フェルディナント・フォン・シーラッハ著、酒寄進一訳『禁忌』(2015年1月9日東京創元社発行)を読んだ。
表紙裏にはこうある。
ドイツ名家の御曹司ゼバスティアン・フォン・エッシュブルク。彼は万物に人が知覚する以上の色彩を認識し、文字のひとつひとつにも色を感じる共感覚の持ち主だった。ベルリンにアトリエを構え写真家として大成功をおさめるが、ある日、若い女性を誘拐したとして緊急逮捕されてしまう。被害者の居場所を吐かせようとする捜査官に強要され、彼は殺害を自供する。殺人容疑で起訴されたエッシュブルクを弁護するため、敏腕弁護士ビーグラーが法廷に立つ。はたして、彼は有罪か無罪か――。刑事事件専門の弁護士として活躍する著者が暴きだした、芸術と人間の本質、そして法律の陥穽(かんせい)。ドイツのみならずヨーロッパ読書界に衝撃をもたらした新たなる傑作。
「緑」
主人公セバスティアン・フォン・エッシュブルクは、ドイツの名家であるが、経済的に没落したエッシュブルク家に生まれた。彼は物心ついてときから、文字に色を感じる共感覚を持っていた。
12歳のとき、父が散弾銃で自死する。彼は写真家のもとで働きだし、徐々に評価を得て、写真集を出し、写真で高額のギャラを得る様になった。
PR会社社長で30代半ばの女性ソフィアから宣伝用写真の依頼を受ける。
・・・彼女なら、いつかわかってくれるだろう。霧のことも、空虚さも、感覚が麻痺していることも。だがそれでいて、彼はまたひとりになりたいという衝動に駆られ、物事が秩序だてられ、静まるのを待った。・・・
いつか彼女を傷つけそうだ。それだけはわかった。
「赤」
重大犯罪課の検察官モニカ・ランダウは、誘拐されていると思われる女性からの電話で動き出した。駆けつけた警察官が中庭のゴミコンテナから引き裂かれ、血だらけの服を見つけ、男のベッド前に血痕、拷問道具が見つかった。被疑者エッシュブルクは刑事に強要されて殺人を自供する。
「青」
拘置所でエッシュブルクは刑事事件専門の弁護士コンラート・ビーグラーに言った。「わたしが殺人犯ではないという前提で、あなたに弁護してもらいたいのです」
法廷闘争が始まる。
「白」
「ソフィアのこと、そして息子のことを思った。」
「注記」
この本に描かれた出来事は本当に起こったことに基づいている。
「本当かね?」ビーグラーは懐疑的だった。
(本当にこんな事件が起こったのだろうか?)
日本文化好きな著者は、「日本の読者のみなさんへ」の冒頭、良寛が死の床で介抱する尼僧に残した句、
「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」
を挙げて、良寛は「悪とはなんですか?」という問いに答えはないということを知っていたという。
フェルディナント・フォン・シーラッハ(Ferdinand von Schirach)
1964年ドイツ、ミュンヘン生まれ。ナチ党全国青少年指導者(ヒットラー・ユーゲント)の全国指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの孫。
1994年からベルリンで刑事事件弁護士として活躍。
2011年デビュー作『犯罪』が本国でクライスト賞、日本で2012年本屋大賞「翻訳小説部門」第1位を受賞。
2010年『罪悪』
2011年初長篇『コリーニ事件』
2013年『禁忌』
酒寄進一(さかより・しんいち)
1958年生まれ。ドイツ文学翻訳家。上智大学、ケルン大学、ミュンスター大学に学び、新潟大学講師を経て和光大学教授。
主な訳書に、イーザウ《ネシャン・サーガ》シリーズ、コルドン『ベルリン 1919』『ベルリン 1933』『ベルリン 1945』、ブレヒト『三文オペラ』、ほか多数。
私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)
短い文章を淡々と重ねるので、話としては分かりやすいのだが、主人公ゼバスティアンの考え方に付いて行けない。彼はなぜこんなことをしたのか、2度読んだが、結局判然としなかった。ドイツでも評価は二分され、分からないという書評家もいたらしい。
また、字をみると色が見えるという共感覚の持ち主という設定がなされているが、その後、ほとんど関連する部分が出てこないと思うのだが。
訳者の酒寄さんは、“理解するのでなく、感じろ“というようなことを語っている。「Blog: マライ・de・ミステリ」
ドイツ文学は一般的に観念の隙間を文章で埋めようとする傾向が強い、シーラッハはその逆で、「間」を大事にし、「描かない」ことで大事なモノを逆に浮き彫りにしていく手際がスゴい。
表紙の女性の顔写真
翻訳出版にあたり、著者から原著の写真を使うという条件が付けられた。
写真は右横からスポットライトが当てられた明暗がはっきりした女性のポートレートだが、左右の目つき、眉毛が微妙に異なる。どうも合成写真のようで、この作品はこのカバー写真から始まっているという。(訳者あとがきより)