僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

岩崎山「乗倉古墳群と秋葉神社」~「姉川の合戦」浅井長政の陣~

2022-08-28 16:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市東部の草野川周辺の自治会の総称を「下草野地域」といい、自然環境に恵まれた静かな山里が続いています。
草野川沿いの川辺や山間部へ入ると、野鳥や蝶やトンボや昆虫、小動物や大型の動物に出会う機会があり、人間と自然の共有エリアのような地域でもあります。

国道365号線から草野川に沿った道に入ったところに「岩崎山・乗倉古墳群登山口」の看板があり、この道を通る時にいつも気になっていました。
登山口の近くには「浅井文化スポーツ公園」があってそちらの方には人が集まってくるものの、この山に入る人っているのだろうかと思えてしまうひとけのない山です。



登山口の前には「秋葉神社」の鳥居と案内板があるので見にいってみると、同じように見に来られていた人が登山口から山に入っていかれる。
人が入っていった山なら一人じゃない!ということで準備を始めて、山の中へ入っていきます。



最初はゆるい石段が続いており、下草が生えていないので安心して登っていける。
道の両脇が林となっているので風が通らず、蒸し暑いがこういう汗は気持ちの良いものです。



石段が途切れるとなだらかな登り道となり、歩きやすくなってくる。
全く下調べをせずに思いつきで登ってしまったので、この先がどうなっているかは分からないのが難点だが、少なくとも先行者がいるのは気休めになる。



あっという間に到着したのは「秋葉神社」。
「秋葉神社」は岩崎山を神体山としているようであり、火伏せの神の信仰がある神のため石造りの祠に祀ることが多いといい、この祠はまさに石造りの祠となっている。



岩崎山は「姉川の合戦」の時に浅井軍はこの辺りに先陣を置いたとされています。

1570年に足利・織田勢と対立した越前・朝倉義景を討つために越前・若狭の朝倉方へ侵攻した際、信長の妹・お市の方を嫁がせていた浅井長政が朝倉側に加勢する。
からくも逃げ延びて窮地を脱した信長とその軍勢は、近江に軍勢を率いて進発させた朝倉軍と姉川で雌雄を決する戦いが始まることになります。
朝倉軍は岩崎山の北に連なる大依山に布陣し、浅井軍は岩崎山に布陣したといい、6月28日に浅井朝倉軍は織田徳川軍と姉川で戦うことになる。



ところで、岩崎山には乗倉古墳群として現在10基の古墳が確認されているが、合戦時に布陣した際に墳丘を削平したり、傾斜面を削平した陣所を造ったとされ、古墳として分かりにくい形になっている。
もっとも陣跡も500年近くを経ているので、解説者でもいなければどこが陣所跡なのかも分からなくなっています。
まず最初に出会う1号古墳は前方後円墳で、乗倉古墳群は4世紀後半のものと想定されている。



ここで岩崎山の山頂に到着します。
あっという間に到着したのもそのはずで、標高は206.9mの山です。



低山ながら三角点はしっかりとあります。
どこをゴールにしたらよいか分からない山ですが、この後次々と古墳が連続して現れます。



古墳のある山へ行ったことは何度もありますが、次々を現れる古墳の墳丘を登って越えていくような古墳はあまり記憶にありません。
2号古墳・3号古墳・4号古墳を次々現れる古墳を乗り越えながら進んで行きます。
すべて円墳ですが、看板があるから分かるのであって、古墳の形状の違いは識別出来ませんでした。







5号古墳・6号古墳も円墳で、丘のアップダウンを繰り返すかのように墳丘を乗り越えていきます。
確認されているだけでも10基の古墳が密集していることから、当時のこの地域を治めた首長の権勢が伺われます。





道を進むと「浅井長政本陣跡」の看板が見えてきます。
先陣跡に比べると随分と奥にあり、この位置には後方に陣を張る朝倉軍がいますので、もし攻め込まれてしまった場合には退路となり、小谷城にも逃げ込みやすい場所なのかと思います。



さらに登っていくと前方後円墳の7号古墳があり、その先には円墳の8号古墳があります。
乗倉古墳群の中でもっとも大きさを感じるのが8号古墳でしたが、この辺りで道迷いをしてしまいました。

麓からここまでピンクのテープが所々にあって分かりやすかったのですが、8号古墳の辺りで見つからなくなってしまったのです。
踏み跡らしきのある道が何本もあって、幹に青いビニールの紐テープが巻かれているスギが多く、色は違うとはいえ紛らわしい。

大きな山ではありませんので方向は分かっているのですが、無意識に歩きやすそうな踏み跡を選んでしまったようです。
青いビニールテープはクマの皮はぎから守るために巻かれるといいますので、クマが出る怖れのある山となります。
福井県や岐阜県まで連な山々の端の山とはいえ、湖北ではクマの目撃例が多いので要注意です。







もと来た方向へ戻ってコースを探しているうちに、ピンクのテープを発見。
どうも8号古墳の辺りは道が分かりにくいですね。



この先は道が分かりにくくなってきたのも確かだが、なんか道が荒れてきたような気もする。
9号古墳・10号古墳の辺りまで来ると倒木が増えてきて、通れないところは迂回して進む。





ここまで来た時、先行して登って行かれた人が下山してくるのに遭遇。
聞いてみると、この先でアスファルトで舗装に出てしまい、「朝倉景健本陣跡」の看板があったので林道を登ってみたが山への入り口が見つからず、折り返してきたとのこと。
大依山まで行きたかったのだけど諦めるしかなかったとおっしゃられていましたので、当方も取り合えず林道までは行ってみることにしました。



確かに林道に出ると「朝倉景健本陣跡」の看板はあり林道を矢印の方向に行ってみたが、入口は分からない。
当方も諦めてもと来た道を下山することにしましたが、眺望も花もない道なのでサッサッと足早に下山する。



林道からの下山は古墳が1~10号古墳まであったので、登山のように9合目、8合目、7合目と下って来るみたいな感じでの下山です。
8号古墳の辺りの道は、やはりややこしかったが、「秋葉神社」まで下山完了。
林の中を登り下りするだけの登山道だった中で、秋葉神社の前だけが眺望が開けている。



下草野の広がる田園の向こうにある山は、左が七尾山で右が横山丘陵でしょうか。
とすると、この岩崎山にいた浅井長政、信長が包囲していた横山城とは姉川を挟んで睨み合っていた場所になります。

追記
後日、岩崎山と大依山の間にあった林道がどこなのか確かめに行ってみました。
この林道だと見込んだものの、違う林道でしたので、結局辿り着けずあの時に歩いた林道は不明なままです。



延々と林道を進んでみたら「三輪神社阿弥陀堂」の前までやってきた。
「三輪神社阿弥陀堂」はかつて参拝した時にとても不思議な神社(阿弥陀堂)と感じた場所です。
集落から山に入った場所に祀られていますが、反対側から延々と林道を進んでくると妙な安心感を感じてしまいます。




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西教寺の風鈴参道通り抜け~滋賀県大津市坂本~

2022-08-24 06:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大津市歴史博物館で開催されている「仏像をなおす」展では、比叡山延暦寺・圓常寺・西教寺・日吉大社が主に展示されており、ふと思い立って西教寺へ参拝することにしました
博物館の隣には「圓満院」、その南には「圓常寺(三井寺)」「長等神社」があり、北上して「近江神宮」を越えると神社仏閣の多い坂本の町に入り、「日吉大社」をさらに北へ行くと「西教寺」がある。

坂本辺りには大きな寺院が点在しており、さすが比叡山のお膝元と感心しますが、大津は比叡山開山前の飛鳥・白鳳時代には短期間とはいえ都(大津京)があった地ですから仏教文化の盛んだった地になります。
滋賀県では天台宗が各所で信仰されていた時代がありますが、大津周辺・湖東・湖北とその地に元々あった信仰と溶け合っているため、地方ごとに特色がみられます。



西教寺は聖徳太子が恩師である高麗の僧慧慈・慧聡のために創建したとの伝承があり、平安期には慈恵大師良源(通称:元三大師)が荒廃していた寺院を復興したという。
室町時代になると、真盛上人が入寺されて堂塔と教法を再興されますが、信長の比叡山焼き討ちでは災禍を被ってしまいます。

西教寺の復興は、近江国を与えられた明智光秀が復興の援助をしたといい、太平洋戦争後に西教寺は天台宗真盛派の総本山として400ヶ寺以上の末寺を有する寺院となったようです。
総門から入り参道を進むと、京都の大寺院を思い起こさせるような塔頭寺院が並び、サクラの樹が参道にかぶさるようにしていて春には桜、秋には紅葉スポットとして人気が高い寺院です。



ゆるやかな登りの参道の先には勅使門があり、門を迂回して境内の中心部へと入ります。
お昼前とはいえ、気温が上がり汗がしたたり落ちますが、参拝者が多いのは本堂前の「風鈴参道通り抜け」を見にきている人が多いからなのでしょう。



勅使門の参道を挟んだ左手には宗祖大師殿があり、琵琶湖側には見事な彫刻をあしらわれた唐門があります。
唐門は大正期に建てられた四脚門ですが、築地塀の真ん中に建つ門からは豪奢な印象を受けます。



手水舎では吐水する龍の下にアヒルのすくい人形が涼し気にプカプカと浮いています。
小さな子供連れの親子がおられましたが、子供がここを離れるのを嫌がっていましたので、アヒル人形はは子供のハートを鷲掴みにしていたのでしょう。



本堂は1789年の再建で重要文化財に指定された建物で、本尊には丈六の阿弥陀如来坐像(平安期・定朝様式)が祀られている。
阿弥陀如来坐像は重文に指定されており、像内には木造五輪塔柱が納められていいたといい、附修理銘札は大津市歴史博物館に寄託されているといいます。



西教寺は信長の比叡山焼き討ちの際に焼失したとされるが、地元坂本城の城主であった明智光秀の尽力もあって再興したという。
光秀は西教寺の檀徒でもあったとされており、明智光秀と一族の墓が境内に祀られています。
光秀は焼き討ちに対して批判的で信長に中止を諌言したとも、積極的に進めたともされますが、墓所があるというのは慕われていた証ということでしょうか。



本堂の裏には客殿(重要文化財・桃山時代)があり、襖絵や小堀遠州の作庭とされる庭園を含む庭園が複数ある。
書院の欣浄廊には桃山時代の「西教寺二十五菩薩石仏」が安置されており、破損がひどくなってきたため2004年に屋内に移動し、屋外には新たな石仏を安置したという。



西教寺には拝観を兼ねて「風鈴参道通り抜け」を見に来られる方が多く、デジカメやスマホで撮影をされる方が絶えませんでした。
風鈴は涼し気な音色から暑気払いとして楽しまれていますが、音を立てることにより邪気を払災いが起こらないという信仰の名残りとされます。



西教寺では1500個の風鈴を吊り下げた風鈴参道が設置されていて、ライトアップもされているようで、風鈴参道は本堂の前まで続きます。
参道を歩いている時は、残念ながらほぼ無風状態でしたので“風鈴の音色に包まれて”というわけにはいきませんでしたが、一瞬だけ風が吹いた時は涼し気な音色が一斉に鳴っていました。



本堂前の参道の木枠の端から光秀の飛び出し坊やの姿があります。
滋賀県は飛び出し坊や発祥の地ですから県内の道路で飛び出し坊やに出会うことが多く、バリエーションも非常に多いので、滋賀の文化のひとつですね。
イラストレーターのみうらじゅんさんは、自分のキャラをイメージした飛び出し坊やもコレクションされているとか...。




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「仏像をなおす」~大津市歴史博物館と西教寺~

2022-08-20 17:03:39 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「大津市歴史博物館」では、伝教大師・最澄没後1200年記念企画展として「仏像をなおす」展が開催されています。
仏像は仏教が伝わった飛鳥時代から現在に至るまで造られてきており、その年月の長さやその仏像が辿った歴史により破損や亡失された仏像は何度も修理や修復がされてきているといいます。

寺院参拝の折、修復のため仏像を梱包されて運び出されているのを見たことがありますが、修復された仏像の中には仏像本来の価値が損なわれるような修理がある場合もあります。
今回の「仏像をなおす」展では、修理・修復された部分を明確に解説したり、像の模刻からの復刻の歴史や修理や再興の見本となる仏像・神像のひな型などが紹介されています。



展示の構成は「1.仏像・神像をなおす①修復」「2.仏像・神像をなおす②復興」に始まり、「比叡山延暦寺」「西教寺」「圓城寺」「日吉大社」の仏像・仏画・修復札などを展示。
仏像の横には修復した部分に色づけした写真が展示されているため、修復箇所を照合しながら鑑賞することができる。
色付けした写真と仏像を見比べないと分からないような修復もあり、修復の技術の高さに驚きます。

いづれの神社仏閣も何度も法難にあった歴史があり、信長の比叡山焼き討ち(元亀の法難)や、比叡山による圓城寺の焼き討ち、日吉神社での廃仏毀釈による暴動と有名なところでも数多い。
その際に失われた仏像や経典や仏具は膨大な数であったろうと推測されますが、「3.比叡山根本中堂の仏像をなおす」の展示では、失われた仏像が復刻されていった経緯が分かります。
例えば、元々は根本中堂に祀られていた仏像が別の寺院で模刻されて残り、根本中堂の仏像は焼けたものの、模刻された仏像が再び延暦寺に戻ってくるといった経緯など。



「4.仏像をなおした記録」では、 「元亀の法難」の前の比叡山と攻め入る信長軍の焼き討ち、戦が終わり基壇だけが残る延暦寺で鹿や僧侶がむなしく佇んでいる様子を描いた絵巻物が展示されている。
絵巻は肥前に移されていたものが、京都京極通りの本屋で入手され、復興後の比叡山に戻されたという逸話が残りますので、法難の時に避難できて元に戻ってきた典型例とされます。



「5.仏像・神像をなおす時のひな型」では仏師が仏像や神像を造る、または修復するための見本となる像が並びます。
修復時の記録をひな型に残しておくことで、もし仏像・神像の本体が無くなってとしても、復刻するための細部の記録が残り、後世の仏師に工房の技術や伝統を継承していくことができるようです。

ところで、「仏像をなおす」展では全5問の質問に回答する子供向けのワークシートがあり、大人の方もぜひ参加下さいとありましたので、大人気なくも参加しました。
回答して受付へ持っていくと、缶バッチがもらえますので、もう一度会場を回って答えを書いて持っていき、何種類かある缶バッチの中から不動明王の缶バッチを頂きました。

 

「大津市歴史博物館」の企画展は撮影禁止ですので、行くたびに撮っているのは「圓常寺の小関地蔵堂」に伝来したという半丈六の「地蔵菩薩坐像(平安後期~鎌倉初期)」です。
像高135cmの座像は、穏やかな表情をされ、苦しむ衆生を救済して頂けるようなやさしさを感じます。





博物館の2階からの風景です。
琵琶湖の北湖はとても広いけど、南湖は対岸が近いですね。
対岸には三上山が見えていて、三上山は今自分がいる場所を知るのに便利な山です。



「仏像をなおす」展では先述のように比叡山延暦寺・圓常寺・西教寺・日吉大社からの出品が主でした。
せっかく大津にいるので、それら神社仏閣の中から久しぶりの拝観となる西教寺へ参拝することにしました。
暑い日が続いていますので西教寺の風鈴参道通り抜けで少しは涼めるといいのですが...。


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日牟禮八幡宮の萬燈祭~中元の御燈明(みあかし)~

2022-08-16 17:13:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
近江八幡は豊臣秀次(秀吉の甥)が八幡山に八幡山城を築き、城下を楽市楽座等によって商工業を発展させ、城が廃城後も近江商人の基盤となる町となったといいます。
商家の残る古い町並みは、国の重要伝統的建造物保存地域に指定されている中、商家や酒蔵を利用した新しいお店も入ってにぎわいを見せています。

商家の通りの中にある美術館へ行こうと近江八幡へ向かったのですが、到着した時間が早すぎたので日牟禮八幡宮へ参拝をしました。
日牟禮八幡宮はちょうど萬燈祭の日ということで楼門から拝殿に向かって無数の提灯が吊り下げてあり、普段の神社とは様変わりしています。



楼門(随神門)は南北朝期に近江の守護職・佐々木六角によって建立されたが「左義長」により焼失。
江戸幕末の1858年に再建したものの、昭和45年「八幡まつり」で上部を焼失。
日牟禮八幡宮の二大火祭である「左義長まつり」と「八幡まつり」で燃えたというのは、祭りの激しさが伺われるエピソードですね。



境内に入ると拝殿まで凄い数の提灯が吊るされています。
真っ昼間に見てもなかなか迫力がありますが、日が暮れて灯りが灯しだされてきたら、さぞや幻想的な光景になるのでしょう。

16日の夜には志賀國天寿一行による盆踊りが開催されるとのことですので、夜には盛り上がりをみせると思います。
滋賀県といえば江州音頭ですが、田舎の方の年配の方には江州音頭の歌い手や、お祝い事の時に伊勢音頭を唄ったりする方が結構いたりするので独特の文化が根付いているのを実感することがあります。



提灯の「赤」と対比するように目を引いたのが手水に活けられたヒマワリの花でした。
そろそろヒマワリの花期が終わりに近づいている時期ではありますが、活けられたヒマワリは鮮度もよく見応えがあります。



ヒマワリは種類の違うものが何種類が活けられており、松の葉と一緒にバランスよく活けられている。
今は地球温暖化で9月になっても暑いですが、昔は盆を境に涼しい夜が増えて来たりしたものでした。
日牟禮八幡宮の本堂や末社の裏山からはツクツクボウシの鳴く声が聞こえ、晩夏のセミが夏の終わりを告げているようでもありました。



最後に拝殿前の様子、昼の動画です。
風で提灯が揺れる音に隠れて、微かに手水の上に吊るされた風鈴の音が聞こえます。



江州音頭はお囃子とかはなく、基本は音頭取りと太鼓。
そこに踊っている人の掛け合いで始まって、演題に入りながらも要所で掛け合いがあります。
知らないと輪の中には入りにくいですね。




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「イスラエル博物館所蔵 ピカソ-ひらめきの原点」~佐川美術館~

2022-08-14 09:15:15 | アート・ライブ・読書
 パブロ・ピカソほど名前を知られている20世紀の画家は他に類を見ない反面、時代によって作風は大きく変化し、つかみどころのない作品が多い。
また、生涯に制作した作品は約15万点を超えるといい、その作品数はギネスブックにも登録されているという多作な作家です。
佐川美術館では「イスラエル博物館」で所有されている800点あまりのピカソ・コレクションから約130点の作品が公開展示されています。

「イスラエル博物館」のピカソ・コレクションがまとまって紹介されるのは日本初とのことでしたが、先に感想を書くと“よく分からない”というのが実際のところでした。
版画作品が多く、表現方法を模索していたり、絵の技術の高さが分かる作品と落書きに近いような作品が並ぶ。
繰り返し登場する抽象的なミノタウロスやピカドールなどは、何を象徴しているのかなど考えずに見た方がいいような気もしてしまう作品群です。



熱中症警戒の屋外から展示室に入ると、もの凄く寒いが、これは作品保護のために室温が20℃前後に設定されているためとのこと。
ピカソの作品分類での初期は「青の時代」(1901-1904)、「ばら色の時代」(1904-1906)があり、今回の展示ではその2つの時代が「サルタンバンク・シリーズ」としてまとめられている。
この時代の作品は版画作品が取り上げられていて「エッチング」「ドライポイント」「グワッシュ」などの手法で作品が作られています。


パブロ・ピカソ《貧しい食事》 〈サルタンバンク・シリーズ〉より

次の1910-1920年は「分析的キュビスム」「総合的キュビスム」という聞き慣れない技法で描かれた作品が並ぶ。
「分析的キュビスム」は、円筒・球・円錐などを使った非遠近法の手法で一般的に言うキュビズムのことで、「総合的キュビスム」は、写真や新聞の切り抜きを貼り付けたコラージュを言うそうです。

ピカソにまつわる話ではその時代ごとに愛した女性の影響があるといわれることがあるという。
最初の恋人フェルナンド・オリヴィエと付き合っていた時代は「青の時代」や「ばら色の時代」だといい、常に喧嘩の絶えなかった二人は7年間で破綻したという。

その後、フェルナンド・オリヴィエの友人エヴァ・グエルと付き合っていた時代は「キュビズム」、最初の妻のオルガ・コクローヴァの時代は「新古典主義」。
オルガ・コクローヴァとうまくいかなくなったピカソは、29歳年下の17歳のマリー・テレーズを愛人にするものの、最後は破綻してしまう。


パブロ・ピカソ《顔マリー・テリーズ》

「顔マリー・テレーズ」は精密に描いた1928年の作品で、デッサン力の高い絵からはマリー・テレーズが美しい女性だったことが伝わります。
シュールリアリズムの手法でマリーテレーズを描いた「夢」はネット等で目にする作品ですが、同じモデルを描いても全く違う絵を描くのはピカソゆえということなのでしょう。

マリーテレーズが娘を出産を出産すると、ピカソは今度は写真家のドラ・マールと関係を持ち始め、「ゲルニカ」の制作中の過程を撮影したといいます。
ドラ・マールはその後精神を病んでしまいますが、次に愛人にしたのは22歳の画学生フランソワーズ・ジローでした。この時ピカソは62歳といいますから実に40歳差の愛人です。


パプロ・ピカソ《髪にリボンをつけたフランソワーズ》

精密に描かれた「顔マリーテレーズ」と書き散らかしたような「髪にリボンをつけたフランソワーズ」が同じ作家の作品とは思えません。
ショップのトートーバッグにこの絵を使っていましたが、バッグのデザインになるとこの絵は全く違った印象になり、お洒落なバッグになっていたのに驚きました。


パブロ・ピカソ《灰色の背景のフランソワーズ》

同じフランソワーズを描いた作品でも「灰色の背景のフランソワーズ」は亜鉛版リトグラフの技法で描いた陰鬱さを感じてしまう作品です。
フランソワーズ・ジローはピカソがまだ妻のオルガとも愛人のマリーとも切れていなかったピカソに嫌気がさして出ていったそうですが、ピカソはこれには大きなショックを受けたそうです。

ピカソの女性遍歴もこれで終わりかと思いきや、ピカソ73歳頃に45歳年下のジャクリーヌ・ロックと2度目の結婚をしたといいます。
女性遍歴を見ると飽きっぽく家庭的な人ではなさそうですが、恋するたびに自分の中に変化が起こり、新しい世界にのめり込んでいったようにも思えます。

1938年に油彩で描かれた「海の前の女」は、ピカソの母の一か月後に描かれたものだといい、パブロ・ピカソのピカソの姓は母親の姓なのだそうです。
ピカソの創作活動にはミューズたちとの出会いがインスピレーションの源になっていたのでしょうか。


パブロ・ピカソ《海の前の女》

よく分からないままに美術館を後にすることになりましたが、次回の佐川美術館の特別企画展は「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展」~お化けたちはこうして生まれた~です。
どうやら来月もまた佐川美術館へ行くことになりそうです。



帰り道、いくつかあるヒマワリ畑のひとつに立ち寄って、ヒマワリの花をパチリ!
盛夏ですね。




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塔本シスコ展「シスコパラダイス-かかずにはいられない!人生絵日記」~滋賀県立美術館~

2022-08-10 05:35:25 | アート・ライブ・読書
 塔本シスコさんの回顧展「シスコ・パラダイス-かかずにはいられない!」は、2021年9月に「世田谷美術館」に始まり「熊本市現代美術館」「岐阜県美術館」「滋賀県立美術館」と巡回しています。
展示作品200点以上という大規模な回顧展は、過去最大規模だといい最初で最後かもしれない大規模美術展といえます。

この美術展は6月に「岐阜県美術館」で観覧し、次の巡回先である「滋賀県立美術館」での開催にも再度来館しましたのでこれが2度目になります。
同じ美術展を同じ美術館で2度見たことはあったものの、同じ美術展を別の美術館へ観覧しに行ったのは初めてのこと。
「滋賀県立美術館」での美術展を見たかったのは、滋賀会場でのみ公開される5点の作品が気になったからです。



シスコさんは53歳の時に突然絵を描き始め、身近な風景や日々の暮らし、子供の頃の思い出や家族と過ごした時間などを91歳まで描き続けた方。
その絵は時に時間軸を超えたり、記憶に残る想いでを描かれたり、身近な出来事や風景を絵日記のように描かれます、
色とりどりの鮮やかな色彩に彩られた作品はまさにシスコさん独自の「パラダイス」の世界が広がります。

「ヒマワリとアマガエル」は1971年シスコさん58歳の作品ですので初期の作品になります。
3本のヒマワリの葉の上にはアマガエルが体を休め、アゲハチョウやキチョウ・シロチョウが舞っています。
アマガエルを狙っているヘビが鎌首をもたげている姿が中央に描かれ、ヒマワリの茎と平行になっているのが印象的です。


「ヒマワリとアマガエル」 1971年 キャンパス 油彩

シスコさんは熊本県八代市で生まれ、結婚して1男1女に恵まれますが、46歳の時に夫が急逝。
1970年に長男の賢一さんと同居のため、大阪の枚方市に転居されたという。
「クジャクサボテン」は枚方市へ転居後の65歳の時の作品で、茎節の力強さや咲き誇る花と舞う蝶が奔放に描かれています。


「クジャクサボテン」 1978年 キャンパス 油彩

シスコさんが住んでいた枚方市には淀川が流れており、隣接する京都府側には宇治川と木津川と桂川の合流地点がある。
そこには背割堤防という提が造られているといい、その背割堤防をお孫さんの研作さんと散歩した時の姿を描いたのが「背割堤防 研作とシスコ散歩する1」です。
2000年シスコさん87歳の時の作品ですが、二人とも姿が若く描かれており、若かった頃のある日の思い出を蘇らせるように描かれた作品なのでしょう。


「背割堤防 研作とシスコ散歩する1」 2000年 パネル 油彩

塔本シスコ展「シスコパラダイス」が日曜美術館で特集された時に、シスコさんの故郷である熊本県宇城市の「ソコイビ祭り」の絵が紹介されていました。
宇城市は干潟干拓の町であったが、海を干拓した農地だったため、農作に必要な水を引っ張ってきて池を造ったという。

しかし、川は満潮になると海水が流入して農作には使えない。そのため江戸末期に川底をくぐる水路が造られる。
その難工事の完成を祝う祭りが「ソコイビ(底井桶)祭り」で戦前まで続いたが、途絶えてしまって写真なども残されておらず、祭りの詳細は分からなくなってしまったという。

忘れられてしまった祭りの様子を描き残していたのがシスコさんの「ソコイビ祭り」で、この絵を参考にして半世紀以上の時を経て「ソコイビ(底井桶)祭り」が復活。
大きな太鼓を叩いているのはシスコさんのお父さんで背負われている子供はシスコさんを描いたもの。思い出がいっぱい詰まっている絵ですね。


「ソコイビ祭り」 1996年 キャンパス 油彩

滋賀県立美術館のみで公開された5作品の最後は「5歳のシスコを抱いている86歳のシスコ」 。
時間軸を超えて描かれた作品をどう受け止めたらいいのでしょう。老人になって5歳の自分と会った時、どんな感情を憶えるのでしょうか。不思議な感覚の世界です。


「5歳のシスコを抱いている86歳のシスコ」 1999年 パネル 油彩

シスコさんは、キャンパスなどに描いた作品の他にいろいろな素材にも絵を描かれています。
「シスコの晴着」では自分で仕立てた着物に絵を描いて、盆踊りに行かれたりされていたそうです。



また、人形とその衣装を作って江戸時代の庶民のような作品も作られています。
「シスコの日本人形」は1994年頃の作品とされており、80歳を過ぎても旺盛な創作意欲で作品を作り続けられていた姿が思い浮かぶような作品です。



シスコさんの描きたいという衝動は、ごく身近な箱や瓶やしゃもじにまで及び、素材がシスコ・パラダイスに彩られていきます。
造形を始められたのは48歳の時に軽い脳溢血で倒れた時に石を彫り始めたのが最初といい、年齢を重ねていくと三面仏など仏教的な印象を受ける作品も造られています。



塔本家では飼い猫の名前に「ミー」と付けていたといたそうで、後期にはネコをモチーフにした絵が増えてくるように見えます。
「ミーチャン トウガンヲ ミテ ビックリよ」は2002年、89歳の時に段ボールに油彩とフェルトペンで描いた作品で、ネコだけどネコでないような愛嬌のある姿で冬瓜の周りで遊んでいます。


「ミーチャン トウガンヲ ミテ ビックリよ」 2002年 段ボール 油彩、フェルトペン

会場の出口近くでは、シスコさんの末期に近い頃の作品が壁一面に展示されています。
近くの公園や観光地、思い出に残る記憶を描いていた頃と比べると、静物画が多くなってきていたように見えます。
最後の何年かは足腰が衰えていたそうですが、絵を描く意欲は全く衰えていなかったようです。



短い期間に「岐阜県美術館」と「滋賀県立美術館」の2カ所で塔本シスコ展を見ましたが、同じ作品が並んでいるにも関わらず、美術展としての意趣がかなり違うように感じました。
キャパシティや展示室の構成が違うとはいえ、展示構成によって大きく印象が異なる美術展になります。

塔本シスコ展「シスコパラダイス-かかずにはいられない!人生絵日記」~「岐阜県美術館」~


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早川鉄兵 切り絵の世界×慶雲館2022

2022-08-03 07:05:05 | アート・ライブ・読書
 早川鉄平さんの切り絵展を拝観するのは、今年すでに4回目(慶雲館・ヤンマーミュージアム・草津エイスクエア・慶雲館)になり、開催場所に合わせた構成と趣向を楽しみにしています。
長浜慶雲館では早春の盆梅展と夏の展示会の2階が恒例化しており、明治天皇行幸の折りに建築(1887年完工)された明治建築の本館と国の名勝の庭園とのマッチングが興味深い。

早川鉄平さんは滋賀県米原市の山間集落に移住して、伊吹の豊かな自然や動物をテーマに制作活動をされている方で、どんどん活躍の幅を広げられているように思います。
今回の展示は、前庭や玄関前庭での展示、本館では主庭に向かって切り絵の原作の展示や行燈の展示。
新館ではライトに照らし出されたキャンプ場の再現などバラエティに富んだ作品群が展示されています。



緑豊かな夏の慶雲館に訪れる来場者は後を絶たず、主庭の縁側に座ってくつろいでおられる方や、早川作品を写真に収めようとされている方がおられました。
当方もmont-bellと早川鉄平さんのコラボTシャツに身を包み、切り絵の世界を楽しみました。



前庭にはシカやキツネやクマのオブジェが展示され、湖北の自然が整えられた庭にとけ込んでいる。
同じモチーフですが、このオブジェは展示された場所によって随分と印象が異なります。



茶室「恵露庵」を背景にしてサルの親子とイノシシが闊歩する。
「恵露庵」は明治20年に本館と共に建設され、2000年に改修されたものだといいます。



入館するとまず2階にある明治天皇両陛下をお迎えした「玉座の間」や犬養毅元内閣総理大臣の書などがあるが、2階に切り絵の展示はなく、室内は広々としている。
池泉回遊式庭園の主庭は七代目小川治兵衛の作庭だといい、この方は平安神宮神苑・円山公園・桂離宮など多くの造園を手掛けた作庭家だそうです。



本館の一階は盆梅展の時には大きな盆梅が並ぶ間ですが、今回は主庭に向かう縁側沿いに切り絵の原作が展示されています。
ジョウロで花に水を上げているクマは愛嬌があって面白い作品です。本物のクマは怖いですけどね。



次の切り絵は一見、神戸異人館の風見鶏の館のように見えますが、米原で活動されていることからローザンベリー多和田のローザンベリー・マナーかもしれません。
ローザンベリー多和田へ行ったことはないのですが、さて何の建物をモチーフにされているのでしょうか。



飛んでいるタカはクマタカのように見えます。
奥伊吹の甲津原へと続く山東本巣線はクマタカの観察ポイントでもありますね。



盆梅展の時には大きな梅鉢が置かれるスペースには欄間に届きそうな大きな行燈が並んでいます。
日が暮れてから来たら幻想的な風景になりそうですが、日が長い季節ですので閉館時間になっても外は明るいのでそれは叶わない。



新館へ入るとカブトムシが飼育されている大きなカゴがあり、その奥には薄暗い部屋に置かれた切り絵付きのテントが置かれライトアップされていました。
ヒーリング・ミュージックと鳥の囀りが聞こえる中、幻想的な世界が広がります。



2019年までは奥伊吹スキー場で夏のイベントとして『伊吹の天窓』が開催され、コンサートや映画と一緒に早川鉄平さんの切り絵作品が展示されていたそうです。
『伊吹の天窓』へ参加したことはありませんが、広大なスキー場の一角に切り絵付きテントが光を放っていたのは写真で見たことがあり、狭い室内とはいえその雰囲気が多少味わえます。



『伊吹の天窓』は2019年まで9回開催されたそうですが、2019年が最後の開催となったようです。
奥伊吹の山の中に響く音楽には動物たちもビックリしたでしょうね。



インスタレーションの様子を動画で撮ってみました!



ところで、今回の「早川鉄兵 切り絵の世界×慶雲館2022」では、「まちなかスタンプラリー」も開催されており、スタンプポイントでスタンプをもらうと早川さんオリジナルグッズがもらえます。
せっかくなので慶雲館→湖のスコーレ→黒壁AMISU→ながはまくらしノートストアと回って、オリジナル缶バッチをもらいました。



スタンプラリーはあと2カ所(大通寺・ヤンマーミュージアム)でスタンプをもらえば、オリジナル商品がもらえるそうです。
期間は8月28日までですので、コンプリートできるかもしれませんね。


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