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 神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

気が合う恩師②

2023年03月07日 09時40分25秒 | yottin日記
 昨日のS先生が私の担任10名の中でナンバー1の先生だったが、もう2名好きな先生がいた
それ以外の先生は名前も顔も思い出せない、正確に言えばS先生と逆に相性が悪くて意地悪ばかりされた先生もまた顔と名前を憶えている。
好きな先生の一人は中一の時のF先生、またしても中年のおばさんであるが、雰囲気は「ミヤコ蝶々さん」(若い世代にはわかるまい)
特別親切にされたわけでもないが、女のくせに(今は使ってはいけない差別語だが)べらんめぇ口調で男気、さっぱりした先生だった。
それもそのはず、先生の実家は漁場の魚問屋で兄貴が全国へ魚を発送する商売だった、だから男衆に交じって手伝いをしていたこともあるだろう。
地元の資産家(市会議員もやっていた)一族に嫁ぎ、金銭的に不自由なく、人に媚びることもなかったから校長だろうと怖くなかった先生、かっこよかった。
私が一年習ってから、あっさりと教師を辞めて家族で横浜へ引っ越していった
それからも先生とは10年くらいは手紙や年賀状のやり取りをしていた。
先生の実家は息子の代で魚問屋を辞めて、医院になった
忙しい私は、どこも予約が取れず困っていたら、医院の奥さんが優先的に内緒で一番の予約を取ってくれるようになって大変助かった
これはF先生のおかげというより魚屋仲間の仁義みたいなものだった。

 中三の担任、U先生は初めてのインテリジェンスあふれる正義感で、教師と言うより研究者であった。
昆虫、植物の専門家で蝶の権威、新潟市の県の研究所から理科教師になってやって来た
この先生は15歳の私にとって大きな影響が与えた。
先生の言葉「青年よ正義と共にあれ」この言葉は60年たつ今も忘れない。
夏休みや春休みには生徒を引き連れてキャンプをした、これほど教師とまとまっているクラスは無かった。
それは高校生になっても続き、高校も散らばった男女11名の有志が交流会を作って、先生に顧問になってもらった、副担任だったH先生にも顧問になってもらった。
ここでも信州笹ヶ峰でキャンプをして火打山へ登り、小谷温泉まで歩いて下ったりもした。 満天の星空の下で星座を語り、歌を歌い、バーベキューを食べた思い出は忘れない。
U先生ももう90歳近い、20年くらい前までは年賀状をやり取りしたし、同級会では80歳になられたU先生が教師の中で唯一出席してくださった
二次会にも出てくれて一曲歌ってくれた、まだまだ元気だった。
あれからお会いしていないが、夏に暑中見舞いを出して様子を見たいと思っている。
後の二人は副担任だ、中三のH先生と高一のA先生
H先生は定年まじかの高齢先生だった、国語教師にふさわしく理屈っぽい
それなのにダジャレや親父ギャグの脱線があって、それで「あぶない系」の生徒と本気で喧嘩になったことが何度かある
但し手を出したのは先生の方で、それも先生が生徒をからかったのが原因だから先生の方が悪い。
齢だって14歳と50歳くらいだから祖父と孫みたいなもんだ
共産党の先駆け、野坂参三と横山やすしを併せたような先生だったが、私は、そのハチャメチャな姿と波長が合って好きだった。
歯に衣をかぶせないしゃべりは方言丸出し、なんか心地よかったが、好き嫌いが先生自身にも生徒からもあった個性的な先生だった、後日談がある
私が新潟市に修業に入ると、H先生が隣町で工場の夜警をしていることを知った、連絡してから、中学時代の友達で新潟大学に入学した友達と二人で訪ねて行った。 ずいぶん喜んでくれて、それからも何回か女友達(中学時代の同級生)も一緒に連れて行った。
それからまだ後日談があって、それから10年後くらい、女房殿の叔母さん夫婦が新潟市近郊に住んでいて、家族で一晩泊まりがけで遊びに行った
叔父さんは寺の長男だったが、大手地銀の支店長になった、酒が好きで「飲もう」となったが、「そうだ近くに同郷の人がいるから呼ぼう」となり
来たのがなんとH先生だった、こんな偶然があるものなのだ。
「おや!yottiinだねか! どしたんだ、なんでここにいるんだ」それはそのままお返ししたい気持ちだった。
叔父さんも二人の関係を知ってびっくり、お互いグデグデになるまで飲んで語った、その先生も亡くなった。
最期はA先生、良い先生と言うより大好きな先生だ、こちらは最年少で私が高校に入学した年に新潟大学を卒業したばかりの新米教師だった。
エキゾチックな顔立ちの私好みの先生で、英語教師だった
「美人すぎる市議」と評判になり、新潟市議から国会議員になり、その後「ダメ夫議員」と二人三脚でマスコミに登場している金子恵さん似
すごくまじめで学生時代は勉強しか眼中になかったんだろうな、と思うような純真無垢な先生だった。
もう英語の時間は授業にならなかった、普段は冷静な?私だが、この時間になると心がざわついて授業妨害ばかりしていた
カメラを持って行って写真を撮る、マドンナ先生のファンは私以外にもいてその子も写真を撮っていた)、テープレコーダーを机に隠して授業中の声を録音する、最期は席を立って騒いで気をひこうとする(ある意味、ストーカー)
ガキそのものであった、引っ込み思案が、この時間だけは積極性を発揮した
とうとう教室から追い出されて「図書館にいなさい」となった
放課後の図書館でマンツーマンでの対話、先生は涙声で「どうして私の授業で騒ぐのか」と言った
好きな子の気をひくために騒ぐ子供は居る、そんなこと言えるわけもない
中年男の遊び人風の先生が通りかかって「女を泣かせる色男」と冷やかしてさっさと出て行った。
それから私は英語の勉強をするようになった、教科書6ページ丸暗記して、いつも赤点だった英語が75点までアップした、得意になっていたら「90点とりなさい」と無常な声(ビートルズ英語はわかるのに、教科書英語がわからない)
卒業してから3年間くらいは年1通手紙と年賀状を出した、返事が来て嬉しかった、きれいな字だった。
結婚したと噂で聞いた、私より7歳上くらいだから、まだ80歳になっていない
元気でいるのだろう。