吉澤公寿著、アート・ビギナーズ・コレクション『もっと知りたい ローランサン 生涯と作品』(2023年1月30日東京美術発行)を読んだ。
女性が画家になることが難しかった時代に自分のスタイルを確立したマリー・ローランサン。ピカソやブラックとの出会い、戦争と亡命、そして画家としての成功――波乱に満ちた人生とその作品の変遷をたどる唯一の入門書。
柔らかな曲線と淡い色彩で、綺麗で可愛い女性の絵を描く画家という印象のマリー・ローランサンだが、プロフェッショナルの画家としてはじめて成功した女性でもある。
彼女はデッサン力や構成力に秀でていて、ピカソやブラックが集まったアトリエ兼住宅の洗濯船に加わり、そのコミュニティーに入れたたった一人の女性画家だった。華やかな交流関係とともに著名人からの肖像画作成を依頼も殺到し、商業的にも大成功した。
この本は、マリー・ローランサンの生涯をたどりながら、その作品はもちろん、華やかな交流を示す写真も含めた、写真+文のB5版80頁。
マリーはお針子として働くシングルマザーの娘として、普仏戦争の敗北から輝きを取り戻しつつあったパリで1883年に生まれた。志賀直哉、カフカ、シャネルと同年だ。
マリーは19歳で私塾アカデミー・アンベールで本格的に絵画を学び始め、ジョルジュ・ブラックと知り合い、彼女のデッサン力に驚いた彼は一緒に新しい芸術を創ろうと、ピカソなどが集まるアトリエ長屋「洗濯船」に連れて行く。
マリーは、ピカソやブラックが始めたキュビスムに影響されたが、直線でなく曲線を、形ではなく色彩を優先させた。1907年、ピカソが≪アヴィニョンの娘たち≫を完成させ、彼女はいくつかの群像絵画を描き、唯一の前衛画家として高額で売れた。
ピカソは彼女を、シュールレアリズムの詩人・アポリネールに「君の奥さんだ」と紹介し、そのとおり彼らは恋人になる。やがて、彼は、モナリザ盗難事件の容疑者として誤認逮捕されたことがきっかけで二人は別れた。彼はこの別れを代表作『ミラボー橋』に謳いあげた。
ミラボー橋の下セーヌは流れる
そして私たちの愛も
私は思い出さねばならない
喜びは悲しみの後にやってくることを アポリネール『ミラボー橋』
小説家のサマセット・モームは1926年、南仏に邸宅を建て、食堂を5枚のローランサンの作品で飾った。そのうちの1枚がこの本の表紙の≪接吻≫。招かれたローランサンは自作を見て「モームさん、あなた良い趣味していらっしゃるわ」と語ったという。
私の評価としては、★★★★★(五つ星:読むべき、 最大は五つ星)
マリー・ローランサンの作品が好きな人、パリでの彼女の波乱の交際歴に下世話な興味がある人(それは私です)はツボにはまるだろう。
この本で、ローランサンの絵を全体として眺めてきたが、やっぱり肖像画が「いいね!」。
写真技術が進展し、肖像画が駆逐されると考えられてが、人々に求められ続けた彼女の肖像画は、絵とは写真と何が違うのか、絵とはいったい何なのかと、感じさせてくれる。
ピカソが何を描こうが、気鋭の美術評論家が何を語ろうが、心を和やかにしてくれる作品はローランサンの柔らかな、優しい絵画だ。居間を飾るにはピカソよりローランサンが最適だ。デコラティブアートに近いのだろう。
相方が好きで、長らく居間に飾っていた絵もこの本にあった。もちろんプリント画なのだが、終活の一貫で、メルカリで売ってしまった。利益0だったが、どなたかが心穏やかになってくれていればそれでよい。
吉澤公寿(よしざわ・ひろひさ)
1961年東京生まれ。私立暁星学園から立教大学文学部フランス文学科を卒業し、父親の高野将弘が経営するタクシー会社、グリーンキャブの役員に就任、学芸員資格を取得し、マリー・ローランサン美術館の担当となる。1998年フランス共和国文化通信省の実習生としてパリ第9大学で文化金融・経済・マネジメントの研修を修了。
現在、東京のタクシー会社グリーンキャブ・グループの常務取締役およびマリー・ローランサン美術館館長。
父親の高野将弘は東京のタクシー会社グリーンキャブを経営するかたわら、数十年をかけてマリー・ローランサンの作品を蒐集。そのコレクションは、質量ともに世界最大を誇る。
2023/2/14~4/9、Bunkamuraザ・ミュージアムで、「マリー・ローランサンとモード」が開かれていたが(そのホームページでは、多くの絵画が見られる)、現在は、6/24~9/3まで名古屋市美術館で開催中。