江戸末期、慶応3年(1867)の廿日市町地詰帳には須賀町で算盤屋惣兵衛や算盤屋仲次の名がみられ、算盤屋惣兵衛は天満宮稲荷神社の手水鉢や洞雲寺の八十八ケ所石仏などを寄進しており、十露盤制作で伸長していたものとみられるのである。
早朝のウォーキング途中広島湾の朝焼け・・・
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