武田晴信は敵の調略をくじき、勢いのままに小笠原、木曽、伊奈を一挙に攻め滅ぼす機会であったが、三か所の手傷を負い、ここに越後より長尾景虎が攻め寄せれば心もとなしと、早々に甲州へ引き戻った。
そして手傷の養生の為、島の温泉に入浴して十余日の後に全快すると、八月八日には再び、信州川中島に出陣して、村上の残党らの領地を攻め立てて放火した
さらに敵地の稲を刈り取らせて、味方の城、砦へと運んだ。
そして越後の動静を探らせたところ、景虎が信州に出陣する気配がまったく見られないので、甲州に戻り、此度の塩尻峠の合戦の論功行賞をおこなった。
特に晴信の危地を救った、小山田平冶左衛門の働きは格別と、感状に太刀一振りを添えて与えた
この小山田は、小山田備中守の一族で、父を小山田平ニという
豪勇にして信虎の代には度々戦功をあげて覚えめでたくあったが、同じ組の士、藍田五郎大夫の家に行き、些細なことから口論となって刀を抜き合う事態にまでなってしまった
藍田の家来は主を助けて、小山田を取り囲み窮地なるとき、平冶左衛門、その時は十四歳で小太郎と名乗っていた
家にいたが、なにやら胸騒ぎがして落ち着かず、これは父上になにか危険が迫っているのではと思い、槍を引っ提げて、急ぎ藍田の家に飛び込めば、父の平ニは障子を後ろ盾にして、多勢に追い詰められていた
小太郎は咄嗟に、藍田五郎太夫の肘を一槍に突いて「小太郎、御向いに参りてそうろう」と大音声に叫ぶ
藍田の家士はこれに恐れて引き下がるところを、小山田父子は、追いかけて五人を切り倒し、危地を逃れて家に帰る。
その後、父が没して、小太郎は平冶左衛門と名乗り、此度塩尻峠にて大将の危地を救ったのも、父の時、同様に胸騒ぎを覚えて大将晴信の元に駆けつけて、大将の危急を救たのであった。
平冶左衛門は若年のころから諏訪明神を信じ奉わる奇特によるところであろう相川甚五兵衛という強勇の士は、この平冶左衛門の子である。
この頃、越後では長尾景虎が出陣の軍勢を集めて発向するばかりとなっていたが、塩尻峠で信州勢が武田勢によって粉砕されたと聞き、今更の進軍は意味なしとして信濃出陣を取りやめた
さりとて出陣の興奮窮まった軍勢をこのまま解散するわけにもいかず、念願であった越中攻へと方針を転換した。
天文十七年八月二十一日、越後春日山を進発した。
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