親鸞聖人750回大遠忌法要が終了してから、国宝の書院と国宝の能舞台、重文の能舞台、国宝の唐門、国宝の飛雲閣を拝観した。
画像右上は国宝の能舞台で、中央が重文の能舞台、左上が国宝の唐門である。下画像が聚楽第の遺構といわれている著名な国宝の飛雲閣である。
親鸞聖人750回大遠忌法要が終了してから、国宝の書院と国宝の能舞台、重文の能舞台、国宝の唐門、国宝の飛雲閣を拝観した。
画像右上は国宝の能舞台で、中央が重文の能舞台、左上が国宝の唐門である。下画像が聚楽第の遺構といわれている著名な国宝の飛雲閣である。
当ブログ主は敬虔な安芸門徒ではないがブログ休止中に親鸞聖人750回大遠忌法要に参加した。
昨年、御影堂大修復後の清掃奉仕団で参加したが、今回の大遠忌法要で御影堂の外側には大きく仮設の参詣席が設けられていて、はるか遠くからのお参りであった。
天満神社に掲額されている絵馬で日本武尊の熊襲征伐の場面が大正6年(1917)に描かれ奉納されている。
日本武尊が九州熊襲の酒宴の席に美少女に変装して忍び込み熊襲を誅伐したという場面を描いたものであろう。
天満神社に掲額されている絵馬で五条大橋の名場面が大正15年(1926)に描かれ奉納されている。
牛若丸と弁慶の出会いの名場面であるが、五条大橋で弁慶の長刀をひらりとかわした牛若丸は足のみしか描かれておらず怪力無双の弁慶が主役のように描かれている。
先日紹介した三滝橋と夫婦滝がある手前の小瀬川に何の目的で設けられているものか不明のコンクリート構築物がある。
通常河川は流れを阻害する障害物は設けないものとみられるが、この構築物には流木が引っかかっていたので、下流にある栗栖川発電所の取水口に流木などが流れないように設けられているのだろうか。
栗栖地区の小瀬川沿いにレストラン&ティーヒルバレーなどの飲食店が数軒ある一角に手押しポンプ津田式ケーホー号があった。
大正15年(1926)の広告によると津田式ポンプ製作所は広島市広瀬神社前(現中区広瀬町)で営業していたようである。
以前信州を放浪したことを紹介したが、長野市にあるホームセンターで売られている豆の種を3種類購入した。
こちらでも売られているかも知れないが放浪記念栽培で、手前から「霜ささげ」「穂高菜豆」「グリーンマイルド」で、「霜ささげ」と「穂高菜豆」は長野地方で良く栽培されているようである。
宮内地区の専念寺でかつては神福寺といわれ速谷神社の供僧寺12坊の一つであったという。
神福寺については中世文書にみることができ、厳島社との関わりのあったことはわかるのであるが供僧12坊との根本史料がなく定かではない。
廿日市裏通りの町屋で丸い穴が斜めに3つ2列に開けられている洒落た床下の換気口がみられた。
町屋の両側は隣家が迫っているので有効な換気は出来ないので表側と裏側から換気をする必要があるのだが、この穴面積では有効な換気口にはならないのではなかろうか。
原地区と平良地区の境にある小さな滝で「堀越しの滝」と名付けた。江戸期の地誌には原と平良との境は堀越し垰と記されており、かつてはゴゴロ山に連なる尾根筋に切り通しが設けられて堀越しと称されたものであろう。
堀越しには土橋があったと記されているのでこの流れに架けられていたものとみられる。
飯山河内神社の境内には杉、桧の巨木が繁っており、境内社叢は市の天然記念物に指定されている。
遠くから社叢をみると梢のほうに藤の花がみられ、近づいてみると大きな杉の木には藤の巨蔓が絡み付いている。蔓の根元は巨大になって玉垣を壊しており、この蔓をみると年代を感じさせる巨蔓である。
飯山地区にある河内神社で当神社では世計り神事や山鎮神事などの特殊神事が行われているが当地域は限界集落であり神事の存続が心配される。
かつて氏子戸数は20戸くらいあったようであるが最近になって戸数が8戸になったそうである。集落内を国道186号線が通っているが過疎化の歯止めは利かないようである。