50年ほど前のことである。職場の大先輩の長野の実家に大勢でおじゃました。瓦屋根を持つ土塀に囲まれた大きな旧家で、夕暮れの薄暗がりの中、ちょっとした川にかかる橋を渡って、武家屋敷のような大きな門をくぐって家に入った。田舎のない私には何から何まで珍しかった。
夜になって、麻雀を始めていた先輩に「トイレはどこですか」と聞いた。
「外だよ」
「エッ、家の中にないんですか」
「ウン、庭に小屋があるから」
外に出ると全くの闇だった。東京と違い、目の前すぐから真っ暗で一歩も進めない。
戻って、先輩に「真っ暗なんで、懐中電灯がほしいんですけど?」
「ちょうちんならあるけど」
「あ、あ~あ、結構です」
まあ広い庭だからどこでしたってかまわないだろうと、そのまま庭へ出た。足探りしてすり足のまま少しずつ進んで行くと、土塀に突き当たり、少し右に行くと門があった。橋を渡って家に入ってきた方向と直角だから川の方向じゃないはずと、暗闇のなか、門を一歩外へ出た。ここらでと、チャックを下ろしかけて、昔、我家の男便所に掲げてあった「朝顔にしずくたらすな、いま一歩」を思い出し、一歩前に進んだ。
とたんに身体が回転し、頭の上に水面が来た。「ああこれが俺の最後か」と思い、水を何杯か飲んで、2、3回もがくと、足が水底を蹴った。立ちあがると、なんと言うことない浅い小川だった。岸をよじ登り、びしょびしょになった身体を確かめ、どじを踏んでしまって、どんな顔して家に入って行こうかと考えた。え~い、ままよと、「川に落ちちゃったよ! いや、参った、参った」と笑いながら、家に入った。水がしたたる私を見て、一瞬あっけに取られた皆が、一呼吸置いてから一斉に大笑いした。
翌朝、帰る時、入ってきた門を出て振りかえると、川は家を囲むように家の角で曲がっていた。浅はかだった。川は曲がることがあるのだ。おまけにきれいな田舎の川だと信じていたのに、けっこうビニールが浮いていたりして、参った、参った。