僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

シジュウカラガンをパチリ!~年忘れ探鳥会~

2017-12-30 17:40:50 | 野鳥
 年内最後の晴れ日ということで、「年忘れ探鳥会」と勝手に名前をつけて鳥見巡回を致しました。
今年は鳥見に行く回数が少し減ってしまったこともあって、面白い野鳥にはあまり出会えなかったことが反省点ですが、2017年の最後に鳥運使い切りの探鳥です。

今年の鳥運使い切りの成果があったのかライファーのシジュウカラガンを発見!(ヒメシジュウカラガン?)
北海道や東北・北陸地方では見られる鳥ではありますが、湖北では珍しい。嬉しい出会いです。





このシジュウカラガンはいつからいるのか?などの詳細については知りませんが、稲の影に“黒い頭と白い頬”が見えた時は“まさか!いたぁ~!”と興奮しましたよ。
こういう出会いがあるから鳥見はやめられませんね。



このシジュウカラガンはほとんど寝てばかりでなかなか顔を上げてはくれない。
待っていれば違う姿も見られたかと思いましたが、ただ待っていても仕方ありませんので別の場所へと向かいました。

別の場所の林にはツグミとイカルが多かったのですが、気配を察知されて飛ばれながらもウロウロと探しているうちにアカゲラを発見!





アカゲラは冬でないと会えない鳥というわけではありませんが、見つけると嬉しくなる綺麗な鳥です。
このアカゲラはそこそこ愛想は良かったものの、枝かぶりになってしまい最後は奥の方へ飛んで行ってしまいました。



撮れそうで撮れなかったのがアトリとアオジでしたが、ミヤマホオジロは何とか証拠写真をゲット!
この辺りに入っているのが分かったので次の機会にはリベンジしたいですね。





ミヤマホオジロは♀の方がよく姿をみせてくれましたが、やはり♂の方へついついカメラが向いてしまいます。
♀さんごめんなさい!結局2枚しか撮りませんでした。



何度か姿を見せてくれたルリビタキも出て来てくれたのは♀だけでした。
でも、ここに居るのが分かったから、次は何とかなるかな?
来年の鳥運に賭けよう。





実はこのルリビタキ、最初は高めの木の上にいて、ジョウビタキの♀かと思っていました。
近くに来てくれてルリビタキだと分かったのですが、危うく思い込みでスルーしてしまうところでしたよ。
...と書くとジョウビタキに申し訳ないのでジョビ♀をパチリ!



例年、トラツグミ・アカハラ・シロハラがやって来るポイントにも立ち寄ってみましたが、2羽のシロハラがいたのみでした。
今年はシロハラの数が少ないように思いますが、如何でしょうか。



カワセミも珍しく愛想がいい奴がいました。
何度もホバリングしてダイブしてくれるのですけど、如何せん飛び込むカワセミの姿を撮る腕がなく、体が切れてるかピンボケ写真しか撮れませんでした。





あまけは山の麓にいた小鹿をパチリ!
両足を揃えてドスドス(ピョンピョンの音ではなかった)と白いお尻を向けて坂を駆け上がって行きましたよ。



ということで2017年の鳥運はこれにて尽きたようです。
2018年、想定外の野鳥・まだ見たことのない野鳥・馴染み深い野鳥などとの嬉しい出会いが楽しみになってきますね!


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御朱印蒐集~福井県小浜市 石照山 多田寺~

2017-12-27 18:26:56 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 小浜市はかつて大陸文化の窓口であったとともに、奈良の都や京の都へ大陸文化や海産物を送り出してきた地といわれます。
逆に奈良や京都からは都の文化が流入し、繁栄した地であったことから小浜は文化財の宝庫となっており、数多くの仏像が残されています。

この独特の文化を残す小浜の神社・仏閣に魅了され、寺社巡り目的としては3度目の小浜訪問になりました。
前回の来訪時に“仏像を見たいのなら多田寺はどうですか。”と紹介されたものの、寺院の方が不在で拝観出来なかった多田寺へダメ元の再訪となりました。



多田寺は高野山真言宗の寺院で創建は、749年・孝謙天皇(女帝)の勅願によって勝行上人が創建したと伝えられる寺院です。
孝謙天皇が眼病を患っていた時に勝行上人が祈願したところ、たちどころに快癒され、山林(1千町歩)田畑(1町5反7畝)の寄進を受け、最盛期には子院12の寺院であったとされます。
また、多田寺の開山以前は「役行者」神変大菩薩が開いた山岳修験の根本道場であったとも伝わります。



多田寺の山門(仁王門)は、小浜の寺院によく見られる質素でやや小ぶりの山門ですが、門の左右には阿吽の金剛力士像が祀られ、寺院を守護しています。
金剛力士像には彩色が残っていますが、かつては鮮やかな青と赤に彩られた仁王像だったようです。





運良く受け付けの方がおられましたので早速受け付けを済ませて入山して、まず梵鐘を撞かせていただきます。
梵鐘には“薬師瑠璃光如来”の銘と共に“第八十三世 中僧正 廣本智宥代 大願主 十万施主”と刻まれており、昭和五十二年春鋳造の銘がありました。
現在は4代目の梵鐘ですが、初代の梵鐘は豊臣秀吉が撞いてお金に恵まれるようになったことから、お金に恵まれる梵鐘とされ、秀吉が持ち帰ったと伝わります。



境内には“観音様と観音様にすがるお爺さん・お婆さんの銅像”があり、その足元にはお爺さんとお婆さんの石像が祀られています。
何らかの意味があると思われますが、何となく愛嬌を感じさせてくれる石像ですね。



さて、いよいよ本堂です。
今回は本堂が開いているのが石段の下からでも見えます。
2度目の来訪でやっと縁がつながり入山出来たと安堵しながら石段を登ります。



本堂は江戸時代に火災にあい、1807年の再建されたもので密教系の佇まいのある御堂です。
迷いそうになるような多田の集落の細い道の先にこのような立派な寺院がひっそりと残されていることに感慨深いものがあります。



賓頭盧さんの祀られた本堂の外陣は、真言宗の巡礼の寺院の雰囲気に溢れています。
格子越しに見える仏像に惹かれますが、嬉しいことに内陣へ入ってお参りすることが出来ました。



寺院に参拝して内陣まで入れていただけるのは本当にありがたいことです。
諸仏に囲まれた空間にいることの何とも言えない厳かな気持ちになります。



内陣には右側に「阿弥陀三尊坐像」(藤原期)、「聖観音立像」(藤原期)、不動明王が並び、須弥壇の厨子の後方では十二神将が6躰づつに分かれて本尊を守護。
更に須弥壇の四方では右に「持国天・多聞天」(藤原期)、左に「広目天・増長天」(藤原期)が守護にあたっています。
厨子も見事なものでしたが、この厨子は1634年に小浜藩主となった酒井忠勝の寄進によるものだそうです

厨子に納められている本尊は平安時代初期に造られた「薬師如来立像」で像高192cm・カヤの一本造の像ですが、薬壺を持たない珍しい薬師如来です。(重要文化財)
以前は60年に一度の御開帳だったということもあって、厨子の前にはかつてお前立ちだったと思われる仏像が安置されていました。


ポストカード

薬師如来の脇侍として「日光菩薩・月光菩薩」が祀られていましたが、当初より日光・月光として祀られていたのではなさそうに見えます。
「月光菩薩立像」は平安時代初期の作とされ、像高144cmのカヤの一本造りで、頭部には元は十一面観音だったと思われる痕跡があります。(重要文化財)


ポストカード

厨子の中で薬師如来の左に安置されていたのが「日光菩薩立像」とされている仏像ですが、この仏像も十一面観音ですので本来は違う形で祀られていた仏像だと思われます。
この仏像は奈良時代末期から平安時代初期の作と考えられており、平城京から平安京にかけての都と小浜との結びつきの強さが伺われる仏像です。



内陣でゆっくりとした時間を過ごして次に向かったのは「若狭歴史博物館」で開催されている特別展『知られざるみほとけ~中世若狭の仏像~』でした。
特別展では17種28躰の仏像が展示されており、常設展の『若狭のみほとけ』でも複製を含めて13躰の仏像が拝観できますので、ボリューム感はたっぷりです。
また複製仏は小浜地域の秘仏を複製しているものですが、汚れ加減などかなり精巧に再現されているものです。

 

特別展の構成は「第1章 明通寺十二神将の世界」、「第2章 中世若狭の仏像Ⅰ・Ⅱ」、「第3章 祈りと仏像」と並びますが、興味深いのは坐像がやや前屈みで光輪が前倒しになっている姿の仏像が2躰あったこと。
この仏像は立ったまま見ると前屈みですが、床面に座った位置からみると視線が合い光輪が広がるように見えましたから、寺院で座って拝む時に映えるように造られているんだと思わず納得してしまいました。

博物館で「木簡」をいただきましたが、これは古代より塩や海産物を都に運ぶ時に荷札として使われてきたものの復刻で、昔のいわゆるパスポートのようなものだったようです。
博物館ではその「木簡」をイベントとして配布していて、裏側に寺院の朱印をもらって御朱印帳のように使うことが出来るようですよ。



小浜では「明通寺」「若狭姫神社」「若狭彦神社」「神宮寺」「妙楽寺」「羽賀寺」「圓照寺」「多田寺」と巡りましたが、小浜という町は歴史・文化の面からも非常に面白い地だと思います。
小浜にはまだ多数の秘仏を所蔵されている寺院がありますから、機会を見つけて再訪したい地です。


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御朱印蒐集~京都 宇治市 明星山 三室戸寺~

2017-12-24 17:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所巡礼の第十番札所となる「三室戸寺」は別名『花の寺』と呼ばれる寺院として有名です。
早春には20000株のツツジが咲き、6月には10000株のアジサイ。
夏には250鉢の蓮が極楽浄土のように咲き誇るといわれ、晩秋には紅葉の名所になるといわれています。

花や紅葉に包まれた寺院というのは大変魅力的なのは山々ですが、混雑は極力避けたい当方ですので紅葉が終わった頃にひっそりとお詣りしてきました。
しかし西国三十三所の寺院ですから巡礼衣装の方や参拝の方が数多く訪れる寺院でもありました。

 

土産物屋さんも並ぶ道を少し進むと朱色の山門が見えてきます。
山門をくぐると静かな境内の参道の右下に広いアジサイ園が拡がるのが見え、花期に来たらさぞや壮観なんだろうと思う景色です。



山門のすぐ先には本堂へ登る石段が続きます。
寺院を訪れて最初に気持ちが盛り上がるのはやはり最初の石段になります。
石段を登りながら少しづつ見えてくる堂宇に心を踊らされるのは当方だけではないと思います。



三室戸寺は本山修験宗の別格本山とされており、総本山を聖護院とする本山修験宗は修験道の一派とされています。
本山派は熊野三山を拠点とする山岳修行の派で、三室戸寺は聖護院に続く位置にある本山修験宗の本山ということになります。

創建は770年、光仁天皇(天智天皇の孫)の勅願により、三室戸寺の奥、岩渕より出現された千手観世音菩薩を御本尊として創建されたと伝わる宇治の古刹です。
手水舎は石の大きな蓮からこぼれるように水が流れ出る造りになっており、下には憤怒の表情の不動明王が祀られていました。
この水は霊泉・不動水と名付けられ名水のようですが、飲んではいませんので味は不明です。





三室戸寺は1460~1466年の頃に火災で焼失し、再興したものの1573年に足利義昭に加勢したため信長に焼き討ちされたとされます。
その折に梵鐘は秀吉の部将・増田長盛により龍頭のみ切り取られてしまい、その直後より梵鐘の祟りか病に伏せった長盛が陳謝して鐘は返され、無事病の癒えた長盛は毎年御供米百俵を送ったという逸話が残されている鐘です。
梵鐘を撞かせていただきましたが、濁り音のない余韻の長いいい音色の鐘でした。



本堂は1814年に再建された建築物で、重層入母屋作りとされますが、非常に重厚な印象を受けます。
本堂の手前には蓮の鉢が並べられており、夏の花期にはさぞや壮観な光景が見られると想像されます。





外陣は如何にも西国三十三所の札所らしい奉納額が並んで掲げられていて、周辺には線香の香りが漂っています。
本尊は千手観音立像ということではありますが、厳格な秘仏となっておりその姿は拝観出来ません。
お前立ちが本尊の変りに厨子の前に祀られていますが、千手ではなく二臂のお姿で上に向かって拡がる大きな宝冠をかぶられ、その衣にはどことなく西洋の法衣のイメージすら感じさせる姿です。





ところで、外陣の奉納額の中に面白いものを見つけました。痛みは激しいですが、これは懸仏のようです。
神鏡のような円形の中に仏の立像が見えますし、花瓶に活けられた蓮も確認できましたので、これは神仏習合の証。嬉しい発見になりました。



鐘楼の後方にはやや小ぶりな三重塔(江戸時代)が山を背に建てられています。
境内には源氏物語の宇治十帖の『浮舟』の古蹟があり、この浮舟は三室戸寺の御朱印の一つにもなっています。



境内の紅葉はほぼ終わっていましたが、山側にはまだ紅葉が少し残っています。
大きな木色の塔の猛々しさも魅力がありますが、こういう優しい感じのする小ぶりな塔も雰囲気がありますね。





琵琶湖にある竹生島では平安時代から現代に続くとされる「蓮華会」で奉納される「宇賀弁財天」があり、「宇賀神」と「弁財天」が合体した弁財天信仰があります。
そこでは「弁財天」の頭の上に鳥居を建て「宇賀神」が祀られているというものですが、宇賀神を単体で見たのは三室戸寺が始めてでした。

“顔が翁”で“体は蛇”という人頭蛇身の神には「耳を触れば福が来て、髭を撫でると健康長寿、しっぽをさすれば金運がつく」御利益があると書かれており、訪れる方がそれぞれの場所を撫でられておられました。
三室戸寺には本堂前に「狛牛」と「狛兎」、石段を登りきったところに「狛蛇」があり、縁起物がたくさんある寺院です。



三室戸寺には「三千院往生極楽院」の観音菩薩像・勢至菩薩像のように大和ずわりをした阿弥陀三尊像がありますが、こちらは拝観叶わずでした。
拝観するとしたら次の「 観音様の足の裏を拝する会」まで待たないといけないようですね。


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御朱印蒐集~京都 宇治 朝日山 平等院~

2017-12-21 19:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都宇治市は平安の昔、貴族の別荘地だったといわれます。
平等院は1052年、関白藤原頼通が父・道長より譲り受けた別業を仏寺に改めたことが始りとされています。

平等院が創建された時代は「末法思想」が広がっていたといわれる混沌とした厭世的な時代の始りで、貴族たちは極楽浄土の世界を求めていた時代といわれます。
釈迦の入滅から“正法、像法、末法”と続いていくといわれていますが、これだと平等院が創建された年から今に至るまでの1000年の間、末法の世が続いているということになってしまうのです。
弥勒菩薩が下生するのは釈迦の入滅から56億7千万年後となりますから、末法の世はほぼ永遠に近い年月になりますね。

 

さて、宇治平等院は京都でも有数の観光地ですので少し早めの開門10分前に到着しましたが、すでに受付には長い列が続いていました。
開門して敷地内へ入ると、今度は鳳凰堂内部拝観の券を購入しようとする人があっという間に長蛇の列を作られます。
拝観券を買うのに30分、人数制限のある拝観は最初のグループに入れても更に30分待ち。さすがにこれは見送りに致しました。



まず表門から入り参道を進むとあの見慣れた鳳凰堂が見えてきて観光気分に浸ってしまいます。
鳳凰堂を前にした阿字池の周囲を取り囲むように写真撮影する人が並び、さすが世界遺産の有名寺院との感があります。



拝観した日は天気に恵まれて阿字池に鳳凰堂が綺麗に映り込んでいましたので、当方も数枚写真を撮らせていただきました。
鳳凰堂は朝日が当たる向き(東向き)に建てられていて朝の爽快さを感じさせてくれます。朝日に輝く鳳凰堂は、西方浄土にある極楽ということなのでしょう。



すでに紅葉はほぼ終わってはいましたが、一部残る紅葉のところにはカメラマンが密集しておられます。
レンズを交換したり、怖しい枚数を連射で撮ったりと大変なことになっており、後方にいた当方は横の方と“なかなか撮らせてもらえませんな。”とボヤキあっておりました。





平安時代の唄に「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまえ」とあるそうですが、この鳳凰堂は外から観るだけでも“極楽はここにあり”との思いが湧いてきます。
鳳凰堂のデザインは「10円玉」や「一万円札の裏側の鳳凰像」に使われているのは有名で、それだけ日本文化を象徴する建築物なのだと言い換えることが出来そうです。



鳳凰堂は正面から見ると中央に阿弥陀如来の顔を拝見することができ、内部拝観券を持たない当方にもそのお姿を拝見することが出来ました。
この阿弥陀如来は1053年に仏師・定朝によって造られた仏で、像高277cmという大きさですので阿字池越しでもよく見えるのでしょう。



鳳凰堂ばかり眺めている間に朱印場が開いたようで、こちらにも列が出来始めていましたのでまずは御朱印を頂くことにしました。
御朱印は書く人が多いためすぐに頂くことが出来ましたので、最後に左から鳳凰堂を眺めてから先へ進みます。



梵鐘のある場所まで少し登るとまだ微妙に紅葉が残っています。
ただし鐘楼の下には修学旅行生が大量に腰掛けていて、横をすり抜けながら梵鐘まで辿り着くことに...。



平等院の梵鐘は、神護寺・三井寺の梵鐘とともに日本三名鐘の一つとされていて、梵鐘には鳳凰や天女の姿が彫られている美しい梵鐘でした。
最もこれはレプリカで、本物は平等院ミュージアム「鳳翔館」に収蔵されていて、本物はそちらで見ることが出来ます。



平等院には鳳凰堂以外にも「観音堂」「浄土院」「不動堂」「羅漢堂」「最勝院」などいくつかの堂宇がありました。
「浄土院」は15世紀後半に平等院修復のために開創した塔頭寺院と伝えられていて、堂内には珍しい「救世船乗観音」が祀られておりました。



「救世船乗観音」は旅の安全を祈る旅人やその家族の方、航海の無事を祈る方、人生を長い旅路として一生涯の無障を願う人々が「人間遊行(人生は長い旅路)」の願をかける仏だとされています。
現在の「救世船乗観音」は戦後に盗難にあった仏の復元だそうですが、非常に珍しいお姿の仏像に目を奪われます。



この浄土院の本尊は「阿弥陀如来坐像」で異彩を放つ「救世船乗観音」とはまた違った趣のある御本尊でした。



塔頭寺院には浄土院の他にも「最勝院」があり、不動堂と地蔵像・源義朝の墓などがありました。
不動堂の須弥壇中央には「不像明王像と矜羯羅童子・制多迦童子」が祀られ、左に「役行者と前鬼・後鬼」、右は暗くてよく見えないながらも、もう1躰の不動明王の姿があるのが分かります。





最勝院の境内を歩いていると山茶花の花にメジロが来ているのが見えましたので慌ててカメラを向けてみましたが、ちょっと距離が近すぎましたね。



ところで、平等院には「平等院ミュージアム鳳翔館」という博物館が併設されています。
主な展示物は日本三名鐘になっている平安時代の「梵鐘(国宝)」、鳳凰堂中堂にかつて据えられていた「鳳凰1対(国宝)」、あの有名な「雲中供養菩薩像26躯」。
近代的なデザインの博物館に展示されている仏像群は見所がたっぷりとあります。



台座に四天王を従えた「帝釈天立像(平安期)」、同じく平安期の「地蔵観音立像」「聖観音立像」などが展示されている中で、「十一面観音立像(平安期・重文)」の柔らげな表情が印象に残ります。



平安貴族の思いの詰まった平等院には極楽浄土への憧憬が今の世にも伝わってきます。
西方浄土へ行けば、飛雲に乗った菩薩たちが楽器を奏で舞を舞う。そんな世界を人々は夢想したのでしょう。

最後になりますが、宇治の地は「宇治茶と源氏物語のまち」と呼ばれており、紫式部は「源氏物語」の最後の十帖(宇治十帖)は宇治川が舞台となっているといいます。
宇治橋の畔には紫式部の像があり、優雅な貴族文化を象徴するメモリアルになっていました。



驚いたのは、貴族の雅な文化とは相反する激しい勢いで流れる宇治川の流量の豊富さでしょうか。
宇治川には『源氏物語宇治十帖「浮舟」』の物語に、宇治川で入水自殺しようとした浮舟が2人の男の愛に翻弄されるドラマが残されているようですね。


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御朱印蒐集~滋賀県大津市 比叡山延暦寺西塔 釈迦堂 内陣特別拝観~

2017-12-17 20:02:02 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山延暦寺へ行くのは1年ちょっとの間でこれが3度目になります。
最初の参拝は「東塔エリア」へ行き、2回目は「横川エリア」「西塔エリア」を巡って2度目になる「東塔エリア」へお参りしました。

今回は「西塔釈迦堂」での特別開帳“釈迦如来像特別ご開帳”と“内陣特別拝観”を目的に、「西塔エリア」を巡り、「横川エリア」にも立ち寄ってきました。
釈迦堂の秘仏本尊は33年ぶりの御開帳で、内陣特別拝観に至っては初めての公開という貴重な機会であり、比叡山の紅葉シーズンの混雑が終わるのを待ってからの参拝でした。

 

奥比叡ドライブウェイは紅葉の名所であり、“紅葉のトンネル”なるものまでありますが、この時期にはもうとっくに終わっていて、冬の木々の景色が続きます。
一部の日陰には雪溜まりがわずかに見られ、比叡山は平地より一足早い冬を迎えているようでもありました。



比叡山延暦寺は人の多い東塔エリアに比べ、西塔や横川は人の姿ががくっと減るはずなのですが、西塔エリアには溢れんばかりの人の姿があります。
なぜかといえば、特別開帳に併せて観光バスツアーが続々と入ってくるからで、バスがくるとドッと人が増え、しばらくして人が減りかけると次のバスが来るという繰り返しになっていました。



西塔エリアで最初にあるのは2つの堂宇が廊下でつながった「にない堂」になります。
「にない堂」は左に「常行堂」、右に「法華堂」の2つの修行道場を廊下でつないで天秤のような堂宇で、弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えがあります。
さすがにそれは無理としても、弁慶が人並み外れた力持ちの巨漢だったという比喩になっているのでしょう。





にない堂の廊下の下をくぐって釈迦堂へ向かうと、釈迦堂までの石段が待っています。
石段の登り降りがどういう訳か、寺院巡りの楽しみの一つになってきているので石段を見ると嬉しくなってしまいます。



釈迦堂の前まで来ると、外陣が到着したバスツアーの人で溢れそうになっていましたので、まずは周辺を散策。
鐘楼まで登って梵鐘を撞かせていただきました。比叡山の山中に響くこの鐘の音はどこまで聞こえているのでしょうね。





特別開帳されている釈迦堂(転法輪堂)は、比叡山に現存する最古の建築物とされ、元々は三井寺の園城寺の金堂だったものを秀吉移築したものだといいます。
同じ天台宗ながら延暦寺と三井寺には因縁めいた歴史がありますね。
右に3本の霊木のある大きな寺院を前に身が引き締まりますが、比叡山の平地とは違う肌を指すような冷たい空気の影響もあるのでしょう。



釈迦堂へは左側へ回り込んでから入り、まず僧侶の説明を受けます。
その後、内陣に入る際には別の僧の方から『灑水(しゃすい)』を受けて入る簡易的な儀式を受け、香水を頭にかけて清めてもらうという初めての体験をさせていただきました。





釈迦堂の内陣は須弥壇に祀られた秘仏本尊「釈迦如来像」と脇侍の「普賢菩薩」「文殊菩薩」。
さらに両脇を守護する「一六善神」が左右に別れ、左には「深沙大将(西遊記では沙悟浄)」、右には「玄奘三蔵(西遊記では三蔵法師)」が一緒に並びます。

内陣では須弥壇を中心に一回り出来ますが、内部は暗く、吐く息が白くなるほど冷え切っている。
時計回りで最初に闇に照らし出されて異常なまでの迫力がある「持國天像」、「文殊菩薩」と「八所明神」。

内陣の四隅は四天王のような配置になっていますが、広目・多聞は国宝殿にあるため、ここでは「梵天像」と「帝釈天像」が祀られています。
「梵天像」と「帝釈天像」の間には珍しい「不動明王半跏像」が祀られ、お前立ちの「釈迦如来金像」が御開帳期間は後方に祀られていました。

最後の面には「山王七社」「元三大師」と続き、「増長天像」を観た後、で内陣から出ることになりました。
闇の中に浮かび上がる神々しい仏像群に気圧されることしきり。外陣でお釈迦様と結ばれた結縁五色紐を合掌する手に挟んで感謝の念をお伝えしました。



西塔エリアでは前回たどり着けなかった「弥勒石仏」への道を歩きました。
前回はうっすらとではありましたが積雪があり、進むことを断念した道です。

比叡山には各所に石仏が見られますが、この「弥勒石仏」は比叡山最古の石仏とされ、鎌倉初期の造立といわれている石仏です。
石仏があるのが確認されたのは1960年といいますから、700年以上草木に埋もれていたということになります。



弥勒石仏までの道中には「相輪とう(高さ約10m)」が建てられています。
最澄が820年に創建したのが始りで、その後数回の修理を経て1895年に改鋳されたものが現在の相輪とうで重要文化財に指定されています。



西塔エリアにはまだ堂宇があるのですが、ここで横川エリアまで移動することとしました。
横川エリアではまず「横川中堂」へお参りしましたが、横川中堂は下から懸造の建物を見るのが一番雰囲気がありますね。



横川には「四季講堂」があり四季に法華経の論議が行なわれた堂宇ですが、一般的に四季講堂というより「元三大師堂」としての方が有名かもしれません。
元三大師こと良源は、延暦寺中興の祖ともいわれる方で第18代天台座主にもなられた名僧です。



元三大師は“おみくじの原型を作った人”としても有名ですが、鬼の姿に変化して『角大師』として疫病神を祓ったともいわれます。
その変化した姿は“魔除けの御札”として現代にも伝わっています。





堂の外陣から中へ上がらせてもらってお参りしてみると、本尊の前には数多くの奉納品があり元三大師への信仰の深さを感じることになります。
また外陣には奉納額がいくつか掛けられていましたが、土地柄(横川エリアは滋賀県の大津市街と近い)もあって「大津絵」の奉納額が見られます。





上は『鬼の寒念佛』というモチーフの絵で、鬼が僧衣をまとってはいても慈悲ある姿とは裏腹の偽善者を風刺しています。

下左は『弁慶の立ち往生』。
兄の源頼朝と対立した義経が、衣川の戦いで追い詰めらてた義経を守り、薙刀を振るい孤軍奮闘するも最期は立ったまま絶命したという話を絵にしたものです。

下右は『藤娘』。
『藤娘』は、『鬼の寒念佛』と並び元禄期からの代表的な絵だとされ、江戸後期以降には良縁の符としても売られていたそうです。



奥比叡ドライブウェイでは「比叡山峰道レストラン」で休憩しましたが、その時に注文したのが『ごま豆腐ぜんざい』でした。
2種類のごま豆腐をぜんざいに入れて食べますが、食の合間につまむ塩昆布がぜんざいの甘さを更に増します。
福井県の永平寺にも同じような『ごま豆腐ぜんざい』がありましたが、比叡山の方が甘かったように思います。



比叡山には行っているつもりでも、三塔の他にまだ巡っていない十六谷二別所があるといわれます。
雪が溶けた頃にそんな堂宇を巡ってみるのもいいかもしれない。そんな想いを抱いています。


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ベトナム料理屋を探せ!~奈良 東向商店街「ベトナム料理コムゴン」~

2017-12-13 20:05:55 | 風景・イベント・グルメ
 奈良へ寺院巡りにやってきて食べ物の話をするのは俗物的な話ですが、このコムゴンってお店は美味かったな。
奈良公園で昼前になったので食べ物屋を探している時に商店街が見えたので行ってみることに...。



東向商店街というらしいのですが、さすが一大観光地の近くにある商店街ですので食べ物屋さんは多い。
最初に目に入ったのが「ベトナム料理コムゴン」の看板でしたので迷うことなく階段を登って店内に入ってしまいましたよ。



当方が注文したのは「ブンティットランチ」でした。
エスニックは好きだけど肉は苦手という偏食な当方にも関わらず、“ホーチミンの路地裏屋台の名物麺!”の言葉に負けて肉たっぷりの料理を注文してしまいました。

たっぷりの野菜と焼豚ののったお米のビーフンにレモンをブシュッとしぼって、甘辛い魚醤タレをかけて食べますが、とてもサッパリとした味で次は真夏の暑い日に食べてみたくなるような料理です。
パクチーの独特の風味に煽られて、煮肉たっぷりの御飯も肉嫌いに関わらず美味しく完食してしまいましたよ。



連れ合いは「サイゴンランチ」。ガパオのように見えますが、味はもう少し優しい感じです。(当方が肉系を注文して食べられなかった時に備えて肉の少ない料理を注文してくれる気遣い)
日本人向けに味付けされているのだと思いますが、エスニックにありがちな癖の強さはない感じですね。



お店には続々と人が入ってきて、満員の客入りに入口で諦めて帰る方もおられましたので、かなりの人気店のようです。
姉妹店かどうかは分かりませんが、京都にも店舗があるので立ち寄ってみたいところです。


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御朱印蒐集~奈良 東大寺(二月堂・三月堂・四月堂)~

2017-12-11 21:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 東大寺の二月堂は「お水取り」の儀式が行われる堂宇として有名で、その舞台となる二月堂へ初めての拝観が叶いました。
「お水取り」は福井県小浜市にある「神宮寺」の閼伽井で汲まれた水が小浜の鵜ノ瀬という川に流され、その水が奈良東大寺の二月堂の閼伽井にまで通じているという伝説による儀式です。

お水取りはTVでしか見たことはありませんが、大きな松明の火花を懸け造りの二月堂の上から散らしたりする珍しくも豪快な儀式だと記憶します。
福井県小浜市と奈良市はかつて渡来人の文化や経済が流通した経路といわれ、「お水送り」「お水取り」はその象徴的な儀式といえるのかもしれません。

 



『二月堂』

奈良公園の中に「二月堂参詣道」の石標が建ち、その道の先に二月堂への石段が見えてきます。
TVで見る“懸け造りの建築の上段で松明の火花が散る”「お水取り」の二月堂とはどんな堂宇なんだろうと期待が高まります。





しかし東大寺は山の上にある山寺ではないのになんでこんなにガスっているのでしょうか。
“全てが霧に包まれるような寺院”と誤った認識をしてしまいそうですよ。



堂内へは石段を登って入ることになりますが、平地に立地する東大寺ではここは数少ない石段でした。
人が溢れている金堂(大仏殿)と比べると、人は格段に少なくなり落ち着いて境内を歩くことが出来ます。
ただし、東大寺は広い境内に堂宇が散在していますので、全てを見て回るには時間に余裕がないと巡れそうになさそうです。



石段を登ると正面に手水舎があります。お香水を儀式に使う堂宇ですから手水舎も立派な造りになっています。
この龍は吐水こそしてはいませんが、龍玉を握った大きく立派な龍でした。



二月堂は1180年と1567年の兵火には焼け残ったものの、1667年の「お水取り」の最中に失火により焼失。
しかしその2年後の1669年に再建されて現在に至り、建物は国宝に指定されています。
「お水取り」の行事はTVなどで見ていても“類焼しないのかな?”と思うことがありますが、再建後350年に渡って火災は発生していないようですね。



「お水取り」行事に欠かせないのが『閼伽井屋』ではないでしょうか。
閼伽井屋のお香水は福井県小浜市にある神宮寺の閼伽井屋で汲まれた水が遠敷川鵜ノ瀬から「お水送り」として流され、10日間かかって二月堂の閼伽井(若狭井)へ流れ着くという謂われがあります。
日本海に面して大陸・朝鮮半島の窓口だった小浜と当時の都・奈良との深いつながりが伺い知れる謂われです。



『法華堂(三月堂)』

東大寺には2月堂の他にも3月堂(法華堂)・四月堂(三昧堂)と月の名の付いた堂宇が同じエリアに並んでいました。
三月堂は、東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされているとされます。

この三月堂は正堂と礼堂から成り、正堂は天平時代の建築。礼堂は鎌倉時代に建立されたもので、鎌倉時代の改築の際に2つの堂をつないだとされています。
正面になる礼堂から入りましたが、中に祀られている仏像は奈良時代の素晴らしい仏像が安置されておりました。





まず圧倒的な迫力と美しさの「不空羂索観音(像高362cm・国宝)」に目を奪われます。
あっと声をあげたまま壁側にあった座敷に座り、ひとしきり眺めてしまいました。



須弥壇に安置されている仏像は全て奈良時代の国宝仏ばかりです。
本尊の「不空羂索観音」の横には脇侍にあたる「梵天(像高402cm)」と「帝釈天(像高403cm)」。
四隅を守護するのは「持国・増長・広目・多聞の四天王立像」で、正面には「阿吽の金剛力士像」が門を構えており、観音様を万全の守護で守っています。



奈良仏は平安仏のデフォルメされた仏像や鎌倉時代のリアリズムの仏像とは違った、ある意味シンプルで素朴な仏像との印象を感じるものもありましたが、本尊の不空羂索観音のあの美しさはいったい何なんだと思うほど素晴らしい仏像でした。
やはり奈良の寺院・仏像には日本仏教始りの地ゆえの見所があり、法華堂(三月堂)へ行ってよかったとの感が深まる寺院でした。

『三昧堂(四月堂)』

「三月堂(法華堂)」は旧暦3月に法華会が行われることから三月堂と呼ばれるようですが、「四月堂(三昧堂)」は法華三昧会が旧暦4月におこなわれることから四月堂と呼ばれるようになったといいます。
御本尊は十一面観音立像(平安末期)と脇侍が安置されていました。

かつては千手観音像が本尊として祀られていたようですが、現在その仏像は東大寺ミュージアムへ移動してしまい、代わりに祀られたのが現在の御本尊だそうです。
東大寺ミュージアムへ行く時間がなくて拝観出来なかった「千手観音立像」は写真で見ても凄い仏像でしたので少し悔いが残ります。



『東大寺梵鐘』

東大寺金堂(大仏殿)は何もかもが巨大でしたが、梵鐘も信じられないような大きさです。
東大寺を去る最後に鐘楼へと立ち寄りました。



鐘楼は鎌倉時代に再建された建築物で国宝に指定されており、単層の鐘楼としては大きな建築物となっています。
それもそのはずで梵鐘は高さ3.86m、口径2.71m、重量26.3tと桁外れの大きさの梵鐘です。

撞木も長さ4.48m、直径30cm、重量200Kgと特大サイズですので、大晦日の除夜の鐘の時には8名が組になって綱を引いて鐘を撞くそうですね。
東大寺が建立された時代には巨人族が跋扈していたのか?と思えてしまうような寺院ですね。





奈良へは遥か昔に小学校の旅行や観光バスツアーでしか行ったことがないのですが、参拝してみたい寺院が有名寺院だけでもいくつもあります。
また有名寺院でなくても仏教の盛んだった土地には“こんな寺院があったのか!”と驚くような寺院がある事がありますから、出来たら宿泊していろいろな寺院を巡ってみたいものです。




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御朱印蒐集~奈良 東大寺 金堂(大仏殿)~

2017-12-08 19:52:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 『あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり』の和歌は、平城京が栄えた時代の奈良の華やかな都の様子を伝えた歌だとされています。
華厳宗大本山の東大寺は聖武天皇が建立した寺院で、初代別当は良弁だったといいますから、まさしく日本の仏教の根本になる寺院の一つだと思います。

大仏建立と大仏を祀る巨大な寺院を造るという稀有壮大な構想の推進役として迎えられたのは大僧正・行基で、寺院巡りをしている時に何度も名前を聞く「聖武天皇・良弁・行基」の3人の名前がこの寺院には揃っています。
東大寺へは小学校以来の参拝となりますが、全てにおいてその巨大さに再び驚くこととなりました。



東大寺は大仏(盧舎那仏像)の鋳造が終わり、大仏殿が完成した752年に開眼供養会が実施されたといいます。
大仏と大仏殿は1180年と1567年の2度焼失しており、その都度再興されて現在は国宝建築物の指定を受けています。



東大寺で驚くのは、その大きさばかりではなく異常な数の観光客にも驚きます。
多種多様な国からの来訪者が非常に多く、日本人参拝者やそれに混じって修学旅行生の姿も見受けられ、日本は元より国際的な寺院であることが実感出来ます。



奈良公園を歩いている途中にすり寄ってくる鹿を振り切って東大寺へ向かうと、まず見えてくるのは南大門。
日本最大の山門といわれるそのサイズは横幅12m・高さ25mというビッグサイズの国宝建築物です。



南大門は天平時代に創建されたものの、1203年に再建上棟されたとされる東大寺の栄華が伺われる山門です。
また鎌倉時代の再建ではありますが、忠実に再現したかのように中国の天竺様の佇まいを感じる雰囲気に奈良文化の香りが漂います。

南大門でさらに驚くのは山門に安置されている金剛力士像ではないでしょうか。
1199年に上棟された山門に安置する金剛力士像が完成したのは1203年。像高8.4mという見たことも聞いたこともないような巨大な仁王様に思わず驚きの声が漏れてしまいます。





南大門を横から撮ると、参拝者のサイズと比較して如何に金剛力士像が大きいか分かると思います。
金剛力士像に関わらず、東大寺の仏像はどれもとにかく大きく、大きさゆえの迫力が凄い!



金堂(大仏殿)の前には中門があり、通り抜けが出来ないため迂回して大仏殿に向かうことになります。
中門は1716年頃の再建で重要文化財に指定された楼門です。



中門のすぐ右手には鏡池という天気が良ければ鏡のように中門・金堂を写すといわれる池があります。
曇天の空の下でしたので、弁天さんの祀られた宮を背景に鹿を撮って終了です。



さて、中門の回廊を進むといよいよ大仏殿が姿を現します。
大仏殿は752年に開眼供養された後、2度に渡って焼失してしまい、現在の大仏殿は1709年に落慶されたものだそうです。

再建の際には創建時に横幅86mあったものを57mに縮小して建てられたといいますが、それでも高さ47m・横幅57m・奥行50mという木造建築ではとてつもない大きさの堂宇になっています。
建物も如何にも中華風の雰囲気があり、古都 奈良の天平文化の名残が感じられます。





堂内に入るとやはり巨大な大仏様が鎮座しておられます。
大仏様(盧舎那仏)も当然ながら国宝で、その像高は何と15m近い。



15mの高さがピンときませんが、ビルなら4階くらいでしょうか?
まさしく富と権力を持って国家守護を祈願したこの大仏の姿を初めて見た当時の人はさぞやど肝を抜かれたことでしょう。



この大仏を観て豊臣秀吉が京都に大仏を建立しようとしたのは頷ける話で、大地震や炎上がなければ京都にも大仏様が残っていたかも知れないと考えると興味は付きません。
京都の大仏様(像高19m)は、奈良の大仏様(15m)を凌ぐ大きさでしたので、秀吉の富と権力を象徴するはずのものでしたが、灰塵に帰してしまったのはその後の豊臣家の行く末を暗示していたように受け取れます。

盧舎那仏の向かって左には「虚空蔵菩薩」が安置されていますが、この仏像もまた巨大さに驚きます。
1752年に完成した仏像とされ、高さは約7mを超える仏像で、脇侍とはいえ驚くべきサイズの仏像です。



堂内で大仏を守護するのは四天王で、大仏様の北西では「広目天」が守護しています。
四天王は江戸期1799年の造立とされており、像高5mというこれまた巨大な仏像です。



「増長天」と「持国天」はなぜか首だけが安置されていましたが、これはどういうことなのでしょうね。
予算が尽きたのか、仏師と折り合いが悪くなって中止されたのか、間に合わなかったのかなど訳がありそうです。



大仏様の北東を守護しているのは「多聞天」。
こちらも広目天と同じサイズで迫力満点のお姿の像で、このサイズの四天王像はさすがに見たことはありませんでしたね。



多聞天の横は大混雑しており、何事かと見てみると「大仏殿の柱くぐり」の柱がありました。
30cm×37cmの穴ですから大人が抜けるのはちょっと無理で、通り抜けられるのは子供だけかな。

大仏様の向かって左に安置されているのは脇侍の「如意輪観音坐像」でした。
こちらも「虚空蔵菩薩坐像」と同様に7mを超える仏像で、両脇侍ともに重要文化財の指定を受けています。



高度成長期の日本のチョコのCMに“大きいことはいいことだ!”というのがあったと記憶していますが、ここ東大寺金堂はまさしくその言葉が当てはまるような寺院です。
何もかもが大きいこの寺院には小さなことを全て吹き飛ばすようなパワーを授かることが出来るのではないでしょうか。

圧倒されるばかりで金堂から出てくると、若い牡鹿が待ち構えていました。
可愛らしいので“鹿せんべい”を買ってあげようとしたら、何頭もの鹿が寄ってきて後ろから横から当方のジャンバーに噛み付き裾を引っ張って鹿せんべいを求めてきます。
ジャンバーが鹿のヨダレと鹿せんべいの食べかすでベトベトになってしまったのには閉口してしまいましたよ。




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御朱印蒐集~奈良 興福寺『阿修羅 -天平乾漆群像展』~

2017-12-06 06:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 新聞広告やTVの特集で大々的に宣伝されていた『阿修羅 -天平乾漆群像展』に開催終了寸前になってやっと訪れることが叶いました。
雨の寺院巡りはなるべく避けたいところではありますが、近畿は終日雨の天気予報ながらも奈良市内は何とか雨が上がりそうなとの予報を信じて奈良までのドライブとなりました。

興福寺の仏像は元々境内にある「国宝館」に収蔵されていたのですが、国宝館の耐震改修工事により「仮講堂(通常非公開・1975年に旧薬師寺金堂を移建)」に展示されるのが今回の阿修羅展になります。
仏像は来年からも国宝館で拝観することは可能ではありますが、興福寺の案内文にある『西金堂内陣の宗教空間イメージを視覚化するもので「天平の文化空間の再構築」をする』という試みに大変魅力を感じてしまいます。

 

 

興福寺は南都六宗(三論宗・成実宗・倶舎宗・華厳宗・律宗)の一つになる法相宗の大本山で、後世の仏教のような民衆への布教ではなく学問研究を重視した国家宗教だったとされます。
寺院の創建は669年に藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置するために夫人の鏡女王が京都山科に建てた「山科寺」が始りとされ、710年の平城京遷都により現在地に移って「興福寺」となったと伝えられています。



興福寺として創建後は天皇や皇后、藤原氏によって次々に堂塔が建てられ、平安時代になると春日社(春日大社)の実権をもち、江戸時代まで保護されてきたとされています。
しかし明治の神仏分離令・廃仏毀釈・社寺上地命により荒廃して、一時は廃寺同然となったともいわれます。
その後、復興を果たして世界遺産「古都奈良の文化財」の資産として登録をされていますが、日本にとって神仏分離令・廃仏毀釈とは一体何だったのか?との疑問は拭えません。

仮講堂では中央に「阿弥陀如来坐像(像高225.7cm・鎌倉初期・重文)」。
御本尊の両サイドには「帝釈天像(鎌倉時代・重文)」「梵天像(同)」の脇侍が祀られ、横に並ぶのは「十大弟子像(奈良時代・国宝・現存するのは6躰のみ)」と八部衆像(奈良時代・国宝)。
左右の端には「阿形と吽形の金剛力士像(鎌倉時代・国宝)」が布陣されています。



像高153cmの阿修羅像は中央やや左に安置されていますが、入口から入ってすぐに目に付いた時は何とも嬉しい気持ちになります。映像等では見てはいても、直接目の前で拝観するとやはり感慨深いものがありますね。
鎌倉期の仏像が多いのは度重なる火災によって焼失した仏像を鎌倉時代に復興したからということでしたが、須弥壇に奈良仏と鎌倉仏が並ぶ姿には仏像制作の変遷の歴史を感じてしまいます。



五重塔(国宝)は高さ50.1mの大きくて力強さを感じる塔で、高さは東寺の五重塔に続く日本で2番目に高い塔だそうです。
この塔は730年、興福寺の創建者 藤原不比等の娘 光明皇后が建立したとされ、その後5回の被災・焼失を繰り返し、1426年に再建されたものが現在残る塔といわれています。



南円堂(重要文化財)は「西国三十三所巡礼」の第九番札所になっている八角形の御堂で、創建は813年。
現在の建物は1789年の再建で、堂内には御本尊の「不空羂索観音像(国宝)」が祀られているようですが、公開は年に一日だけなので拝観することは叶いませんでした。
御本尊は運慶の父・康慶とその弟子達が造ったとされており、平安末期の仏像です。



南円堂の前にはかつて存在した中門の基壇が復元されていました。
中門からは回廊が延びて、現在復興中の「中金堂」へと通じていたそうです。
「中金堂」は2018年に落慶するそうですから、工事中の国宝館と並んで来年からの興福寺は様変わりするのかもしれません。



興福寺の奥の方には「三重塔」がひっそりと建てられていました。
三重塔は1180年の被災の後まもなくに再建された塔で、北円堂と並んで現存する興福寺の建築物で最も古い建物だとされています。
初層の須弥壇には弁財天像と十五童子像が安置され、四天柱や板壁には如来・浄土の景色が描かれているようです。



「北円堂」は藤原不比等の一周忌の721年に建てられた御堂で、1180年の被災後の1210年頃の再建とされています。
特別開帳の時しか扉は開かれない堂ですが、内部には国宝の「木造弥勒仏坐像」他3躰の国宝仏像が安置されているということです。
弥勒菩薩坐像の台座内枠には慶派仏師の名が墨書きされているとされ、運慶が晩年に関わった仏像ともされています



北円堂からの参道を歩くとほどなくして五重塔が再び見えてきます。
紅葉はいい感じに赤みが増してきていましたが、いかんせん小雨交じりの曇天ではどうしようもありませんね。



参拝した日の興福寺では「阿修羅展」が開催されている「仮講堂」と「東金堂」以外は内部拝観は出来ませんでしたが、内部拝観の出来た「東金堂」も国宝の指定を受けています。(国宝建築物は五重塔・三重塔・北円堂・東金堂)
東金堂は726年、聖武天皇が薬師三尊を安置する堂として創建されたものの、6度の被災・再建を繰り返し現在の建物は1415年の再建建築となっています。



東金堂には本尊の「銅造 薬師如来坐像(室町期・重要文化財)」が安置されており、丈六の落ち着いた佇まいを感じさせてくれます。
脇侍の「日光・月光菩薩立像(重要文化財)」は1411年の火災の際に運良く運び出された仏像で、白鳳時代の作と伝えられています。


ポストカード

薬師三尊を守護するのは国宝の「四天王立像(平安期)」と同じく国宝の「十二神将(鎌倉時代)」。
四天王像は少し太めの躰をしていますが、これは頭上から邪鬼・台座まで1本の木から掘りおこしたことによるもののようです。

また、東金堂には「銅造 仏頭(白鳳時代・国宝)」が安置されていました。
この仏頭は685年に造られたとされる仏像の頭部で、1411年の火災によって頭部のみが残され、東金堂本尊の台座に納められていたのが1937年に発見されたそうです。


ポストカード

東金堂の外側には幕が張られており、その幕の図柄は奈良らしく2頭の牡鹿が向き合っている絵でした。
興福寺のある奈良公園には記憶していた以上に鹿の多さが目立ち、どこもかしこも鹿だらけです。
奈良公園の鹿は餌付けはされていますが、れっきとした野生動物で国の天然記念物に指定されているとはいえ、この人懐っこさには不思議な感じがしてしまいます。





興福寺の最後に“猿沢池から望む五重塔”を狙ってみましたが、いかんせん曇天で池に景色は映りこまず、そもそもガスっていて五重塔が霞んでおりました。
猿沢池にはカルガモ・マガモ・カワウなどの姿がありましたが、どこからやって来たのかカイツブリの姿まで見られました。カイツブリはここに定着しているのでしょうかね?





興福寺で拝観できた仏像は所蔵の一部だけでしたが、興福寺の国宝仏像は17件あり、法隆寺と並んで日本最多の国宝仏像所蔵数だといいます。
“なんと立派な平城京”と710年を語呂合わせで覚えた事のある方も多いかと思いますが、“なんと立派な興福寺”って印象の寺院だったと思います。


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御朱印蒐集~多賀町 普光山 真如寺~

2017-12-04 21:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 多賀町にある多賀大社は江戸の頃、「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」、「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」といった俗謡がはやされたといいます。
“伊勢神宮参詣や熊野詣の道中に多賀大社にも立ち寄って下さいな。”今で言う誘致のためのキャッチコピーみたいな意味もあったのだと思われますが、多賀大社が謡になるような大社だったからとも言えます。

多賀大社の門前町には名物“糸切餅”のお店や土産物店、飲食店が軒を連ねており、少し進むとかつての旅館や料理屋などが数軒見られ、往時を偲ばせます。
そんな町並みを近江鉄道多賀駅に向かって歩いていく道中に真如寺はありました。



彦根藩の井伊家は臨済宗妙心寺派ですが、徳川家が浄土宗を信仰していたことから彦根藩は浄土宗寺院には手厚かったと伺いました。
真如寺は浄土宗の寺院で室町時代の創建といわれています。



この寺院は重要文化財の「木造阿弥陀仏如来坐像」が安置されている寺院ですが、有名なのは時折公開される「地獄絵図」の方かもしれません。
しかし、行ってみて驚くのは実は仏像の多さです。



真如寺の「地獄絵図」は江戸時代後期にこの寺の修行僧が描いたとされる絵で、住職の方の説明では“地獄絵としては文化財価値はあまりなく、絵師が描いたものではないですから。”と謙遜されていましたが、2百数十年たっても痛みもなく地獄絵として充分見る価値のあるものだと思います。



外陣に並ぶ地獄絵は「初七日・二七日・三七日・四七日・五七日・六七日・四十九日・百ヶ日・1周忌・三周忌」と法要の周忌に合わせた地獄の様子が描かれています。
宗派によって考え方は違うようですが、死んだあとにも戒めの世界が待っているのは悩ましい話ですね。

初七日には三途川へ渡し賃の六文銭を持たずにやってきた亡者が「しょうずかの婆(奪衣婆)」に衣服を剥ぎ取られる様が描かれています。
婆の右横に居る鬼は「懸衣翁」でしょうか。女性と子供が衣服を剥ぎ取られようとして泣いています。



知らなかったのですが、地獄で罪を裁くのは閻魔大王だけではなく、三回忌まで命日ごとに裁く大王が変わるようです。
この初七日を裁く最初の十王は「秦広王」。かなり怒ってます。

三七日になると燃え盛る炎の中に衣服を剥ぎ取られた亡者が乱暴に投げ込まれています。
「宋帝王」は炎に焼かれる亡者を冷ややかに見ていますが、左の方で僧に引かれて別室へと引かれている亡者は許されて導かれていくということでしょうか?



四七日になると増々凄惨な裁きとなり、“餅つきの臼と杵で潰される”“網の上でバーベキューのように焼かれる”“犬に喰われる”など五官王の裁きには怖しいものがあります。



百ヶ日には“針山を登らされたり、炎の上を綱渡り状態から落下したり”の苦しみが待っています。
亡者の姿が何となく蛭子能収さんみたいなヘタウマ画になっていますね。
この百ヶ日を裁くのは「平等王」。罪を犯した者は皆平等に罪を償えってこと?



三回忌になってやっと阿弥陀様が救いにやってきて、やっと極楽浄土へと行くことが出来ます。
裁くのは「五道転輪王」ですが、五道転輪ということは五道から転生させてくれるということなのでしょうか。



外陣にある地獄を抜けて内陣に入ると、そこには阿弥陀菩薩の浄土の世界が広がっています。
須弥壇には重要文化財の阿弥陀如来坐像(藤原期・像高140cm・印は定印)が祀られていますが、この阿弥陀如来には紆余曲折の歴史があります。

神仏習合の時代、多賀大社にも天台宗系の神宮寺があり、神宮寺の中心であった不動院に阿弥陀如来が祀られていたそうです。
本地垂迹では伊邪那岐命の本地仏は阿弥陀如来とされていることから祀られていたようですが、明治の廃仏毀釈のおりに激しい排斥にあい、本地仏は露天に遺棄されてしまったとされます。
その後、本地仏や残された仏像・仏具が真如寺に預かられて無事に保管されたそうですが、各地で廃仏毀釈で失われたもの(物・心)は非常に大きかったのではないかと思います。



右の脇陣には別の阿弥陀如来坐像の前に四天王の内の「多聞天」と「増長天」が阿弥陀を守護しています。
この四天王像も元々は多賀大社の神宮寺にあった仏像だと御住職がおっしゃってました。



左の脇陣には「大日如来?(智拳印を結んでいる)」と数躰の「阿弥陀如来」が祀られ、「広目天」「持国天」がその守護にあたっています。
この仏像群の中にも廃仏毀釈で廃寺になった寺院の仏像があるように思います。



迫力があって彩色の残る四天王像は“いつごろの仏像ですか?”と聞いてみると、“江戸時代のもの”とのことでした。
浄土宗の寺院に四天王像や大日如来像など密教系の仏像が祀られている理由は廃仏毀釈の話を聞かせてもらっているうちに解かれていきます。





真如寺で最も興味深かったのは内陣の前に掛けられていた「懸仏(かけぼとけ)」でした。
丸い神鏡のような円板に阿弥陀三尊が付けられたもので円板の10時と2時の場所には守り神の竜が付けられています。
(1299年製作、全体:約60cm・阿弥陀如来像:23cm、観音菩薩像:14.5cm、勢至菩薩像:14.5cm)

まさに神を表す神鏡と阿弥陀三尊が融合した神仏習合の産物で、関心をひきます。
住職の話では全国の「懸仏」を熱心に観てまわっている方もおられるそうですが、その気持ちも分かりますね。


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