僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~彦根市 福聚山 金毘羅宮慈眼寺~

2019-04-29 19:28:28 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 彦根の市街地から多賀大社方面に向かう途中に「金毘羅宮慈眼寺」という神仏混祀の寺院があります。
金毘羅宮は香川県の金刀比羅宮を総本宮とする神社であり、慈眼寺は曹洞宗の寺院であるにも関わらず、神仏が混祀されている少し変わった寺院となっています。

現在でも神仏習合の名残りのある寺院や神社は多数あるとはいえ、金毘羅宮慈眼寺は神仏混祀の色合いが強く、神仏分離・廃仏毀釈の影響を受けなかったのか不思議に思えます。
御朱印にも「金毘羅大権現」と書かれていますので、ここは神社か寺院か...とよく分からないままに参拝することになりました。



由緒によると慈眼寺は元は天台宗の寺院であったとされますが、1571年に全山焼失してしまったとあります。
“當寺ハ古へ天台宗ナリシカ信長ノ兵燹ニ罹り諸堂古記録等悉ク烏有ニ帰シ...”
天台宗が盛んだった滋賀では信長の比叡山焼き討ちの影響は大きかったようですね。



金毘羅宮慈眼寺へは鳥居からの入山になりますが、その手前には「三社神社」が祀られています。
三社神社は、熊野三社権現の本宮・速玉神社・那智大神を分霊した神社で、1868年に再建されたもののようです。



慈眼寺はその後“中絶スル了久シ”と長らく荒廃していたようですが、1704年に堅央慧煉和尚が自ら開山となり曹洞宗の寺院として再興したとされます。
1744年には讃岐金毘羅宮から金毘羅大権現を請勧して祀るようになったとも伝わります。



石段を登って本堂のあるエリアまで来ると、寺院らしく鐘楼と手水舎があります。
こう見るとやはり寺院としての雰囲気が強くなってきて、居心地の良さを感じます。
ここで言う居心地とは現代人の感覚ではどうしても神仏を分けてしまうため、どちらかに寄ることで落ち着くということなのかと思います。



鐘楼の反対側に回り込むと「法華塔」と彫られた宝篋印塔がありました。
また、鐘楼の右の祠には多数の地蔵石仏が祀られています。



ここで目をひくのはそびえ立つ「慈眼寺のスギ(金毘羅さんの三本杉)」と呼ばれる3本の巨木杉ではないでしょうか。
三本の杉は、それぞれ幹周が5.1m・5.1m・4.1mあり、樹高は38m・40m・24mと圧倒されるような迫力のある御神木です。
三本杉は今から1260年前に植えられたものと言い伝えられており、住民の方からは「金毘羅さんの三本杉」として親しまれているといいます。





鳥居から続く参道の正面にあるのは本堂で、庫裡とつながった建物になっています。
誰も居られないようでしたが、正面の障子が少しだけ開いて固定されていましたので、寺院の方が不在でも参拝者が拝めるように配慮がされています。



内陣の須弥壇には曹洞宗の寺院らしく釈迦牟尼仏坐像を中心に脇侍2躰の三尊が安置。



本堂の横には「十一面観音堂」。
金毘羅大権現は本地仏では不動明王・毘沙門天・十一面観音とされることがあり、祀られている十一面観音はその影響があるのでしょうか。
あるいは天台宗時代の信仰の名残りといった方が正確なのかもしれませんし、観音像は一説では行基作といわれることもあるらしい。



慈眼寺の十一面観音立像は秘仏となってはいますが、年に一度公開されているとも聞きます。
実際の十一面観音を拝観することは出来なかったものの、写真では見ることが出来ます。
この観音様からはこちらをじっと見て、何か問いかけられているいるような視線を感じますね。



金毘羅宮慈眼寺の境内は山の上方へ延びるような形となっており、一番高い場所にある金毘羅宮へは石段を登っていくことになります。
石段は苦になるような段数ではなかったものの、幅が狭い石段だったため傘がさせないのが難点でした。(この時は雨)



参道には金毘羅大権現の紅白ののぼりが多数奉納されており、信仰する方の多さが伺われます。
讃岐の金毘羅権現は山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神ともされており、一度は参拝したいが、中々訪れる機会に恵まれておりません。
当方と同じように、本宮への参拝が叶わない方が身近な金毘羅さんとして敬っているのかもしれませんね。





拝所の障子を開いてみると外拝まで入ることが出来ましたので、ここで祈願させていただきました。
大草鞋が奉納されているため仁王門を連想させますが、金毘羅大権現には足腰安全のご利益があることによるものといいます。



拝所には「足腰安全祈願の車」が置かれており、これには足腰安全の逸話があるようです。
1811年、永年足腰たたず不自由な身を嘆いていた近江浅井町の住人が、金毘羅大権現の御利益を聞き子車に乗せられて参籠したといいます。
参籠が満願した時、足腰が立って自由に歩くことが出来るようになり、御利益を受けた体験を後世に伝えるため車(車椅子)を奉納されたと伝わります。



金毘羅宮慈眼寺には「白象峰」という山号があり、そのためか白い象の模型がありました。
下に台車が付いていますので、もしかすると「花まつり」の時に使われるのかもしれませんね。



「絵馬堂」にはなぜか空海像が祀られており、休憩所を兼ねた場所となっています。
金比羅さんのある讃岐は空海の出生地で、四国は四国八十八ヶ所の遍路の本場ですから、その関係もあるのでしょう。
絵馬堂で頂いたポストカードには平成27年4月に修復されたという「釈迦涅槃図」が印刷されていました。(実物は280×180cm)



金毘羅宮慈眼寺は「井伊家ゆかりの社寺めぐり」の16社寺の一つに数えられています。
16社寺のうち彦根市内にある社寺はさほど規模が大きくはないところが多いのですが、地域に根ざして地域の方の信仰の強い社寺が多いように思います。
この金毘羅宮慈眼寺も地元の方からは「野田山のこんぴらさん」として親しまれているようですね。


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平成の最後に湖北で探鳥!

2019-04-28 16:30:30 | 野鳥
 ゴールデンウィーク前半、すなわち平成時代で天気に恵まれそうなのは今日限り。
元号が変わる事と野鳥には何の関係もありませんが、平成の最後に湖北で探鳥!ということで琵琶湖から田園地帯を巡回してみました。

そろそろ夏の小鳥が来ているかと思って公園を歩いてみたものの、聞こえてくるのは閑古鳥ならぬシジュウカラとカワラヒワの常駐組のみ。
まだ早いのか?もう遅いのか?分かりませんが、令和になってからもう一度見に行ってみることにする。



湖北の田圃では早いところから田植えが始まっており、農耕車が来ないところで探鳥してみると...来てますね。
チュウシャクシギが合わせて20羽くらい確認出来ました。
コチドリも幾つかの田圃でエサ探しをしている姿があります。



おっ!オオジシギか?
と思ったけどタシギでしょうね。



各田圃でにぎやかなのは子供を守って威嚇しているケリでしょうか。
3羽のヒナを連れた家族がいたけど、一緒には並んではくれない。





遠すぎて識別困難なやつはツルシギかしら?2羽でした。



耕運機が耕して水を張ったばかりの田圃にはアマサギが2羽。でも遠い。



代掻きする耕運機の周りにはユリカモメとサギが掘り返された獲物を探しに集まっています。
夏羽になって黒頭巾のユリカモメは8割くらいかな。



キジの方も縄張りを守って、あちこちからホロ打ちが聞こえてくる。
ホロ打ちには大体の周期的な時間があるので待っていたらホロ打ちをやってくれましたよ。







驚いたのは、もうオオヨシキリの声が聞こえるようになってことでしょうか。
鳥見の頻度が低いので、あっという間に湖北の季節が変わっている。



時間軸がバラバラになっていますが、今朝の朝一はミサゴでした。
ウグイと思われる魚を持って、巣へ帰還する途中でしょう。





川べりには珍しくスズガモが番で入っていました。
キンクロハジロの番と一緒にいましたが、ハイブリット化してしまうかも?





最後はもう次ぎの冬まで会えないツグミをパチリ!(先週の確認)



姿または声を確認出来たのは38種。
珍しい野鳥は1種も見つけられませんでしたが、いつの季節にも野鳥が見られる湖北は面白い場所です。
湖北の探鳥場所が減りつつありますので、少なくとも現状維持が希望なんですけどね。


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御朱印蒐集~京都市右京区 獅子吼山 転法輪寺~

2019-04-25 05:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都右京区の仁和寺と龍安寺に挟まれた場所に「裸形阿弥陀像」と御室大仏と呼ばれる高さ7.5mの「阿弥陀如来坐像」を祀る「転法輪寺(轉法輪寺)」があります。
裸形阿弥陀像と御室大仏と聞けば、是非とも拝観したいということで転法輪寺へ拝観を致しました。

転法輪寺は1758年に浄土宗の関通上人によって北野の地に創建されたと伝わります。
大正の時代が終わり、昭和の時代へと変わった頃の1929年には北野から御室の地へ移転したのが、現在の転法輪寺といいます。

 

寺院は仁和寺の巨大な仁王門を通り過ぎて、寺院の東側を進んだ先にあり、知らなければ見逃してしまうようなこぢんまりとした寺院でした。
数台しか停められない駐車場と聞いていましたので停められるか心配していましたが、なんとか空きは見つかりました。
参拝者が多かったにも関わらず駐車場が空いていたのは、おそらく仁和寺とセットで拝観される方が多かったからなのでしょう。



竜宮門のような鐘楼門自体は他の寺院でも見かけるものの、驚くのはその大きさでしょうか。
鐘楼門がこの大きさを必要とするのは、鐘楼に吊るされた梵鐘が高さ9尺(342cm)重さ約4㌧の大きさのものであることも関係していると思われます。





本堂の右側で受付を済ませて堂内に入るのですが、まさかこの中に7.5mの大仏様が安置されているとは想像がつかない感じがします。
とはいえ、受付をしながら堂内の大仏様が少しだけ垣間見えた時には思わずにんまりとしてしまいましたよ。
転法輪寺は本来は観光寺ではありませんので、特別公開にあたって檀家の方を動員しておられたようですが、観光寺とは雰囲気の違った雰囲気に心地よさも感じます。



御本尊の「阿弥陀大佛」は1758年に開眼された仏像で、大きさ由来の迫力もさることながら、五色の光背の美しさも相まって実に見事な仏像です。
通常の阿弥陀如来は胸が見えていたり、片方の肩に衣を纏っていないことが多いのですが、この阿弥陀如来はきっちりと衣を纏っておられます。
御住職は“寒がりの阿弥陀さん”と呼ばれていると説明の方が話されていましたが、衣は清涼寺の釈迦如来像を思い起こさせる造りでした。





大仏さんの右前には1本の木から彫り出された「巨大木魚」が置かれており、その大きさにも驚かされます。
仏像が7.5mの大きさですから木魚の大きさが想像できると思いますが、彫りの細工も見事な木魚ですね。



頭の後ろ側になる光後には櫻町天皇(第115台天皇)御追福のために納められたという鏡が飾られていました。
こういう形で遺品が納められているのは始めて見ましたが、鏡の大きさと右下の大仏様の耳の一部とサイズを比較すると、大仏様のサイズ感が分かるかもしれません。





内陣には木魚が幾つか置かれていましたが、これは読教の時に僧呂が使われるものなのでしょう。
別の棚にはさらに多くの木魚が置かれていましたので、そちらは読教に参加された方が使われるものなのでしょう。
木魚の中には骸骨を形どったものあり、思わずドキッとさせられます。





外陣の壁面には5m×4mと巨大な「釈迦涅槃図」が掛けられていました。
1764年の描かれたものだといい、金色に輝くお釈迦様の周りには弟子・神々・菩薩・獣・鳥類・昆虫などがリアルに描かれています。
諸説ありますが、古い釈迦涅槃図には猫が描かれていないことが多く、猫は江戸時代の後半から涅槃図に加わったといいます。
この釈迦涅槃図は江戸後期の作ですから猫の姿が描かれているのが特徴的です。





本堂の裏堂へ回ると「阿弥陀如来立像」「地蔵菩薩坐像」「法然上人坐像」「善導大師像」「釈迦誕生仏」「聖観音像」と安置されている中心部に「裸形阿弥陀如来立像(鎌倉期)」が安置されていました。
「裸形阿弥陀如来立像」は奈良の仏師:賢問子の作で、天智天皇の御生誕にまつわる縁起によって作られた仏様とされています。

裸形像として日本五体の一つとされていますが、他の4体がどの裸形像を指すのかは聞いてみたけど不明でした。裸形阿弥陀像は滋賀県にも分かっている限りでは2躰あり、奈良県にも2躰。
他の地域にもあるようなので、裸形阿弥陀像自体は幾つか現存しているようです。





転法輪寺の開山者である開通上人は、箱根の関所で通行手形による人の往来を見て、此土から浄土への関所を通す役目を果たすことを誓い、諸国に念仏を広め歩いたとされます。
人間の苦しみの関所を念仏という手形で通すという意味から“関通”と名乗られ、上人の客殿には特別展示として「開通上人像」を始めとする寺宝が展示されていました。



さて、寺院の一番奥の部屋では御朱印場とお休み処がありましたので、“甘茶とおせんべい”のセットをいただきます。
花まつり(灌仏会)に使われる甘茶と転法輪寺の名物といわれるおせんべいを食べながら、庭を見る時間は実にホッとする時間です。



最後に頂いた御朱印に浄土宗紋の「月影杏葉」の紋を型押し機(エンボッサー)で押して参拝の記念としました。
転法輪寺はこぢんまりとした寺院ではありますが、一歩中に足を踏み入れると何時間でもいたくなるような落ち着いた気持ちにさせてもらえる寺院だと思います。


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御朱印蒐集~長浜市木之本町 紫雲山 医王寺~

2019-04-21 14:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖北地方の十一面観音像が注目を集めるようになった一つの契機に“井上靖さんの小説『星と祭』があるといいます。
現在は絶版となって本としての入手は困難になっているため、当方も未読の本ではありますが、現在「『星と祭』復刊プロジェクト実行委員会」の方々が復刊に向けて活動をされています。

『星と祭』復刊プロジェクトでは関連イベントを開催されており、『星と祭』に描かれた観音さまが登場するシーンの朗読や“観音ガール”さんによる観音さまの解説講演が行われます。
イベントが開催される寺院は、“国宝十一面観音立像”をお祀りする「渡岸寺観音堂」に始まり、「医王寺」「石道寺」と続き、今後も続くことが期待されるイベントです。



4月20日に開催された「医王寺」は、上記3寺院の中では唯一予約拝観が必要な寺院でしたので、この機会に是非とも「十一面観音像」を拝観したいと医王寺へ向かうことにしました。
医王寺のある大見は、“大見いこいの広場”というコテージが並ぶキャンプ場があり、高時川に面した谷間にある自然豊かな地域です。



大見地区は“滋賀の北海道”とも呼ばれるという豪雪地帯であることも影響しているのか、もう各所では散ってしまった桜が大見ではまだ見頃になっているものがありました。
天気にも恵まれましたので周辺を散策がてら、大見渓谷に架かる吊り橋の“医王寺参道”を渡ってみる。



吊り橋を歩いていると、ゆらゆらと揺れるが、怖いというよりも心地よい。
下を流れる高時川の水は水量豊かで透き通るような透明感のある清流で、どこからか清流に棲む蛙の声が聞こえてくるのも爽快です。



医王寺は、鎌倉時代に専暁上人が紫雲の奇端を見て一堂を建立して、薬師如来像を祀られたのが始まりだといいます。
寺院の背後にある大箕山の山頂には菅原道真公ゆかりの菅山寺があり、大見は東登り口にあたることから、この地にはかつて仏教文化圏が栄えていたことが伺われます。
現在の医王寺は、無住の寺院として里人によって守られており、「薬師堂」と「観音堂」だけが現存しています。





薬師堂の前にはかつては鐘楼があったのだろうと思われますが、今は梵鐘が野ざらしになって置かれています。
梵鐘には“昭和27年10月再鋳・鋳造人 長濱 西川徳左衛門”との銘があったのは実に興味深い。

西川家は江戸時代から代々続いた鐘鋳造工匠とされ、長浜市の黒壁スクエア界隈にあった“豊臣秀吉公茶亭門”は、かつては長浜城内にあり、後に西川家(鍋徳)の茶亭門として使用されていたものだといいます。
後述する流浪の十一面観音像の由来と、医王寺の梵鐘を鋳造した西川家(鍋徳)には何か深いつながりがありそうに思えます。
(*「豊臣秀吉公茶亭門」は2015年の黒壁直営店「14號館カフェレストラン洋屋」閉店後のリニューアルにより撤去された。)



さて、いよいよ「観音堂」へと向かいますが、観音堂の前の桜はごく一部は葉桜になっているものの、ほぼ満開状態です。
観音堂には最終的に30~40名程度の参拝者が集まってこられ、寺院の世話役の方・STUDIOこほくの取材の方・復刊プロジェクトの方々・観音ガールさんと観音堂の中は満員で熱気が溢れます。





まずは般若心経の読教から始まり、白洲正子さんの本の朗読・プロジェクト実行委員会による“勧進帳”の読み上げ、「星と祭り」の一節からの朗読と進み、観音ガールさんの解説へと続いていきます。
「十一面観音像」は平安時代の800年代後半から900年代初期の製作といわれ、蓮の台座部分までを楠の一木造で彫られており、重要文化財に指定されている仏像です。

観音ガールさんの解説では、一木造は霊木を大事にする木に対する信仰心の現れでもあり、尊顔の表情は同時代に彫られた観音像に比べて、日本的な優しい表情をされていると言われます。
なるほどその表情からは戒めの表情はなく、慈悲の心が伺わる優しい表情をされており、観音像のやや右方向(花瓶の側)から観る姿が一番美しい。



この「十一面観音像」は、明治の廃仏毀釈の頃に己高山仏教圏のどこかの寺院から流出したものだとされ、定説では明治20年に医王寺の僧・栄観が長浜の鋳物屋「鍋徳」の店頭にあったものを持ち帰り、医王寺に祀ったといいます。
湖北の観音さまには廃仏毀釈を乗り越えた仏像の話が幾つか残りますが、廃仏毀釈で仏像が失われるのを防止して、守り通した人々が存在したと考える方が正確なのかもしれません。

十一面観音像は一旦医王寺に祀られた後、昭和5年に観音堂が建てられて観音堂へ祀られる訳ですが、“医王寺の梵鐘を鋳造した鐘鋳造工匠の西川家”“廃仏毀釈の頃に十一面観音像を保持していた西川家(鍋徳)”と医王寺には深いつながりがあったことが想定されます。
事実については不明ではありますが、仏像をうまく守り通した僧や里人の信仰心には、今その仏像を拝める我々としては感謝の気持ちしかありません。

観音ガールさんの解説の後も、復刊プロジェクトの方から復刊を通じての文化や里の振興についての熱い想いを語られ、世話方のトークなどトータルで1時間ほど堂内に座っていましたが、そのあいだずっと十一面観音像を観ることが出来ました。
イベント終了後には間近での拝観が出来ましたが、壇上に上がらせてもらい、仏像に息がかかるくらいの距離で、細かな彫り跡まで見ることが出来たのは貴重な体験です。



余談になりますが、“いとうせいこうとみうらじゅんがTV番組「見仏記」”で医王寺を訪れられた時に、みうらじゅんが話題にしていた“毛糸の手編みの座布団”がまだ残っていたのは嬉しかったですね。
寺院を出る時には供え物のおさがりまで頂いて、これでは拝観料よりも高いのでは?と思ってしまうくらいのありがたいおもてなしにも感謝致します。

大見は人口の流出が激しく、高齢化が進んでいるため観音さまをお守りすることに不安を感じておられるようですが、東京藝術大学での「観音の里の祈りとくらし展」への出展以降、関東地方からの参拝客が増えて運営費を拝観料で賄えるようになったといわれます。
大見の方の信仰心の厚さには仏と民衆がごく近い距離にある湖北の信仰の姿が感じられ、他の地方の人の関心を呼ぶということもいえるのかもしれません。



医王寺のすぐ横には1523年に悪病が流行した折に京都の八坂神社から勧請した牛頭天皇を祀る「大見神社」があります。
大見神社は重要文化財となっており、スサノノミコト1躰と女神2躰を祀るといます。



この大見神社には大杉が何本か残り、根が連結して2本の杉になっている木もありました。
まさに御神木・霊木が並ぶ神社となりますが、おそらく大見神社は大見集落の鎮守社のようにして守られてきた社なのでしょう。



観音ガールさんは、“仏像は千年以上もの間、人々の想いを受けてきている。そんな想いを受け止めてきた仏像に対する想いを受け止めて、想いを伝えていく事も大事である。”といった意味の事も言われていました。
井上靖の「星と祭」には、“集落の人に守られ、何とも言えぬ 素朴な優しい敬愛の心に包まれているということであった。”という一文が書かれているといいます。


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『ときどき、日本とインドネシア』~ボーダレス・ア-ト、ミュージアムNO-MA~

2019-04-18 06:20:20 | アート・ライブ・読書
 2018年10月にインドネシアで障害のある人を中心とした大規模なイベント「フェスティバル・ベバス・バタス」が企画され、その一環として日本のアール・ブリュット作品による展覧会「ときどき TOKIDOKI―日本のアール・ブリュットinインドネシア―」が開催されたそうです。
その時のインドネシアでの企画展に出品した日本の8名の作家とインドネシアの3名の作家の作品が、ボーダレス・アートミュージアムNO-MAで「ときどき、日本とインドネシア」展として開催されています。



NO-MA美術館にはインドネシアでの展覧会が開かれたインドネシア国立美術館などでの展示風景の写真が数多く展示されているなど、いつものNO-MAとは随分と違った雰囲気に変わっていました。
これまでのNO-MAの入口は入ったところに受付やショップがありましたが、レイアウトが変更されて真っ赤なボードが置かれているなど、イメージが全く違います。



1階に展示されているのは日本の作家。2階にはインドネシアの作家と日本の作家の作品が展示されてありました。
もちろん蔵での作品展示もあります。

最初の作品は戸來貴則さんの「にっき」という作品で、幾何学模様に見えてしまいますが、これは文字で彼の日記なんだという。
B5の紙に文字として描かれた作品は積み上げられて紐で綴じられていたといい、施設の女性職員によって発見されて、1枚ずつめくり始められたそうです。
まさに作品を意図せず、自分の言葉(文字)で綴った日記になるのですが、彼は何かを伝えるというより、日々何かを記録しているという印象を受けます。





佐藤朱美さんは18歳の時に病気によって仕事を辞めざるを得なくなり、社会の中での自分の存在意義を見失ったといいます。
母の勧めで絵を描くようになってからは、創作行為を生きるための行為と捉え、現在は自宅のアトリエスペースで毎日朝から夕方まで創作に向かっておられるそうです。

作品はポップで明るい作品が多く、自身のTWitterでは作品の創作過程を公開しておられます。
4枚の展示がありましたが、下は「楽園」と「ゾウガメと一緒に」という作品です。



「ゾウガメと一緒に」を拡大して見ると様々なモチーフが綺麗な色彩で描かれているのが分かります。
佐藤さんは、配色は“考える”のではなく、“頭の中に見えてくるイメージに従って描いている”といわれています。



少し前に湖南市の甲西文化ホールで開催された「表現する日々-アールブリュット展-」にも展示されて木村茜さんは、今回は12点の作品を出品されています。
1枚の絵は2~3分で一気に描きあげるといいますが、作品を見ている内にどんどんと引き込まれていく作品を創られます。

木村茜さんの作品をアブストラクトな絵と呼ぶことも出来ないことはないですが、理念ガチガチで難解なアブストラクト・アートとは違うのは、解説にあるように作品を創造する行為への陶酔なのでしょう。
絵にはそれぞれ独特のタイトルが付いており、それは彼女にとって身近な物であり、気になる物なのかもしれません。
(絵は左上から「ピンポン」「下駄」「風船」、右上から「うちわ」「スカート」「注射」で、残りの6枚は全て「お線香花火」)





異常なまでの迫力のあった作品は1階の中央の柱の4面に展示されていた岩崎司さんの作品です。
岩崎さんは55歳で精神を病んで入院生活を送るようになるまでは、魚屋を営み、39歳からは市会議員を務めておられた方と説明文にあります。

岩崎さんは長年、短歌をたしなんできたといい、作品は絵と言葉が合体した独特の迫力を醸し出します。
浮世絵のような富士山や風景の絵もありましたが、キリスト教をイメージさせる絵には抑圧や救済をイメージさせる鮮烈な衝撃があります。
1928年生まれの岩崎さんは戦前・戦中・戦後を生き抜き、バブルの足音が近づいてくる頃に精神を病まれたということになります。





三橋精樹さんの作品は全て「記憶」を基にして描いているといいます。
5歳の頃の記憶から若い頃に見た風景、テレビ番組にいたるまで記憶の光景を描かれているそうです。

面白いのは絵の裏にカタカナとひらがなで絵について語られてる文章です。
  コレハアキノゆうぐれの山とちうぶしま
  ゆうがたのひのくれのちゅぶましま 10月おわまえのびわこ
    びわこゆうひがしずむころ やまがむらさきにみえている

文章は下記に読み取れます。
  これは秋の夕暮れの山と竹生島 
  夕方の日の暮れの竹生島 10月終わる前の琵琶湖
    琵琶湖夕日が沈む頃 山が紫に見えている



今回の企画展ではインドネシアのアフマッド・ヤニさんの作品を含めて、文字や独特の言語による作品が幾つか紹介されていましたが、吉沢建さんのノート(無題)はその最たるものでした。
街に出ると自作のノートを取り出して何やら書き始められるといます。

1冊のノートを書き尽くすとセロハンテープで開かないように封印してしまうそうです。
幾つかの文字(単語)は読み取れるものの、その独特の言語は彼にしか読み取れないものです。



蔵の中での美術展では北澤潤さんの「ひとときのミュージアム」はインドネシアの即興的な文化(風が吹けば空に凧をあげる等)に着目して、空を誰もが自らを表現することを可能にするミュージアムに変えることを企てた方です。
『ときどき、日本とインドネシア』展では日本・インドネシアの作家が紹介されていますが、北澤さんは世界的に活躍されている美術家で、今回はパートナーアーティストとしての参加でです。





アールブリュット作品を観る時に心がけているのは“障がい者の造った作品”として観ない事。
作為なく造った作品が観る方の感性に響く。ということなのだと思います。

  
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「悠久の仏像彫刻」(大仏師・向吉悠睦)~愛荘町立歴史文化博物館~

2019-04-14 11:55:55 | アート・ライブ・読書
 滋賀県愛知郡の愛荘町立歴史博物館では春季特別展として「悠久の仏像彫刻」展が始まりました。
博物館は湖東三山の一つである「金剛輪寺」の惣門から続く参道のすぐ横に建てられた博物館で、年間3回の特別展が企画されています。

常設展としては、1303年に鋳造された「金剛輪寺の梵鐘」や米国ボストン美術館が所蔵している「金銅聖観音坐像(金剛輪寺旧蔵の複製品)」などを常設。
金銅聖観音坐像は明治の廃仏毀釈の時に海外へ流出してしまったものを後に複製したといい、米国ボストン美術館所蔵の金銅仏は1269年の作製されたものだそうです。



歴史文化博物館は1994年に開館されたもので、建物は2棟が渡り廊下でつながる神社・仏閣を思わせる設計となっており、回廊からは玉水苑と呼ばれる日本庭園が望めます。
前回この博物館を訪れた時は紅葉に季節でしたので展示物以外にも紅葉の庭が楽しめましたが、今回は桜の季節の来訪ということで桜の庭も併せて鑑賞することが出来ました。





「悠久の仏像彫刻」展では「平安~鎌倉期の重要文化財を含む仏像」と、現代の大仏師である「向吉悠睦」さんの仏像9躰の構成となっていましたが、度肝を抜かれたのは向吉さんの仏像でした。
室内の展示の配置は、左右に歴史文化財の仏像、正面には向吉さんの現代仏が並んでおり、特に中心に安置された「十一面観音菩薩像」と「聖観音像」の凄さには声も出ませんでした。



向吉悠睦さんは1961年に鹿児島で生まれ、1980年に松久朋琳・宗琳師に入門されています。
1991年には「あさば佛教美術工房」を設立して、大仏師として活躍されている方です。

2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」にも仏師として出演され、2014年にはエリック・クラプトンに「毘盧遮那仏」を納めたといいます。
“エリック・クラプトンに...”というところに思わず反応してしまいますが、クラプトンと仏像のイメージがどうしても浮かんできませんね。



十一面観音菩薩像は2005年に刻まれた仏像で、像高は框から光背までが295cmということから、体躯は等身大ということになります。
優しげな顔の表情といい、体型の美しさ、光背の細工の見事さといい、この仏像に会えて良かったと思える観音様です。



十一面観音菩薩像の横には、これまた見事な「聖観音菩薩像」がおられます。
聖観音菩薩像も素地で等身大の仏像で、框から光背までが270cmとなっています。



この聖観音菩薩で最も魅力的なのは手のリアルさではないでしょうか?
向吉さんの作品には人物像もありますが、今にも動き出しそうなで怖いくらいのリアルな像を刻まれています。



超絶技巧とも呼べそうなのが「千手千眼観音坐像」になるのですが、千手の部分の技巧は見事というほかありません。
しかも、千手の手の掌には目がしっかりと付いていますので、まさしく千手千眼の観音様です。



向吉さんの仏像には素地のもの・截金・彩色・漆箔と多様な技術が使われており、「釈迦如来立像」では截金・彩色・漆箔の技術が使われています。
像高2.1mの釈迦如来像の光背には四如来かと思われる仏が配されており、仏像の技巧には同じ仏師が刻んだものとは思えないような多様性が感じられます。



大迫力だったのは重厚な造りの「毘沙門天立像」でした。
今回展示のあった向吉さんの9躰の仏像の中では1986年作と最も古い、像高165cmの截金・彩色の仏像です。



写真には写っていませんが、踏みつけられている邪鬼もリアルに刻まれており、何より毘沙門天の憤怒の表情に鬼気迫るものがあります。



向吉さんの仏像にすっかり魅了されてしまいましたが、歴史のある仏像も充分に見ごたえのあるものでした。
金剛輪寺所有の「不動明王立像」は平安期の仏像で、仏心寺所有の「聖観音立像(鎌倉期・重文)」と聖観音像の胎内に収納されていた「銅造菩薩立像(平安期・重文)」は7.7cmの小ささに驚くばかり。

なぜか錫杖の替わりに矢尻を持っている「地蔵菩薩立像(鎌倉期)」も重要文化財に指定されており、釈迦多宝二仏並坐像の「釈迦坐像」と「多宝仏坐像」は室町期の仏像で、多宝仏は変わった印に結んでいます。
また、4躰揃った「四天王立像(江戸期)」も江戸期らしい仁王像の躰のラインを感じさせる仏像でした。



“現代の仏師”と呼ばれる人は現在150名ほどだといい、今後はもっと少なくなるだろうといわれています。
大仏師・向吉悠睦さんは途絶えつつあった慶派の系譜におられる方で、慶派の流儀を踏襲するだけではなく今の世相を加味して未来の人につなげていきたいとも言われておられます。

“一生のうちに1躰でもいいから、運慶さん快慶さんに並ぶ仏像を彫ってみたい”と思い続けることで慶派を継いでいきたいと言われ、創作に苦しんでいるところを弟子に見せることも慶派一門の大きな役割だとも語られています。
今回の特別展で、観る人の心を魅了して、気持ちを惹きつけてやまない大仏師の仏像に出会えたことに感謝したいと思います。


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御朱印蒐集~滋賀県甲賀市 龍護山 大池寺~

2019-04-10 18:18:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の甲賀市には「甲賀三大佛」と呼ばれる丈六仏をそれぞれ祀る寺院があり、その3躰は「櫟野寺の薬師如来坐像」、「十楽寺の阿弥陀如来坐像」と今回参拝した「大池寺の釈迦如来坐像」になります。
大池寺は三大佛の寺院としてよりも、枯山水の「蓬莱庭園」のサツキの大刈り込みを鑑賞に来られる方も多いようですが、見応えのある庭園と「丈六の釈迦如来坐像」の両方に出会える稀有な寺院だと思います。

大池寺は天平時代の742年、行基がこの地へ訪れた際、日照りに悩む農民のために灌漑用水として漢字の「心」の字の形に4つの池を掘ったと伝わります。
行基は池の中心となる場所に一彫りごとに三拝したという「一刀三礼の釈迦如来坐像」を安置して、邯鄲山青蓮寺を建立したとされます。



寺院は七堂伽藍を備える天台宗寺院となったようですが、戦国時代(1577年)に織田信長と六角承禎の兵火によって境内全域が焼失してしまったといいます。
江戸時代の1667年になると、京都妙心寺の丈巌慈航禅師によって「龍護山大池寺」として再興され、臨済宗妙心寺派の寺院となったと寺歴にありました。



復興にあたり尽力したのは“後水尾天皇・伊達宗房・織田正信”だとされ、特に織田正信は多くの寄進をしたといいます。
この正信は織田信長の甥にあたる人物で、青蓮寺を焼失させた信長の甥が再興した大池寺の開基になっているという何とも不思議な巡り合わせになっています。
大池寺の寺紋は、織田家の家紋である「織田モッコウ」になっているのも興味深い話ですね。



大池寺のある甲賀市水口町は国道1号線沿いにスーパーやチェーン店が店舗を連ねる繁華な町になっていますが、国道から離れて住宅街を抜けた場所にある大池寺は、実に静かな寺院です。
寺院を最初に見た印象は、新しい感じがしてよく整備されているように見えました。
それは龍巌月泉和尚が1937年に住山するまでは無住の寺院だった時代があり、近年になって大改修・修理を行って整備されたことによるものでしょう。



山門を抜けた境内には「鐘楼」「稲荷堂」「弁天堂」が祀られ、「佛足石堂」には「仏足石」が祀られています。



「韋駄天」と「大黒天」の祀られた「庫裡」に入ると、御住職の方に中へ案内されて、まず寺院の説明と案内ビデオを見ます。
仏壇には名仏師・服部俊慶の「薬師如来像」が祀られ、窓の外には後方の山を借景とする庭。
ただしこの庫裡にある庭は小堀遠州の作ではないとのことでした。

書院へと案内されると、そこには小堀遠州が造園したと伝わる「枯山水蓬莱庭園」の絶景が広がります。
さほど奥行はない庭園ではあるものの、山を借景としているため、非常に奥行のある庭園に見えるのが不思議です。



サツキの大刈り込みが印象的な庭ですが、“白砂の水面上に大波小波を大刈り込みを表現し、中央の宝船は七宝と七福神を象徴する”とあります。
書院の中に季節ごとの蓬莱庭園の写真が展示されていましたが、「春のサツキ」「夏の青葉」など見応えのある庭園だと思います。
個人的には窓が開放され、夏の青々としたサツキが広がる蓬莱庭園が魅力的に思えます。



庭の右側に配置されているのは「亀島」。
もう一つある「蓬莱山庭園」には鶴を表現した松がありますので、書院の両側に造園された庭に鶴亀が配置されていることになります。



ではここで抹茶と和菓子で一服とさせていただきます、物音一つしない静寂の部屋で庭園を眺めながらのお茶の時間は実に贅沢な時間です。
和菓子は、和三盆(高級和菓子に使われる上等の砂糖)で作られた干菓子で、これが実に美味しい。こんな美味しい干菓子は始めていただきましたよ。



和三盆の干菓子は「水口城」を形どったものと、水口の代表的な祭りの「水口曳山祭の曳山」を形どったものの2種類で、甘いのだけれどとても上品な甘さの干菓子でした。
水口は古くは京と伊勢をつなぐ参宮道であり、水口藩を要する東海道五十三次の50番目の宿場というこもあり、曳山などの文化が発展したのでしょう。



さて、庭園でリラックスした後は書院の反対にある「蓬莱山庭園」へと移動します。
「土蔵」へとつながる飛び石の左に鶴を象徴する松があります。





大池寺の素晴らしいところは、見事な庭園を鑑賞して堪能し、とっておきの如く最後にお参りする「仏殿」の「釈迦如来坐像」という贅沢な拝観コースでしょうか。
仏殿に入った瞬間思わず“あっ!”と声が出てしまうほどの大きな仏像には圧倒されてしまいます。



釈迦如来坐像は天平時代に行基によって彫られたと伝わる8尺(約3m)で、天正時代の兵火によって境内全域が焼失した時に仏像のみが焼け残ったという逸話があります。
仏像はその後、約90年間風雨にさらされて草庵に安置されていたのを、京都妙心寺の丈巌慈航禅師が見て大池寺の再建を決意したとされます。





須弥壇の裏側へと回ってみると使い込まれた版木がありました。
叩かれている部分が読み取れませんが、元は何と書かれていたかを調べると「生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人」と書かれているようです。
禅の修行者の心がける事とも云われるこの禅語には禅の教えを伝えるものとして有名な言葉だとされます。



大池寺の庭園はもう一つあって、それは山門を出た場所にある「回遊式琵琶湖庭園」という琵琶湖を形どった庭園です。
この写真の位置は琵琶湖の北部から南部を見る場所で、手前が長浜市北部くらいになり、左上にあるのは瀬田大橋でしょうか。竹生島・沖島・多景島もありますね。



最後に大池寺の名前の由来になっている行基が作ったという池へ立ち寄ります。
グーグル地図で検索すると確かに「心」の漢字の形に見えるのが面白い。
周辺は「名坂大池寺自然公園」となっており、下は「心」の字の2画目にあたる弁天池で、池の中央には「弁天池の沈み鳥居」がありました。





庭園あり・干菓子あり、大仏ありでゆったりとした時間を過ごすことが出来た大池寺でしたが、サツキのシーズンになると拝観者が殺到する寺院でもあるようです。
庫裡にある下駄箱には観光バスの○号車などの張り紙が標示されていましたので、大混雑になる時があるのでしょう。
ゆっくりと寺院参拝がしたい時は、季節を外して行くのも一つの手ですね。


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御朱印蒐集~彦根市 智照山 円常寺・千代神社~

2019-04-07 17:02:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 彦根藩主・井伊直孝は徳川四天王と呼ばれた井伊直政の二男に生まれ井伊家の当主となった方ですが、当初は異母兄の直勝が井伊家を継いだといいます。
それは直勝が正室(徳川家康の養女)の子であり、直孝が侍女の養賢院の子であったことによるものだったようです。

直孝は幼少時代に父・直政と会うこともなく上野国の北野寺で育てられますが、徳川家忠の近習として仕え、家光の後見人となったことなどにより、直勝に代わって井伊家の当主になったとされています。
彦根城のすぐ近くにある円常寺は、直孝が実母・養賢院の菩提を弔うために建立した寺院と伝わります。

 

寺院はかつての彦根城の外堀と内堀の間にあり、現在も残る内堀から住宅地が続く街中に建てられています。
円常寺は井伊家ゆかりの寺院としてよりも「快慶の阿弥陀如来像」が祀られている寺院として方が有名で、滋賀県にある快慶仏としては「石山時大日如来坐像」と円常寺の「阿弥陀如来立像」の2躰のみとなります。



寺院は1612年に建立されて井伊家の庇護を受けて信仰を集めたようですが、1701年・1747年の2度の火災に見舞われ、現在の本堂は約270年前に豊郷町四十九院から移築されたもののようです。
寺院の境内には「鐘楼」「閻魔堂」「本堂」と観音像があるのみで、さほど広いとは感じませんが、実本堂の中はかなり広い造りになっています。



境内に入ってみたものの、拝観受付のようなものは見つからず、拝観可能かどうか困っているところへ御住職と思われる方が出てこられました。
拝観させて欲しい旨を伝えると、本堂へどうぞとおしゃっていただき、安堵して本堂へ上がらせてもらいいます。



本堂へ入るとまず外陣には「地蔵菩薩半跏像(元禄の頃)」が祀られ、障子を開けて内陣へ入ると、正面の須弥壇に「阿弥陀三尊」の姿が目に飛び込んできます。
左の脇陣には養賢院(阿こ)や直孝の位牌が祀られ、その横にはかつて藩士が自宅で祀っていた仏像20躰ほどが奉納されています。

奉納された仏像は、明治維新後に彦根を離れていった藩士たちが納めた仏像ですが、藩士の家格によって仏像の大きさに随分と違いがあるのが面白いですね。
須弥壇の右には安中常次郎(無線機を開発しバルチック艦隊撃破に貢献)の位牌、「腹帯地蔵」「不動明王像」など祀られているものは多様です。



快慶の「阿弥陀如来立像」には履歴に謎があり、それは寺院が創建400年ほどの寺院にも関わらず、800年前の仏像がなぜあって、どこからきたかです。
これは寺院の方でも正確なことは分らないそうで、いい目利きの方がかつて存在し、寺院に持ち込んだのではないかということでした。



画像の右上が円常寺の仏像となり、画像は平成29年に奈良国立博物館で開催された「快慶・日本人を魅了した仏のかたち」のポスターをお借りしています。
快慶は阿弥陀如来を数多く造られた方ですが、円常寺の阿弥陀如来像が重要文化財の指定を受けたのは平成30年10月31日と最近の事で、奈良での公開が重文指定の契機になったのではと御住職が話されていました。

写真で見せていただいたのは左足に朱で陰刻された「巧匠 法眼快慶」の文字で、これは快慶の作例では東大寺(地蔵菩薩)と高野山(阿弥陀如来)と合わせて3躰しかないとのことです。
円常寺では須弥壇の前のかなり近い位置でこの快慶仏を拝むことができましたので非常にありがたく拝観させていただきました。

 

円常寺の本堂内は外観からは想像がつかないほど広く、襖絵(狩野派)や庭園があります。
庭園はかつては彦根城の外堀に面していて、船着場との境が庭園になっていたようです。

また、3室続く部屋は障子の幅を段階的に広げることで部屋が広がるように見える造りとなっており、一部の壁には「パラリ壁」が残されていました。
境内に建てられている「閻魔堂」には「閻魔大王・十大道明神2躰」の一三躰が揃っていますが、ガラス越しで暗い中の様子は詳しくは分かりません。



さて、せっかくなのでこの後に円常寺のすぐ近くにある「千代神社」にもお参りします。



千代神社は芸能の神様としての御利益があるとされ、芸事の上達・オーディションの合格を祈願される方が祈願に来られる神社だそうです。
彦根で最も古い神社とされており、御祭神は「天宇受売命」。

天宇受売命は、天照大御神が天の岩戸に隠れられた時に、岩戸の前で神がかりして舞を舞って天照大御神の心を和められた女神様だといいます。
千代神社の御利益はその逸話にようものなのでしょう。



社務所にも何人かの芸能人が取材に訪れた時の写真が飾られてあることから、実際に俳優や芸能関係者が参拝に来られることがあるようです。
神社としての規模は街中の神社としては広い方で、本殿も立派な造りとなっているのは氏神様として氏子の方々が大切に守られてきたということだと思います。





参拝中にも数組の方が参拝に来られていましたが、印象としては芸事祈願というよりも、地域の方が多かったように見えます。
地域の方が日常的に立ち寄る神社ということは、それだけ地域の方の心の拠り所となって溶け込んでいるということだと思います。


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御朱印蒐集~滋賀県甲賀市 田村神社・清浄山 十楽寺~

2019-04-04 06:10:10 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 歴史上存在した人物が「神」として祀られている神社は数多くあり、例えば菅原道真・平将門などの魂を鎮めるための神社であったり、信長・秀吉・家康などの戦国大名に崇敬の念を抱いて祀られている神社などがあります。
そんな武将の中でも征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂を祀る神社が全国に数ヶ所あり、その中の一つである甲賀市の田村神社へ参拝致しました。

甲賀市土山町は三重県との県境になる地域で、少し移動すれば三重県亀山市へとつながります。
土山町は茶園の多いところで“近江土山茶”が名産となっており、県境ということでいえば京都との県境の信楽でも“朝宮茶”が名産になっていたりしますから、お茶は県境の山間の産業となっていることが多々あるようです。

 

田村神社は坂上田村麻呂公を主祭神として、嵯峨天皇・伊勢斎宮の起源とされる倭姫命の3柱を祀る神社で、812年に嵯峨天皇が勅令を出して坂上田村麻呂公を祀ったと由緒にあります。
神社は国道1号線沿いにあるため都と伊勢への交通の要衝となりますが、言い伝えでは「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた。」とあるそうです。



神社は国道1号線をはさんで「道の駅あいの土山」の向かいにあり、歩道橋を越えていきますが、想像以上の立派な神社だったことに驚きを感じます。
鳥居も国道沿いの「第一鳥居」から銅製の「第二鳥居」、境内の中心部の前にある「第三鳥居」と広い境内が続きます。



第一鳥居を抜けた後の参道の両サイドは杉の並木となっており、誇張していえば下鴨神社の糺の森のような雰囲気があります。
もっとも糺の森は杉の森ではないでの例に出すのはおかしいのですが、田村神社の参道は厳粛さがあり薄暗いくらいの森となっていました。



森を過ぎると見えてくるのは銅製の第二鳥居になります。
ここが神社の正面にしてもおかしくないような立派な構えとなっています。



何を形どっているのでしょうか、あまり見かけない形の手水で身を清めます。
後方に見えるのは御神木の杉ですが、大きくて実に見事な巨木です。
御神木は幹周り5.6m・樹高27mといいますから、樹齢は分らないもののかなりの古木だと思われます。





田村神社には「一願成就清め道」という田村川へとつながる小道があり、先程は下鴨神社を引き合いに出しましたが、今度は上賀茂神社の御手洗川と似た場所があります。
田村川は鈴鹿山系から流れ出る河川で、流れは野洲川へとつながって琵琶湖に流れ込むといいます。
大きそうな河川ですから水量が多くなるとちょっと怖いかもしれませんが、水は透明度が高く綺麗な水でした。





田村川は一部が神社の中にも流れ込み、禊場までつながっていますが、その途中には「厄落し太鼓橋」があります。
橋の上からお祓いされた福豆を流すことで厄も一緒に落ちるといい、確かに橋の下には無数の福豆が巻かれてありました。
これは田村大神のお告げにより、「悪い年に当たっていても、社殿前に流れる御手洗川の東に向かい、節分の豆を自分の年の数だけ祈念を込めて流せば全ての災厄は流れ去る」という故事に由来するものだそうです。





本殿には征夷大将軍・田村麻呂の武勇を現すかのように巨大な弓が奉納されています。
本殿前には「矢竹」という坂上田村麻呂が鈴鹿峠の悪鬼を平定した後に放った矢が落ちた場所に竹が生えたという言い伝えがあります。
その由来のある矢竹が本殿前に祀られており、ご祈祷の撤下(おさがり)には竹で奉製した神矢が授与されるようです。



本殿の左にはやや傾いた杉の巨木があり、境内の御神木に負けず劣らない姿を見せてくれます。
この田村神社の杉の森には永年の歴史からくる圧倒される迫力が感じられます。



境内の片隅に不思議なものがありました。
3匹の鬼のようにも見えますので、坂上田村麻呂が退治した鬼を現しているのでしょうか。



さて、田村神社からすぐ近くの所に“甲賀三大仏”で有名な「十楽寺」がありますので参拝に向かいました。
甲賀三大仏とは櫟野寺の「薬師如来坐像」・大池寺の「釈迦如来坐像」・十楽寺の「阿弥陀如来坐像」のことをいい、現在・過去・未来の三世の安寧を祈るとされます。



十楽寺は1486年に天台宗・寂照法師によって創建されますが、織田信長の戦火により焼失してしまったといいます。
江戸時代の1661年になって広誉可厭大和尚によって浄土宗の寺院として再興され、現在に到るようです。



十楽寺には本尊となる阿弥陀如来像が2躰あるため、正式な寺名は「二尊院十楽寺」となり、1躰は278cmの丈六の「阿弥陀如来坐像(室町から江戸初期)」、もう1躰は平安時代後期の「阿弥陀如来坐像(89.5cm)」。
十楽寺は仏像が豊富な寺院で、「救世聖観世音菩薩坐像(南北朝以後・69cm)」、平安期の「十一面観世音菩薩立像(217cm)」、玉眼が光る「十一面千手観世音菩薩立像(鎌倉期・202cm)」など見応えがある仏像が安置されています。



興味深かったのは裸の如来「裸形阿弥陀如来立像」でした。
真っ裸の仏像はこれまで写真でしか見たことがなく、法衣らしきものはまとってはいるものの、衣の劣化が激しく腰にボロ布を巻いているだけに見える姿を初めて観ることになりました。

お釈迦様の母の「摩耶夫人像(室町期・重文・86cm)」は右の脇から釈迦が生まれ出ようとしている造りになっており、寺の方のお話では全国で同じような仏像は2躰だけということでした。
内陣には2幅の地獄絵図も掛けられており、本堂内の密度が高い寺院でした。



甲賀市・湖南市・東近江市から湖東三山にかけては現在は宗旨を変えている寺院もありますが、天台宗教文化が根強い地域になっています。
その影響は数多くの仏像に反映されており、仏像ファンには魅力的な地域だといえます。




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