心がざわついている 信念は機能しているけど雑念が襲ってくる
今朝は久しぶりに朝から仏壇の前に座ってみた
お線香を焚いて「なむあみだぶつ」と声を出してみた
10回ほど繰り返した
この言葉は「阿弥陀様にすべてを委ねます」という意味だという
それで気づいたのだけど、これは自分の為の祈りなのか、仏様の死後のための
祈りなのかがわからない・・・こんど住職に聞いてみようと思っている
昔は神仏に祈ると言うよりは、お願いばかりしていた
「助けてください」「お金持ちにしてください」「**が治りますように」・・・・
今はそんな実現性の無い都合良い考えは捨てた
「無心」仏壇の前で無心になることを心がけている、そしてその要領も次第に覚えてきた
なぜ無心が必要なのか
人は言葉で思いを伝える、だが言葉の90%は相手の耳を素通りする
そしてなにより一般人は表現力が下手なので、思いの半分も言葉で言い表せない
むしろ文字の方が思いを伝えるには適している
さておき・・・・そんな故に言葉では無く、心で伝えるのが一番良い
第三者に言葉で伝えても、相手は信じるか疑うかわからない、それは相手から私の心
「真実」を見ることが出来ないからだ
だが無心は、心の全て、自分の全てを隠すことなくさらけ出すことなのだ
嘘も何も無い・・・なにもかもお見通しになるよう心を無にして見せるのだ
自分の真実を見てもらうには相応の日常が必要だ、だが私は自分の醜さもずるさも全て伝えたい
誰かが「それって懺悔だね」と言った 確かに一部分を切り取ればこれも懺悔かも知れない
心で父母と対話し、思いを伝え、あるいは阿弥陀さんという象形にすがる
対話と言っても、会話では無い、自ら心の全てを言葉にもせず、考えもせず、映像にもせず
無をひたすら軽い気持ちで見続ける・・・・・・それがどれだけの時間なのか・・・・僅かな時間
やがて雑念が目を覚ます、そしたらおしまい
今日は良い心の対話ができた、少し気楽に一日過ごせそうだ