いよいよ何故病院に入院したのか、きっかけとなった出来事から遡り辿って行く。これまで入院翌日までの1週間の記憶が混濁していたが、ここに来てやっと頭の整理が出来てスッキリして来た。先月19日に地場銀行に行き通帳の再発行し、田舎生活の費用を引き落とした。その日の午後、久し振りに西和田から徳森まで山裾歩きをした。その後右足に違和感を感じたが何時もの事だと軽視した。
靴は米国時代に買ったスイス・マイケルの登山靴を田舎に持ち帰ったが、数年前に接着部分が剥がれて使い物にならなくなった。多分、湿度が高かったせいだと思う。暫らく普通のスニーカーを使ったが、ワークマンの頑丈な作業用の靴を買って履くようになった。頑丈なのは良いけど弾力性がほぼゼロで、外反母趾のストレスが強かったのが問題だった。
多分、加えて今回は高齢者になり足の耐力が劣化したのだろう、翌朝になって右足の親指と小指の付け根あたりが腫れていた。その日は大人しくして家に籠り夕方様子を見るため足慣らしに3キロ程度歩いた。翌々日も症状が余り改善しないが治療の積りで馴染みの川沿いの散歩道を歩き、農協に立ち寄り農業関連の相談をして帰った。歩いた道はフラットで距離は5キロ前後だった。
ところが、その翌日山裾歩きから4日目に足の症状は急速に悪化し、親指と小指の付け根を中心に真っ赤に腫れ上がり右足全体に痛みが広がり歩けなくなった。寝室からトイレまでの数メーターを這って歩くのでさえ大変だった。床板の上を這うと膝の痛みが半端なかった。その後昔を思い出し書斎で使っていたコロ付きの椅子を転がしてトイレに行くようになり少し楽になった。
だが、食事はもっと大変だった。1階まで階段を上り下りして食事するのは、一山登るのと同じくらい必死の覚悟が必要だった。それから3日間は毎日一山登山、つまり毎日1食取るのが精一杯だった。食事と言っても2日目が冷凍食品のナポリタン、3日目がカップヌードルだけだった。続けられない。
LINEのやり取りをした家族からは早く病院に行けと何度も言われたが、気が乗らずグズグズしていた。しかし、1日1食もままならない家籠りの3日目の夕方、最早食事すら取れなくなりそうで遂に救急車を呼んだ。20代後半に仕事のストレスで倒れ、30代半ばにバドミントン練習で筋肉断裂、そして今回一歩も歩けず人生3度目、かつ初めて自ら救急車を呼んで病院に担ぎ込まれた。
幸か不幸か担ぎ込まれたのは市立病院、父が心筋梗塞で死んだ病院であり、母が脳梗塞(多分)で倒れて担ぎ込まれその後リハビリから介護を受けながら天国に旅立った道の入口にあった病院だ。実家から最も遠い位置にある病院へ向かう車の中で、私も父母と同じ道を歩むかもと思った。父母と同じ道の入口に立ったと。だが、心は静かだったと今思う。
記憶では救急車には3人の係員がいて症状を聞き血圧を測ったり、無暗に救急車を呼ぶケースが増えていると聞かされ私は謝ったりした。だが、総ては霧がかかったような記憶だ。病院のベッドに移され色んな人が質問し、幾つもの書類にサインさせられ、少し診ただけで担当医は痛風だと断定し、個室がないからと4人部屋に放り込まれた。正しくは「偽痛風」だと言われた。
保証人が必要と言われ、母親の葬儀の後で大阪から帰省中の義弟に来て貰った。彼の実家は病院の近くですぐ来て助けてくれた。普段二人の間では言いたい放題の仲だったが、素直に病院関係者の話を聞いてくれて少し驚いた。記憶では彼の兄はかつて大学病院長で副学長と聞いていたので、何か一言二言あるかと思ったが、親戚の保証人の立場を守ってる様に感じた。
その後治療を受けながらかつて経験した痛風の症状と同じだと私も思うようになった。90年代後半にタホ湖マラソン(実際は駅伝)に備えて毎日練習し、その後水分を取らずビールを飲んでいたら大会直前になって足を捻って(そう思った)医者に診て貰うとGoutだと診察された。頭を捻ると‛G-O-U-T’だ、かえって辞書を引けと言われ始めて痛風だと分かった。
以来帰国後も何度も痛風になったが、その後食生活の改善と薬で数年前には尿酸値を基準値以下に下げ解決済みだったはずだった。だが、友達で社会人バドミントンで活躍していた友人によると、練習で水分を十分とれずに痛風になった経験があると聞いたことがある。今回私も山歩きの後の水分の取り方にも問題があったかもしれない。医師や看護婦から家族や友人まで脱水症を気にしていた。
退院後3日目でやっと頭の中が整理できてこのような報告が出来た。病院には山歩きから発症までの経緯を間違えて報告したままだが、「偽痛風」に違いはないと思う。これが私の理解だ。実は、病気の治療と並行して治療費以外にもお金に係る悩ましい問題が幾つかあった。しかもタイムリミットが迫っていた。それが私の頭に霧がかかっていた別の理由だと思う。次回報告する。■
靴は米国時代に買ったスイス・マイケルの登山靴を田舎に持ち帰ったが、数年前に接着部分が剥がれて使い物にならなくなった。多分、湿度が高かったせいだと思う。暫らく普通のスニーカーを使ったが、ワークマンの頑丈な作業用の靴を買って履くようになった。頑丈なのは良いけど弾力性がほぼゼロで、外反母趾のストレスが強かったのが問題だった。
多分、加えて今回は高齢者になり足の耐力が劣化したのだろう、翌朝になって右足の親指と小指の付け根あたりが腫れていた。その日は大人しくして家に籠り夕方様子を見るため足慣らしに3キロ程度歩いた。翌々日も症状が余り改善しないが治療の積りで馴染みの川沿いの散歩道を歩き、農協に立ち寄り農業関連の相談をして帰った。歩いた道はフラットで距離は5キロ前後だった。
ところが、その翌日山裾歩きから4日目に足の症状は急速に悪化し、親指と小指の付け根を中心に真っ赤に腫れ上がり右足全体に痛みが広がり歩けなくなった。寝室からトイレまでの数メーターを這って歩くのでさえ大変だった。床板の上を這うと膝の痛みが半端なかった。その後昔を思い出し書斎で使っていたコロ付きの椅子を転がしてトイレに行くようになり少し楽になった。
だが、食事はもっと大変だった。1階まで階段を上り下りして食事するのは、一山登るのと同じくらい必死の覚悟が必要だった。それから3日間は毎日一山登山、つまり毎日1食取るのが精一杯だった。食事と言っても2日目が冷凍食品のナポリタン、3日目がカップヌードルだけだった。続けられない。
LINEのやり取りをした家族からは早く病院に行けと何度も言われたが、気が乗らずグズグズしていた。しかし、1日1食もままならない家籠りの3日目の夕方、最早食事すら取れなくなりそうで遂に救急車を呼んだ。20代後半に仕事のストレスで倒れ、30代半ばにバドミントン練習で筋肉断裂、そして今回一歩も歩けず人生3度目、かつ初めて自ら救急車を呼んで病院に担ぎ込まれた。
幸か不幸か担ぎ込まれたのは市立病院、父が心筋梗塞で死んだ病院であり、母が脳梗塞(多分)で倒れて担ぎ込まれその後リハビリから介護を受けながら天国に旅立った道の入口にあった病院だ。実家から最も遠い位置にある病院へ向かう車の中で、私も父母と同じ道を歩むかもと思った。父母と同じ道の入口に立ったと。だが、心は静かだったと今思う。
記憶では救急車には3人の係員がいて症状を聞き血圧を測ったり、無暗に救急車を呼ぶケースが増えていると聞かされ私は謝ったりした。だが、総ては霧がかかったような記憶だ。病院のベッドに移され色んな人が質問し、幾つもの書類にサインさせられ、少し診ただけで担当医は痛風だと断定し、個室がないからと4人部屋に放り込まれた。正しくは「偽痛風」だと言われた。
保証人が必要と言われ、母親の葬儀の後で大阪から帰省中の義弟に来て貰った。彼の実家は病院の近くですぐ来て助けてくれた。普段二人の間では言いたい放題の仲だったが、素直に病院関係者の話を聞いてくれて少し驚いた。記憶では彼の兄はかつて大学病院長で副学長と聞いていたので、何か一言二言あるかと思ったが、親戚の保証人の立場を守ってる様に感じた。
その後治療を受けながらかつて経験した痛風の症状と同じだと私も思うようになった。90年代後半にタホ湖マラソン(実際は駅伝)に備えて毎日練習し、その後水分を取らずビールを飲んでいたら大会直前になって足を捻って(そう思った)医者に診て貰うとGoutだと診察された。頭を捻ると‛G-O-U-T’だ、かえって辞書を引けと言われ始めて痛風だと分かった。
以来帰国後も何度も痛風になったが、その後食生活の改善と薬で数年前には尿酸値を基準値以下に下げ解決済みだったはずだった。だが、友達で社会人バドミントンで活躍していた友人によると、練習で水分を十分とれずに痛風になった経験があると聞いたことがある。今回私も山歩きの後の水分の取り方にも問題があったかもしれない。医師や看護婦から家族や友人まで脱水症を気にしていた。
退院後3日目でやっと頭の中が整理できてこのような報告が出来た。病院には山歩きから発症までの経緯を間違えて報告したままだが、「偽痛風」に違いはないと思う。これが私の理解だ。実は、病気の治療と並行して治療費以外にもお金に係る悩ましい問題が幾つかあった。しかもタイムリミットが迫っていた。それが私の頭に霧がかかっていた別の理由だと思う。次回報告する。■