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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(258) 甲越 川中島血戦 85

2024年11月24日 20時35分19秒 | 甲越軍記
 信玄の決断を聞いて、山本、真田、馬場は軍議を開き、山本が信玄の前に進み出て次第を申し上げる
「此度、謙信は一万三千を率いて深く死地に入っても危うきを恐れず、これ必死の想である
毎度、当家に欺かれて無念のうっぷんを一戦にて晴らさんとのこと明らかなれば
大いに大事の合戦也
まず味方二万の軍を二つに分けて、一万の勢をもって大正の備えとし、残る一万をもって大奇の勢とする
これ即ち旗本勢である、大正の勢は十頭ばかりをもって西條山に押しかかり、無二の一戦を挑む也、そうなれば謙信は勝っても負けても、雨宮の渡しを越えて、善光寺の渡りに向かうでありましょう
そして犀川を渡るところで大奇の一万人、備えを厳重にして待ち受け、謙信が引き取るところを前後から包み込んで攻め討てば、必定謙信を討ち取るは可なり」と申せば、信玄は、これを聞いて大いに喜び、「道鬼が申すところ、まことに理のしごくである、されども大正の人数は一万二千、大奇の旗本は八千とすべし」と申される

これに対して山本の曰く、「正奇の御人数仰せの通りに候は普通なり、謙信の猛勇は退くと言えども勇気凛々として、君の奇兵にも恐れず立ち向かえば、味方の奇兵小人数にて足るべからず
正兵共に一万にて強く備えるのが宜しいかと」申せども、信玄は
「敵は疲れているから八千で充分なり」と譲らず、ついに正兵一万二千、奇兵八千と定められた。

こうして海津城にて手配りを定める
まずは大正の兵として西條山に向かう軍は、高坂弾正忠、飫冨兵部少輔、馬場民部少輔、小山田備中、甘利左衛門、真田入道、相木市兵衛、芦田下野、小山田信茂、小幡尾張の十頭
さらに24名の士大将など一万二千人、西條山の一番合戦を命じられる

その夜、子の刻に打ち立てて、明朝卯の刻に合戦を仕掛けて謙信の堅陣を粉々に打ち砕くと、諸兵ら勇んで打ち立てる

大崎の備えには信玄を真ん中に、前備え中央に飫冨三郎兵衛昌景、左は武田左馬助信繁、穴山伊豆、右は内藤修理、諸角豊後
左の脇備えは、原隼人佐、武田逍遥軒、右は太郎義信、望月三郎
後備えは跡部大炊介、今福善九郎、浅利式部、凡そ十二備えに山本勘助ら侍大将三十五名など八千余人
九日夜の丑の刻に打ち立てて「謙信の首を得るは、この一戦に在りと、海津の城より押し出して西に向かい、犀川より一里東の方、三牧畑の方に備えを立てて手ぐすねをひいて謙信の現れるを待つ

鬼をも欺く信玄の堅陣、山本勘助の謀を重ねて、従うは名高き武田の士大将の面々、いかなる天魔鬼人も敵うべからずと
上杉謙信を始め、越後の最期の一兵までも討取って、一人も越後に還さぬと勇みたてり。

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