夜中3時前に激しい雨音で目が覚めた、豪雨というくらいの激しい降り方だった
ちょっと眠れなくなったので電気は薄暗いまま、テレビを小さな音でつけておいた
すると10分以上目が冴えていたのに、すぐに寝付いて夢まで見た、いい夢だった
10時になって、ようやく雨が上がる気配、これから天気は上向きになるので
晴れたら、忙しさと暑さでできなかった庭の草むしりを始める
これだけ降ったから、土もかなり水分を吸って、草も抜けやすいだろう
気温も28度までは上がらないようだし、絶好のチャンスだ
父は体が不自由になってからは妹の次男坊に小遣いをやって草むしりをしてもらっていた
草ぼうぼうにが気になって仕方ないきれい好きな父だった
それに比べたら私はものぐさな男である、親と子でありながら、これほどまでに性格が
違うものだろうか
ファザコンではないが、この頃ようやく父の大きさがわかってきた、とても敵わない
自分の限界が少しずつ見えてきた、それでも未練がましく抵抗している
69歳が若いのか老人なのかはわからない、世間では高齢者というが、80歳くらいの
元気な人たちに言わせたら「まだまだ、これからだよ60なんてひょっこだ!」
体と健康には自信を持っている、父もそうだった、だが80歳からは病院と縁が切れなく
なった。
舌がんに始まり、血液ドロドロになり両太ももの血管が詰まりゴム管と取り替える手術
白内障、不整脈心房細動、睡眠障害、幻覚、肺炎、無呼吸症候群など
亡くなるまで13年間、ベッドと病院の往復
そんな間にも寝たきりの母の介護と食事作りは欠かさなかったから偉いものだ
もっとも過酷な人生を送った大正生まれの、ど根性なのだろう
87歳の時、生まれ故郷の古河まで是非行って墓参りをしたいと言った
無理ではないだろうかと疑心暗鬼だったが、少しでも楽なようにと知り合いの自動車屋の
社長から大型の乗用車を借りて300km走って行った
紅葉のきれいな時期だった。 帰り道、伊香保温泉で一泊した、久しぶりに父の後ろ姿を
見たら、もう尻のあたりは骨と皮くらいに痩せていた
父も55歳頃に、衰えが見えた80歳の実父をつれて東京に連れて行った。
赤ん坊の時に自分を置いて家を出て行った実父だったが、親子の情は別物だったようだ
実父は父をおいて離婚してから、いつからはわからないが世田谷の成城に間借りして
新しい家族と暮らしていたのだった、それで東京が恋しくなったのだろう。
戦争が始まった翌日昭和16年12月9日に、後妻との間の一人息子が生まれた
父とは19歳違いの母違いの弟だ
間もなく、着の身着のままで故郷に逃げ帰った祖父の家族だった
伊香保で泊まった後、少しでも早く帰った方がいいだろうと、関越高速で帰ろうと言ったら
父は、「せっかく来たのだから榛名山から志賀高原を通って紅葉を見ていこう」と言った
どこにあれだけの力が残っていたんだろう、久しぶりのドライブがよほど嬉しかったのだろう
母に紅葉の一枝を持っていくと言った
雨上がりの今、ふとそんな事を思い出したのだった。