先日の新聞報道によると来年4月に玖島小学校は友和小学校に統合されるようである。
玖島小学校の門柱をみると玖島小学校、玖島中学校、津田高校玖島分校、玖島学園とあり、玖島小学校の沿革史にはみられないいろんな学校が併設されていたようであるが、長年の学び舎が消え去ろうとしている。
原地区で耕作放棄されてから長年荒れるがままの荒地にある栗の木であろうか、カズラが伸び放題で栗の木は駆逐され枯れ木となっているようである。
カズラの伸び放題もこのような年数が経って複雑に絡まっている状態は芸術のようである。
原地区を散歩していたら柿色の実がびっしりと付いた樹木があり、何という樹木であろうかと尋ねるとピラカンサということであった。ピラカンサの名は当ブログ主初めて聞いた樹木名である。
何年も通っている道であるが今まで気付かず昨日初めて沢山の実が付いていることに気が付いた。毎年花も咲き実が付いていたのだろうが・・・
時折桜島大根の生育状況を紹介しているが、多量の虫害に遭って全滅かと思われたが何とか2株は順調に育って、もう2株は育ちが悪いのでどうなることだろうかと思っていた。
順調に育った2株は桜島大根の性質を受け継いでいるが、育ちの悪かった2株は青首大根の性質を強く受け継いだものとみられ在来の大根のようである。
当ブログ開設の前年、平成17年から栽培し毎年種を取り育てているものでありどのような桜島大根になるだろうか。
先月田んぼの石積みを積み替えるために崩し始めたと紹介したが、天端のモルタル塗りを除いて石積みがほぼ完了した。崩し始めた頃はどうなることかと思っていたが・・・
モルタル硬化を待つために一段ずつの積み上げであったが何とか長さ9m、高さ1.3mの石積みが完了した。石面の仕上がりはうまく出来ず波打っているが俄か石工の遊び心としたい。
木材港南の貯木場岸壁沖にあまり見たことが無いような4基のクレーンがある木材運搬船が木材を貯木場に荷降しをしていた。
船名はGLOBAL GARLANDとありネットで調べるとNYKグローバルバルク㈱のクレーン等の荷役装置を備えたバラ積み兼木材運搬船のようである。定かではないが北米から木材が運ばれてきたのであろうか。
上平良地区の畑の片隅にはずらりと並んだ皇帝ダリアが咲き揃っており、里山の紅葉ももう終わりに近づいたようである。
皇帝ダリアは背が高いので支柱など毎年手入れをされ、綺麗な花は通りすがりの人達の目の保養となっている。
上平良地区にある灰小屋の石積みで現在は上部に物置が設けられている。灰小屋は「ハンヤ、クグシ小屋」とも言われており、かつてはあちらこちらで見られたが現在ではその数は少なくなってきている。
三方を石積みや赤土の壁で囲み土天井を設けて藁葺きの屋根であった。 冬になると山の柴(山野の小さな雑木)を刈ってこれを燃やして焼き灰を作ったり、土をかぶせて焼き土を作って麦畑に撒いて自給肥料としていた。
昨日夕方西の空で西方面に向かう2機の飛行機雲が見られ、ほどなく西に向う別の1機と東に向かう2機の飛行機雲がみられた。
飛行機雲が出来る条件であったものとみられ、彗星のように見えたがすぐに消えていった。5時前後であったがなんとこの時間に多くの飛行機が飛んでいるものだ。
上平良地区にある大歳神社境内は黄色いイチョウの葉を敷き詰めた絨毯のようである。境内には桜の木とイチョウの樹があるが、かつては杉の巨樹が林立して鬱蒼としており大歳神社のことを「森さん」と言っていた。
子供の頃、悪いことをすると「森さんの青坊主」に化かされるといって恐らされたものである。
以前にも紹介した可愛川の河口部分で貯木場跡の埋め立て地では仮設建物が築造されており大型商業施設「ゆめタウン廿日市」の工事が始まるのだろうか。
報道によると平成27年(2015)に「ゆめタウン廿日市」が開業するようである。かつてここ榎の浦沖は遠浅で小学校高学年のころ海水浴や貝堀りをしていた親水海岸であったのだが・・・
昨日紹介したJR御手洗川鉄橋のレンガ積み橋脚の平面形状は、河川上流側は水流の抵抗を避けるために鋭角形状とされている。
レンガ積みは煉瓦を長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積むイギリス積みである。先端鋭角部分のレンガ、鈍角の折れ曲がり部分のレンガは役物(一般的なレンガでなく特定の場所に使用する異型レンガ)が使用されており、河川に設ける橋脚の標準形状であったものと思われる。
御手洗川に架るJR山陽本線の御手洗川鉄橋の橋脚をみると上り線側はレンガ積みで築造されている。
国鉄の前身である山陽鉄道の敷設工事が明治29年(1896)9月に広島以西の工事に着手しており、明治30年(1897)に広島~徳山間の工事が完了しているので、レンガ積みの橋脚はこの時に築造されたものであろうか。