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三条大橋からスタートすると、大津宿-草津宿-守山宿-武佐宿-愛知川宿-高宮宿-鳥居本宿-番場宿-醒井宿-柏原宿までが近江国で、今須宿からは美濃国に入ります。
今須宿と関ケ原宿の間には宿駅として山中村があり、かつては人足が駕籠や馬を止めて休息した立場や酒屋・餅菓子屋・果物屋・古手屋などが軒を連ねていたといいます。
山中村の中山道沿いに高さ5mほどの滝があり、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる場であったという。
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滝は「鶯の滝」といい、黒血川の源流が流れ落ちる滝で3つのお地蔵さんの祠の向かいにあります。
黒血川は壬申の乱(672年)にこの地で大友軍と大海人軍の激戦があり、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから名が付いたとされている。
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「鶯の滝」は落差はないものの水量は豊富で夏は冷気が立ち込めて涼しい。
その夏でも涼しい環境から、年中ウグイスが鳴くのだといい滝の名前の由来になっているのだという。
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かつては下に降りられたようですが、今はこの角度からだけ滝が見えるのみ。
黒血川はそれほど水量は多い川ではないように見えますが、水の豊富さと勢いはなかなかのもの。
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周辺は真夏にも関わらず涼しいのですが、さすがに鶯の声は聞こえず、蝉の声が響き渡っているばかり。
一般的に滝は山中などにあるのですが、ここは中山道沿いの平坦地にありますので最初は見落としてしまい、地元の方に場所を教えてもらいました。
でもその場所はほんの数m手前でしたので、意外過ぎるような普通の場所にある滝ということになります。
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黒血川の上流にはJRの線路が上を通る古いレンガアーチのトンネルがありました。
岐阜県の関ヶ原駅と滋賀県の長浜駅をむすぶ区間は1883年に開通、1889年に関ケ原から先が開通しましたので、このレンガトンネルはその頃の建造物と考えられます。
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しばらくここで待っているとJRの電車がやってきました。
別にレアな車両ではないけど、たまには撮り鉄もいいもんだ。
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さて、山中村には関ケ原の合戦の時に大谷吉継が陣を構えた山や墓所がありますので立ち寄ってみることにします。
「若宮八幡神社」の裏側から登れるようですが、この神社はまず石段を登ってJRの踏切を渡ってから境内に入る変わった造りになっています。
神社の石段を登っていくと、警報機が鳴って遮断機が下りて電車がやって来た!
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電車が通り過ぎて遮断機が上がって線路を横切ると、すぐに神社の境内地になり、その雰囲気の違いに少し戸惑います。
八幡神社は応神天皇を御祭神として祀ることが多いが、「若宮八幡神社」は第39代 弘文天皇(大友皇子)を御祭神として祀っている。
これは壬申の乱での大友軍との関わりから祭神としたのではないかとされているようです。
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「若宮八幡神社」の本殿横から山道に入り、しばらく登ると「松尾山眺望地」に到着します。
関ヶ原の戦いで盟友 石田三成が指揮する西軍についた大谷吉継は、開戦時は西軍であった小早川秀秋の裏切りを予想して松尾山の真正面に陣を定めたといいます。
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関ケ原の戦いでの武将の布陣図と兵数を見ると、東軍と向かい合う西軍の横から小早川軍が攻撃してきたら壊滅状態となるのは容易に推測で出来る。
大谷吉継の陣跡は松尾山眺望地より奥の山中にあり、中山道を見降ろし松尾山の小早川軍を監視出来る位置にあります。
果敢に戦った吉継ですが、この時すでに吉継の病気はかなり進行してしまっていたといいます。
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吉継の陣跡から300mほど離れた奥まったところに吉継の墓があります。
小早川の裏切りに対して迎え撃った吉継は一旦は小早川軍を松尾山まで押し返したが、脇坂安治らも寝返り三方から攻められて壊滅したという。
最後を悟った吉継は“病み崩れた醜い顔を敵に晒すな”と言い残し、家臣の湯浅五助の介錯で自刃したと伝わります。
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湯浅五助は、東軍の藤堂高虎の甥・高刑へ“主君の首の在処を秘して欲しい”と頼み、自らの首を差し出し、藤堂高刑は家康の詰問にも頑として首の在処を言わなかったという。
当地には藤堂家によって吉継の墓が建立されたといい、吉継の首は首塚として“関ケ原町と旧春日村の境”と“米原市下多良”の2カ所に祀られている。
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ところで、少し前にNHKBSで放映されていた「チャリダー」で養老駅前にある「きびようかん本家」の吉備羊羹が紹介されていたので訪れてみました。
土地が痩せていて大豆などが収穫できないので吉備と養老の名水を使って作ったのが吉備羊羹で、無添加・手作りの羊羹は大正6年創業とのことです。
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さて、お味の方はというと、甘さは控えめでキビの粒々感があってこれまで体験したことのないような癖になる味です。
羊羹の原料は「黄黍(きいきび)」「寒天」「白双(はくざら)」のみで着色?に「クチナシ」。
夏は冷やして、冬はお汁粉などに入れても美味しいそうですね。
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