だと思います。



参拝順序に従って歩いていくと弊殿がありますので、ここで参拝です。
さすが人気の神社だけあって、閑散とはしていても神社の活気のようなものが感じられます。



板塀の中には本殿が伺えます。
小ぢんまりとした本殿ですが、屋根に梅鉢紋が飾られているのは菅原道真由来ということですね。



本殿の前には2頭の臥牛の像があります。
これも菅原道真由来で、境内には他にも梅鉢紋に飾られた臥牛の新しい像もありました。



境内には御神木があり、その後ろには観音堂がありますが、堂内には本尊の十一面観音立像(平安時代末期)などが祀られています。
この十一面観音像は廃仏毀釈のおり、神主の屋敷内にあったため運良く処分を免れたそうです。



さて、若い女性に人気の大野神社という理由は、アイドルグループ「嵐」に大野君というメンバーがいて、「大野つながり」で大野神社が嵐ファンの聖地として人気になったことによるものです。
また禰宜の方の名前が「さとし」と大野君と同じだったり、禰宜の方の誕生日が「嵐」の松本潤と同じ等の偶然が重なっていき、嵐ファンが殺到する神社になったそうです。
御朱印にその大野君の誕生日の日付を希望するファンが多く、御朱印帳に頂いた御朱印とは別に“希望が多いのでサービスでどうぞ”と御朱印(日付は11月26日)を大野君のイメージカラーの青い紙で頂きました。



神社にはこういう楽しみ方もあるんだなぁと思いましたが、大野神社は活気があり明るい雰囲気の神社ですね。


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御朱印蒐集~大阪府寝屋川市 友呂岐神社~

2016-11-17 19:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 寝屋川市の神社・仏閣としては「成田山不動尊」(大本山成田山大阪別院 明王院)が有名で、年間通じて多くの参拝客が訪れられます。
その成田山から歩いて数分のところ、住宅街にひっそりと社を構えた「友呂岐神社」がありましたので、参拝をしてきました。

2016年の話題としては、大相撲の9月場所で寝屋川出身の大関・豪栄道が全勝優勝したことは、まだ記憶に新しいかと思います。
豪栄道の故郷・寝屋川市では10月16日に優勝祝賀パレードが行われたそうで、沿道には2万2000人ものファンが詰めかけたそうですね。



友呂岐神社の由来は、室町時代の1456年に後土門天皇北ノ小路新邸を造営し、鎮護神として八幡宮を祀ったのが始まりだとされています。
その後、2度の兵火によって焼失しましたが、1577年に地元の人々によって社殿を再建し、近隣の人が祈願所として参拝されていたそうですから、地域に根ざした神社といっていいと思います。



御祭神は3柱で、応神天皇・茨田連衫子(まんだむらじころもこ)・菅原道真です。
第15代天皇の応神天皇(西暦270~312年)は日本書紀や古事記に出てくる時代の天皇で、実名は誉田別(ホムダワケ)だったという説がある方です。



また当地は大和朝廷の直轄地で「屯倉」が置かれていた地とされていて、応神天皇の子供である仁徳天皇(16代天皇)により淀川の水害を防ぐため、茨田堤(まんだのつつみ)が築かれたそうです。
茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)はその工事の際に人柱にされた方と言われています。



もう1柱の菅原道真は、この地は左遷の時の通路に当たることから道真公を祀る神社が多く、明治43年に三井神社・田井神社・太間神社をこの八幡神社に合併して「友呂岐神社」と改称したそうです。
八幡神の応神天皇(誉田別尊)は「厄除けの神様」、茨田連衫子は「土木建築の神様」、菅原道真は「学問の神様」の3柱が友呂岐神社の御祭神になります。



本殿は小ぢんまりとはしていますが、地元の方らしい方が次々と参拝に来られ、地域に根ざした活気のある神社だと感じられます。



本店の左には摂社の成願稲荷神社が赤い鳥居の奥に収まっています。
御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、五穀・食物をつかさどる神だそうです。
また、石段を登ったところには少し新しいけど福の神の大黒様がデンと鎮座されています。



友呂岐神社は正面の石段から入ると一の鳥居・二の鳥居がありますが、裏側にも東の鳥居がありました。
神社のあちこちに提灯が飾られて活気を感じます。



大社や一宮のような大きな神社はまた別の魅力がありますが、小さくても地域に根ざした神社にはその地域特有の歴史がありますね。
友呂岐神社の秋祭り(秋の例大祭)は10月16日に行われたようですが、奇しくもその日は、ご当地力士の豪栄道の優勝祝賀パレードがあった日ですので、この日は“ハレの日”だったということになりますね。


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ジョウビタキをパチリ!~オスばっかりですが...

2016-11-15 19:55:55 | 野鳥
 しばらく前にジョウビタキがドッと入った感があったんだけど、その後はあまり姿を見なくなっていました。
ジョウビタキは例年落ち着き先が決まっているように思っていたのですけど、今年はちょっと感覚が合わないな。
とはいっても入っている所には複数入っていますので、場所によって密度は随分と違うようです。



近距離に複数のジョウビタキがいて活発に動いていましたが、時々縄張り争いの追っかけっこをしていたかと思うと、気が付けば目の前に留まっていたりするので見ていて楽しくなる。
ジョビタキは、身近な場所にやってくる鳥ですけど、鮮やかで綺麗な小鳥なのが嬉しいところですね。





地面に降りたり、何かに留まったりとにぎやかなことでしたが、見ている方もあっち見てこっち見てと忙しい。



お腹の橙色も綺麗ですが、背中の羽も綺麗な鳥なので、どこを向いていてくれてもOKなんだよね。



まぁジョウビタキさん。3月いっぱいまでよろしくです。


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今シーズン初認の野鳥たち!~マミチャジナイ・ツグミ・イカル~

2016-11-13 17:00:00 | 野鳥
 滋賀県の奥伊吹では初冠雪を観測したとのニュースがありましたが、まだ湖北の山々が白くなっている様子は見えませんね。
“山に雪が積もれば身近な場所に野鳥が増えるんだけどなぁ”と思いつつ、公園を歩いていると...

大量の鳥が鳴いているのが聞こえてきます。地鳴きだったので最初は何の鳥の声か分からなかったのですが、それはイカルの群れで声を聞いているとどこからかツグミの声もしてくる。
いよいよ冬の野鳥が入ってきたかと探していると、木陰にマミチャジナイを発見!



まともに姿を見せてはくれませんでしたが、証拠写真にはなるかな。
マミチャジナイには会える年と会えない年がありますので出足は上々といったところですね。



ツグミも今シーズン始めて見ましたが、枝陰の暗い場所。
見慣れてきたらスルーしてしまう鳥だけど、シーズン初認は嬉しいものです。





それにしてもイカルは多かったですよ。
枝の葉が動いたりしている木陰を探すと、そこに居るのはほぼイカルという状態が続く。



しかし、こういうムクドリ・サイズの野鳥はいたものの、スズメ・サイズの小鳥は少なかったな。
アオジを見かけたけど、場所が暗すぎてダメでした。ホオジロの姿はありましたけどね。





おまけはセイタカアワダチソウの前に留まったモズをパチリ!





11月序盤は冬の野鳥ピークへの上り坂のようにも思いますが、季節が進んできているのは実感出来ますね。


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御朱印蒐集~京都左京区 瑞龍山 南禅寺~

2016-11-11 06:33:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都左京区の南禅寺は日本最初の勅願寺(天皇の発願によって建立された寺院)とされ、京都五山『天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺』や鎌倉五山『建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺』の上に位置する別格の寺院で高い格式を持った寺院だとされています。
創建は鎌倉時代の1291年で、亀山法皇によって開基され、無関普門(大明国師)により開山されたとされています。

鎌倉時代中期の臨済宗の無関普門(むかんふもん)が開山者になっているのは、亀山上皇の離宮に出没する妖怪を降伏(ごうぶく)した功によるもとといわれています。
妖怪は、妖(あやかし)とも物の怪(もののけ)とも言いますが、日本では古代から中世・近代を経て現代にまで出現する妖怪の民間信仰のようなものがありますね。



南禅寺周辺は名物の湯豆腐の店が立ち並ぶなど、すっかり観光化されていて外国人を含む大勢の観光客で溢れかえっておりました。
京都には歴史のある大寺院や神社が数多く残されていますが、とにかく人が多いのが難点です。



いかにも禅寺らしい趣の中門をくぐると、その先に大きな三門(重要文化財)が見えてきます。
三門は1295年に創立されたものの焼失してしまい、1628年に藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したものだそうです。
門の大きさ・柱の太さなど迫力のある三門は別名「天下竜門」とも呼ばれ、日本三大門の一つになっています。





法堂は何度かの火災によって焼失していて、現在のものは1909年に再建されたものだそうですが、三門同様にその大きさにはやはり迫力を感じます。
京都五山・鎌倉五山の別格扱いで日本の禅寺の中で最も格式高い寺院とされていますから当然かもしれませんね。



さて、南禅寺で寺院以外で有名なのは「琵琶湖疏水」の水路閣ですね。大勢の観光客の方が記念写真を撮られていました。
これは琵琶湖の水を京都市内へ供給するための水路で、1890年に竣工して現在も水源として利用されているというレトロでモダンな造りの水路です。





ところで、南禅寺に参拝した理由の一つは新しい御朱印帳を入手することでした。
購入した南禅寺の御朱印帳の「群虎図」は、狩野探幽の筆により国宝の方丈の内部に描かれていたという「群虎図」を元にしたもののようです。

 

この日は日曜日でしたので帰宅してからNHKの大河ドラマ「真田丸」を見ましたが、奇しくもこの日の第40回「幸村」が南禅寺に絡んだストーリーになっていました。
豊臣家を滅亡させるきっかけとなった方広寺の梵鐘の銘文の『国家安康』を起草したのが、南禅寺の僧である清韓という僧で、植本潤という役者さんが妖しい僧侶の演技をされていました。
同日に訪れた南禅寺のイメージが一転してしまい、南禅寺参拝の何とも妙な偶然が記憶深く残りそうです。


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御朱印蒐集~京都大原 寂光院~

2016-11-07 19:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 “京都大原三千院界隈をゆっくり散策してみたい”と思ってはいるのですが、なかなか機会に恵まれておりません。
この日は京都に用事があったので市内へ向かう道中、一時間ほど時間に余裕がありましたので三千院と同じ大原にある寂光院へ立ち寄ってみました。

寂光院は天台宗の尼寺で、594年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために創建されたとされています。
寂光院初代住持(住職)は聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)という方で、548年に出家した日本仏教最初の三比丘尼の御一人だと伝えられています。



第2代は1165年に入寺した証道比丘尼で、この方は「大原女」のモデルになったとされていて、薪を頭に載せて京の都で行商する姿は京の風物詩として「大原女まつり」として現在まで伝えられています。
第3代で平清盛の息女である建礼門院徳子は、1185年に入寺し壇ノ浦で滅亡した平家一門の菩提を弔いながら終生を過ごすという数奇な運命をたどられた方のようです。



山号を清香山・寺号を玉泉寺といい、その玉泉寺の子院であった寂光院の本堂は、飛鳥・藤原様式および平家物語当時の様式を改修の度ごとに残しながら後世に伝えられたとされています。
1603年には豊臣秀頼が片桐且元に命じて修理、更にその後には豊臣秀頼や淀君、徳川家康らが再興に尽力したとされています。



本堂に祀られる御本尊は六万体地蔵尊と称される地蔵菩薩立像ですが、本堂とともに非常に新しい仏像です。
というのも寂光院は2000年に不慮の火災(京都府警の捜査では放火)で全焼してしまい、現存するものは2005年に復興されたものということです。



境内には「諸行無常の鐘」と称される梵鐘がありました。
江戸時代の1752年に近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次という鋳物師が造られたそうです。
現在の滋賀県栗東市辻の周辺では、江戸時代に全国でも最大規模を誇った鋳物師(鋳造技術者)集団が活躍していたとされていますので、その一人になるのだと思います。

 

また本堂の横には豊臣秀頼の時代に伏見城から寄進されたと伝えられる雪見灯籠 (ゆきみどうろう)が置かれています。
銘文等はないそうですが、秀吉ゆかりの「五三の桐」の透し彫りがあり、数百年に渡ってよく保存されてきたと思います。



境内に参道が閉じられた神明神社という神社がありましたが、廃社なのか由来等が全く分らない神社でした。
同じ山中にある寂光院となにか関係のあった神社だったのかもしれませんね。



寂光院や里山の田舎道には清流が流れていて、気温以上にヒンヤリとした空気が流れています。
山あいの隠れ里のような位置に寺院がありますから、水量の豊富な水は山から流れてくる清流ということですね。



京都大原の幹線道路では立派な角を持った牡鹿や警戒心の薄い牝鹿に遭遇して驚いたのですが、寂光院の中にはモリアオガエルの生息地まであるようです。
水辺では清流に生息する野鳥(カワガラス)の姿を見ましたので、観光客の出入りが多いものの自然が多く残されている場所だということが分かります。


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