長浜市東部の草野川周辺の自治会の総称を「下草野地域」といい、自然環境に恵まれた静かな山里が続いています。
草野川沿いの川辺や山間部へ入ると、野鳥や蝶やトンボや昆虫、小動物や大型の動物に出会う機会があり、人間と自然の共有エリアのような地域でもあります。
国道365号線から草野川に沿った道に入ったところに「岩崎山・乗倉古墳群登山口」の看板があり、この道を通る時にいつも気になっていました。
登山口の近くには「浅井文化スポーツ公園」があってそちらの方には人が集まってくるものの、この山に入る人っているのだろうかと思えてしまうひとけのない山です。
登山口の前には「秋葉神社」の鳥居と案内板があるので見にいってみると、同じように見に来られていた人が登山口から山に入っていかれる。
人が入っていった山なら一人じゃない!ということで準備を始めて、山の中へ入っていきます。
最初はゆるい石段が続いており、下草が生えていないので安心して登っていける。
道の両脇が林となっているので風が通らず、蒸し暑いがこういう汗は気持ちの良いものです。
石段が途切れるとなだらかな登り道となり、歩きやすくなってくる。
全く下調べをせずに思いつきで登ってしまったので、この先がどうなっているかは分からないのが難点だが、少なくとも先行者がいるのは気休めになる。
あっという間に到着したのは「秋葉神社」。
「秋葉神社」は岩崎山を神体山としているようであり、火伏せの神の信仰がある神のため石造りの祠に祀ることが多いといい、この祠はまさに石造りの祠となっている。
岩崎山は「姉川の合戦」の時に浅井軍はこの辺りに先陣を置いたとされています。
1570年に足利・織田勢と対立した越前・朝倉義景を討つために越前・若狭の朝倉方へ侵攻した際、信長の妹・お市の方を嫁がせていた浅井長政が朝倉側に加勢する。
からくも逃げ延びて窮地を脱した信長とその軍勢は、近江に軍勢を率いて進発させた朝倉軍と姉川で雌雄を決する戦いが始まることになります。
朝倉軍は岩崎山の北に連なる大依山に布陣し、浅井軍は岩崎山に布陣したといい、6月28日に浅井朝倉軍は織田徳川軍と姉川で戦うことになる。
ところで、岩崎山には乗倉古墳群として現在10基の古墳が確認されているが、合戦時に布陣した際に墳丘を削平したり、傾斜面を削平した陣所を造ったとされ、古墳として分かりにくい形になっている。
もっとも陣跡も500年近くを経ているので、解説者でもいなければどこが陣所跡なのかも分からなくなっています。
まず最初に出会う1号古墳は前方後円墳で、乗倉古墳群は4世紀後半のものと想定されている。
ここで岩崎山の山頂に到着します。
あっという間に到着したのもそのはずで、標高は206.9mの山です。
低山ながら三角点はしっかりとあります。
どこをゴールにしたらよいか分からない山ですが、この後次々と古墳が連続して現れます。
古墳のある山へ行ったことは何度もありますが、次々を現れる古墳の墳丘を登って越えていくような古墳はあまり記憶にありません。
2号古墳・3号古墳・4号古墳を次々現れる古墳を乗り越えながら進んで行きます。
すべて円墳ですが、看板があるから分かるのであって、古墳の形状の違いは識別出来ませんでした。
5号古墳・6号古墳も円墳で、丘のアップダウンを繰り返すかのように墳丘を乗り越えていきます。
確認されているだけでも10基の古墳が密集していることから、当時のこの地域を治めた首長の権勢が伺われます。
道を進むと「浅井長政本陣跡」の看板が見えてきます。
先陣跡に比べると随分と奥にあり、この位置には後方に陣を張る朝倉軍がいますので、もし攻め込まれてしまった場合には退路となり、小谷城にも逃げ込みやすい場所なのかと思います。
さらに登っていくと前方後円墳の7号古墳があり、その先には円墳の8号古墳があります。
乗倉古墳群の中でもっとも大きさを感じるのが8号古墳でしたが、この辺りで道迷いをしてしまいました。
麓からここまでピンクのテープが所々にあって分かりやすかったのですが、8号古墳の辺りで見つからなくなってしまったのです。
踏み跡らしきのある道が何本もあって、幹に青いビニールの紐テープが巻かれているスギが多く、色は違うとはいえ紛らわしい。
大きな山ではありませんので方向は分かっているのですが、無意識に歩きやすそうな踏み跡を選んでしまったようです。
青いビニールテープはクマの皮はぎから守るために巻かれるといいますので、クマが出る怖れのある山となります。
福井県や岐阜県まで連な山々の端の山とはいえ、湖北ではクマの目撃例が多いので要注意です。
もと来た方向へ戻ってコースを探しているうちに、ピンクのテープを発見。
どうも8号古墳の辺りは道が分かりにくいですね。
この先は道が分かりにくくなってきたのも確かだが、なんか道が荒れてきたような気もする。
9号古墳・10号古墳の辺りまで来ると倒木が増えてきて、通れないところは迂回して進む。
ここまで来た時、先行して登って行かれた人が下山してくるのに遭遇。
聞いてみると、この先でアスファルトで舗装に出てしまい、「朝倉景健本陣跡」の看板があったので林道を登ってみたが山への入り口が見つからず、折り返してきたとのこと。
大依山まで行きたかったのだけど諦めるしかなかったとおっしゃられていましたので、当方も取り合えず林道までは行ってみることにしました。
確かに林道に出ると「朝倉景健本陣跡」の看板はあり林道を矢印の方向に行ってみたが、入口は分からない。
当方も諦めてもと来た道を下山することにしましたが、眺望も花もない道なのでサッサッと足早に下山する。
林道からの下山は古墳が1~10号古墳まであったので、登山のように9合目、8合目、7合目と下って来るみたいな感じでの下山です。
8号古墳の辺りの道は、やはりややこしかったが、「秋葉神社」まで下山完了。
林の中を登り下りするだけの登山道だった中で、秋葉神社の前だけが眺望が開けている。
下草野の広がる田園の向こうにある山は、左が七尾山で右が横山丘陵でしょうか。
とすると、この岩崎山にいた浅井長政、信長が包囲していた横山城とは姉川を挟んで睨み合っていた場所になります。
追記
後日、岩崎山と大依山の間にあった林道がどこなのか確かめに行ってみました。
この林道だと見込んだものの、違う林道でしたので、結局辿り着けずあの時に歩いた林道は不明なままです。
延々と林道を進んでみたら「三輪神社阿弥陀堂」の前までやってきた。
「三輪神社阿弥陀堂」はかつて参拝した時にとても不思議な神社(阿弥陀堂)と感じた場所です。
集落から山に入った場所に祀られていますが、反対側から延々と林道を進んでくると妙な安心感を感じてしまいます。
草野川沿いの川辺や山間部へ入ると、野鳥や蝶やトンボや昆虫、小動物や大型の動物に出会う機会があり、人間と自然の共有エリアのような地域でもあります。
国道365号線から草野川に沿った道に入ったところに「岩崎山・乗倉古墳群登山口」の看板があり、この道を通る時にいつも気になっていました。
登山口の近くには「浅井文化スポーツ公園」があってそちらの方には人が集まってくるものの、この山に入る人っているのだろうかと思えてしまうひとけのない山です。
登山口の前には「秋葉神社」の鳥居と案内板があるので見にいってみると、同じように見に来られていた人が登山口から山に入っていかれる。
人が入っていった山なら一人じゃない!ということで準備を始めて、山の中へ入っていきます。
最初はゆるい石段が続いており、下草が生えていないので安心して登っていける。
道の両脇が林となっているので風が通らず、蒸し暑いがこういう汗は気持ちの良いものです。
石段が途切れるとなだらかな登り道となり、歩きやすくなってくる。
全く下調べをせずに思いつきで登ってしまったので、この先がどうなっているかは分からないのが難点だが、少なくとも先行者がいるのは気休めになる。
あっという間に到着したのは「秋葉神社」。
「秋葉神社」は岩崎山を神体山としているようであり、火伏せの神の信仰がある神のため石造りの祠に祀ることが多いといい、この祠はまさに石造りの祠となっている。
岩崎山は「姉川の合戦」の時に浅井軍はこの辺りに先陣を置いたとされています。
1570年に足利・織田勢と対立した越前・朝倉義景を討つために越前・若狭の朝倉方へ侵攻した際、信長の妹・お市の方を嫁がせていた浅井長政が朝倉側に加勢する。
からくも逃げ延びて窮地を脱した信長とその軍勢は、近江に軍勢を率いて進発させた朝倉軍と姉川で雌雄を決する戦いが始まることになります。
朝倉軍は岩崎山の北に連なる大依山に布陣し、浅井軍は岩崎山に布陣したといい、6月28日に浅井朝倉軍は織田徳川軍と姉川で戦うことになる。
ところで、岩崎山には乗倉古墳群として現在10基の古墳が確認されているが、合戦時に布陣した際に墳丘を削平したり、傾斜面を削平した陣所を造ったとされ、古墳として分かりにくい形になっている。
もっとも陣跡も500年近くを経ているので、解説者でもいなければどこが陣所跡なのかも分からなくなっています。
まず最初に出会う1号古墳は前方後円墳で、乗倉古墳群は4世紀後半のものと想定されている。
ここで岩崎山の山頂に到着します。
あっという間に到着したのもそのはずで、標高は206.9mの山です。
低山ながら三角点はしっかりとあります。
どこをゴールにしたらよいか分からない山ですが、この後次々と古墳が連続して現れます。
古墳のある山へ行ったことは何度もありますが、次々を現れる古墳の墳丘を登って越えていくような古墳はあまり記憶にありません。
2号古墳・3号古墳・4号古墳を次々現れる古墳を乗り越えながら進んで行きます。
すべて円墳ですが、看板があるから分かるのであって、古墳の形状の違いは識別出来ませんでした。
5号古墳・6号古墳も円墳で、丘のアップダウンを繰り返すかのように墳丘を乗り越えていきます。
確認されているだけでも10基の古墳が密集していることから、当時のこの地域を治めた首長の権勢が伺われます。
道を進むと「浅井長政本陣跡」の看板が見えてきます。
先陣跡に比べると随分と奥にあり、この位置には後方に陣を張る朝倉軍がいますので、もし攻め込まれてしまった場合には退路となり、小谷城にも逃げ込みやすい場所なのかと思います。
さらに登っていくと前方後円墳の7号古墳があり、その先には円墳の8号古墳があります。
乗倉古墳群の中でもっとも大きさを感じるのが8号古墳でしたが、この辺りで道迷いをしてしまいました。
麓からここまでピンクのテープが所々にあって分かりやすかったのですが、8号古墳の辺りで見つからなくなってしまったのです。
踏み跡らしきのある道が何本もあって、幹に青いビニールの紐テープが巻かれているスギが多く、色は違うとはいえ紛らわしい。
大きな山ではありませんので方向は分かっているのですが、無意識に歩きやすそうな踏み跡を選んでしまったようです。
青いビニールテープはクマの皮はぎから守るために巻かれるといいますので、クマが出る怖れのある山となります。
福井県や岐阜県まで連な山々の端の山とはいえ、湖北ではクマの目撃例が多いので要注意です。
もと来た方向へ戻ってコースを探しているうちに、ピンクのテープを発見。
どうも8号古墳の辺りは道が分かりにくいですね。
この先は道が分かりにくくなってきたのも確かだが、なんか道が荒れてきたような気もする。
9号古墳・10号古墳の辺りまで来ると倒木が増えてきて、通れないところは迂回して進む。
ここまで来た時、先行して登って行かれた人が下山してくるのに遭遇。
聞いてみると、この先でアスファルトで舗装に出てしまい、「朝倉景健本陣跡」の看板があったので林道を登ってみたが山への入り口が見つからず、折り返してきたとのこと。
大依山まで行きたかったのだけど諦めるしかなかったとおっしゃられていましたので、当方も取り合えず林道までは行ってみることにしました。
確かに林道に出ると「朝倉景健本陣跡」の看板はあり林道を矢印の方向に行ってみたが、入口は分からない。
当方も諦めてもと来た道を下山することにしましたが、眺望も花もない道なのでサッサッと足早に下山する。
林道からの下山は古墳が1~10号古墳まであったので、登山のように9合目、8合目、7合目と下って来るみたいな感じでの下山です。
8号古墳の辺りの道は、やはりややこしかったが、「秋葉神社」まで下山完了。
林の中を登り下りするだけの登山道だった中で、秋葉神社の前だけが眺望が開けている。
下草野の広がる田園の向こうにある山は、左が七尾山で右が横山丘陵でしょうか。
とすると、この岩崎山にいた浅井長政、信長が包囲していた横山城とは姉川を挟んで睨み合っていた場所になります。
追記
後日、岩崎山と大依山の間にあった林道がどこなのか確かめに行ってみました。
この林道だと見込んだものの、違う林道でしたので、結局辿り着けずあの時に歩いた林道は不明なままです。
延々と林道を進んでみたら「三輪神社阿弥陀堂」の前までやってきた。
「三輪神社阿弥陀堂」はかつて参拝した時にとても不思議な神社(阿弥陀堂)と感じた場所です。
集落から山に入った場所に祀られていますが、反対側から延々と林道を進んでくると妙な安心感を感じてしまいます。