西荻窪駅から北東へ歩いて約20分・約1.4㎞に「桃井原っぱ公園」がある。
この公園はだだっ広い広場があり、災害時には災害救助用のヘリコプターの離着陸場になる。
さらに、杉並区の施設案内によると、
この地は、かつて中島飛行機株式会社の原動機工場が建ち、国産第1号の飛行機用エンジンをはじめ、当時世界に名を轟かせた零戦のエンジンも設計・製造された。
戦後、日産自動車株式会社荻窪工場となり、その間日本のロケット第1号も開発されたが、工場は移転、跡地は売却。
この公園は、平常時は地域の人々の憩いの場、災害時は周辺の消防署、警察署、病院等と連携した避難拠点となる。
大正14年 中島飛行機株式会社東京工場開設
昭和41年 日産自動車株式会社荻窪工場開設
平成10年 工場移転
平成17年 懇談会による公園検討開始
平成23年 公園開園
公園への立派なプロムナード
さらに進むと、遠くに公園が見える
広い! 左を見ても
右を見ても
こんなに広い。矢印が入って来たプロムナード。
開発経緯の説明も長い
「ロケット発祥の地」の碑
私は中学生だっただろうか。今でもあの興奮を思いだす。
糸川英夫のペンシルロケットの発射成功!
徹底的に攻撃、破壊され、世界の貧民国になり、悲惨な生活の中で、少しずつ立ち上がっていった日本。
かって誇った飛行機製造技術の開発は禁止されたが、あたらしいロケット開発を進めていたのだ。
ちょっと大きな鉛筆ほどのロケット「ペンシルロケット」だったが、日本の空に打ち上げたのだった!!
全長:230㎜、全質量:役230g、胴体径:18㎜ (1955年4月12日第一回発射実験成功)
当時は宇宙開発が将来の夢で、ロケットは、軍事用ではなく、平和利用の希望の実現だったと思う。
今だったら中学生でも作って打ち上げるようなおもちゃのようなロケットだが、当時、これは「大きな大きな一歩」だったのだ。
桃井原っぱ広場が「ロケット発祥之地」だったとは知らなかった。
当時、ここは富士精密工業の工場で、1955年、当地で国産ロケット第一号である「ペンシルロケット」が開発された記念の碑。
そして、零戦のエンジンを作っていた中島飛行機の工場がここにあった。
中島飛行機の工場は、その後、武蔵野市へ移転し、そこで日本初の空襲に襲われたのだ。
牛田守彦、高栁昌久著『戦争の記憶を武蔵野にたずねて 増補版 武蔵野地域の戦争遺跡ガイド』
今、この平和な広場では、手作り凧あげ大会が行われていた。
西荻窪駅へ戻る途中にあった「関根文化公園」
右下は、「私たちがこの公園を清掃しました。〇月〇日何時何分、次は……」
この公園、「文化」とついているだけのことがある。
吊り橋や滑り台が組み合わされたミニアスレチック、程よい高さの丸太の吊り橋など工夫を凝らした各種遊具が設置されている。
区民の方が自由に土のうを持ち出せる「土のうストッカー」もある。
コロナ以来、公園の池、プールは使用禁止になっているが、ここでも以前はプールだった場所をリニューアルして、ひろびろとした芝生が広がっている。
さて、のんびり帰るか、今日は一万歩を越すぞ!