ヤクルトスワローズの左のエースだった安田猛さんが20日、胃ガンで亡くなった。享年73歳。
安田さんは1972年、大昭和製紙からドラフト6位で入団した。
安田さんの持ち味はテンポのいい投球と抜群の制球力だった。小柄で手足もそれほど長くなかった安田さんは、サイドスローという投げ方から、「ペンギン投法」と呼ばれた。
1973年には81イニング連続無四死球という日本記録を達成した。だがこの途切れ方がある種の悲劇だった。9月9日、阪神戦に先発した安田さんは、9回2死まで阪神打線を無失点に抑えていた。この時点で81イニング連続無四死球である。だがそこから安田さんは連打を浴び、同点にされてしまう。
そこでバッターは田淵幸一である。ランナーは2塁にいるから、セオリーでは敬遠だ。果たして、三原脩監督の指示も敬遠だった。いつの世も個人の記録は、チームの勝利から見たら数字のお遊びでしかない。
安田さんももちろん指示に従ったが、これで緊張の糸が切れたのか、次打者の池田祥浩にサヨナラ3ランホームランを打たれてしまった。結果論ながら、田淵への敬遠が無意味になったのである。
実は、連続無四死球記録の始まりも、田淵の敬遠のあとからだった。最初と最後のこれがなければ、どれだけ記録が伸びていたのかと思う。
王貞治ソフトバンク球団会長は安田さんの逝去に際し、「757号を彼から打ったことを思い出しました」との談話を発表した。この一本は私もよく憶えている。王が本塁打世界新記録の756号を放った翌日だったこともあるが、この試合を私は、父、弟とともに、後楽園球場まで見に行っていたからだ。
1977年9月4日、この日は観客全員に、ご祝儀としてナボナが1個ずつプレゼントされた。
試合は巨人が小俣進、ヤクルトが梶間健一の先発で始まった。試合は9回表を終わってヤクルトが3-1でリード。裏のマウンドには、8回から登板していた安田さんがいた。
巨人は1死から河埜和正が珍しく四球で歩いた。これがケチのつきはじめだったかもしれない。
2死となって、バッターは8番の矢沢正である。矢沢は1967年、ドラフト外で入団。ポジションは捕手だったが、当時は森昌彦(現・祇晶)がレギュラーに鎮座しており、なかなか出番がなかった。1974年の森の引退で、1975年にはレギュラーを取ったが、翌1976年は吉田孝司にその座を奪われていた。
矢沢の打率はよくなかったので、私は(これで終わったな……)と思った。
だが矢沢は、安田さんから2号同点ホームランをかっ飛ばした。このときの興奮を何と表現したらいいのだろう。父も興奮していたが、「河埜を歩かせたのがマズかったな」と冷静な分析をした。
ともあれこうなれば、流れは巨人である。延長戦に入り、10回表を新浦壽夫が抑えると、その裏巨人は、先頭の柴田勲がセンター前ヒットで出塁した。次の土井正三も出塁し、ここで3番・王である。
王は前日の756号で祝杯責めに遭い、二日酔いだった。事実この試合も、8回裏1死1、2塁のチャンスで、安田さんに三振を喫していた。
安田さんは、王のような強打者を抑えることを無上の喜びとしていた。当然この場面も抑える気満々だった。
だが勝負事は分からない。初球、王は安田さんのシュートを強振すると、打球は右中間に飛び込んだ。劇的なサヨナラ3ランである。いやこれも大変な騒ぎになり、ホーム上には長嶋茂雄監督以下全選手が集まり、王を祝福した。756号を生で見られた観客は幸せだが、この試合を見られた私も、幸せだった。
以上、これが王の語る「757号」である。王のサヨナラホームランも立派だが、その陰に矢沢の同点ホームランがあったことを、忘れてはなるまい。
だが矢沢の活躍もここまでだった。翌年、早稲田大学から山倉和博が入団し、開幕戦からマスクをかぶった。矢沢の出場機会は激減し、同年オフの巨人の若返り政策により、土井、高橋善正、上田武司らとともに現役引退となった。結果的に安田さんからのホームランが、現役最後のホームランとなった。
その矢沢は現在72歳で、元気である。もし談話を取れば、王と似たようなコメントになると思う。
ここまで安田さんの暗い部分ばかり書いたが、安田さんは翌1978年に15勝を挙げ、チームをリーグ優勝と日本一に導いた。現役生活は10年と短めだったが、記憶に残る名投手だったと思う。
ご冥福をお祈りします。
安田さんは1972年、大昭和製紙からドラフト6位で入団した。
安田さんの持ち味はテンポのいい投球と抜群の制球力だった。小柄で手足もそれほど長くなかった安田さんは、サイドスローという投げ方から、「ペンギン投法」と呼ばれた。
1973年には81イニング連続無四死球という日本記録を達成した。だがこの途切れ方がある種の悲劇だった。9月9日、阪神戦に先発した安田さんは、9回2死まで阪神打線を無失点に抑えていた。この時点で81イニング連続無四死球である。だがそこから安田さんは連打を浴び、同点にされてしまう。
そこでバッターは田淵幸一である。ランナーは2塁にいるから、セオリーでは敬遠だ。果たして、三原脩監督の指示も敬遠だった。いつの世も個人の記録は、チームの勝利から見たら数字のお遊びでしかない。
安田さんももちろん指示に従ったが、これで緊張の糸が切れたのか、次打者の池田祥浩にサヨナラ3ランホームランを打たれてしまった。結果論ながら、田淵への敬遠が無意味になったのである。
実は、連続無四死球記録の始まりも、田淵の敬遠のあとからだった。最初と最後のこれがなければ、どれだけ記録が伸びていたのかと思う。
王貞治ソフトバンク球団会長は安田さんの逝去に際し、「757号を彼から打ったことを思い出しました」との談話を発表した。この一本は私もよく憶えている。王が本塁打世界新記録の756号を放った翌日だったこともあるが、この試合を私は、父、弟とともに、後楽園球場まで見に行っていたからだ。
1977年9月4日、この日は観客全員に、ご祝儀としてナボナが1個ずつプレゼントされた。
試合は巨人が小俣進、ヤクルトが梶間健一の先発で始まった。試合は9回表を終わってヤクルトが3-1でリード。裏のマウンドには、8回から登板していた安田さんがいた。
巨人は1死から河埜和正が珍しく四球で歩いた。これがケチのつきはじめだったかもしれない。
2死となって、バッターは8番の矢沢正である。矢沢は1967年、ドラフト外で入団。ポジションは捕手だったが、当時は森昌彦(現・祇晶)がレギュラーに鎮座しており、なかなか出番がなかった。1974年の森の引退で、1975年にはレギュラーを取ったが、翌1976年は吉田孝司にその座を奪われていた。
矢沢の打率はよくなかったので、私は(これで終わったな……)と思った。
だが矢沢は、安田さんから2号同点ホームランをかっ飛ばした。このときの興奮を何と表現したらいいのだろう。父も興奮していたが、「河埜を歩かせたのがマズかったな」と冷静な分析をした。
ともあれこうなれば、流れは巨人である。延長戦に入り、10回表を新浦壽夫が抑えると、その裏巨人は、先頭の柴田勲がセンター前ヒットで出塁した。次の土井正三も出塁し、ここで3番・王である。
王は前日の756号で祝杯責めに遭い、二日酔いだった。事実この試合も、8回裏1死1、2塁のチャンスで、安田さんに三振を喫していた。
安田さんは、王のような強打者を抑えることを無上の喜びとしていた。当然この場面も抑える気満々だった。
だが勝負事は分からない。初球、王は安田さんのシュートを強振すると、打球は右中間に飛び込んだ。劇的なサヨナラ3ランである。いやこれも大変な騒ぎになり、ホーム上には長嶋茂雄監督以下全選手が集まり、王を祝福した。756号を生で見られた観客は幸せだが、この試合を見られた私も、幸せだった。
以上、これが王の語る「757号」である。王のサヨナラホームランも立派だが、その陰に矢沢の同点ホームランがあったことを、忘れてはなるまい。
だが矢沢の活躍もここまでだった。翌年、早稲田大学から山倉和博が入団し、開幕戦からマスクをかぶった。矢沢の出場機会は激減し、同年オフの巨人の若返り政策により、土井、高橋善正、上田武司らとともに現役引退となった。結果的に安田さんからのホームランが、現役最後のホームランとなった。
その矢沢は現在72歳で、元気である。もし談話を取れば、王と似たようなコメントになると思う。
ここまで安田さんの暗い部分ばかり書いたが、安田さんは翌1978年に15勝を挙げ、チームをリーグ優勝と日本一に導いた。現役生活は10年と短めだったが、記憶に残る名投手だったと思う。
ご冥福をお祈りします。