神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 50

2024年03月24日 09時29分10秒 | 甲越軍記
    小幡入道の死

時の流れは速く、武田晴信は二十歳になった。
正月十三日には恒例の軍議もとどこおりなく済んだ。

小幡日浄は晴信が幼い時から守役として仕え、片時も傍を離れず養育したのであった。
小幡の嫡子、織部正虎盛は武辺において武田家の三本の指に入る武者で、韮崎の戦の折も抜群の功を挙げたので、皆「さすがは小幡父子である」と称賛した。
ところが日浄は、この三年ほどの間、中風の病を患い床に伏している。
しかも日ごとに病は重くなり、晴信もこれを気にして近習に様子を探らせ、医師を送って看病させていたが、いよいよ最後も近いと思われるようになってきた。

晴信は、これを知って存命の間に対面して、せめて末期の一言も聞かんと僅かな供回りを連れて、小幡の屋敷に向かった。
早々に小幡虎盛が門外で平伏して待ち受け「愚老父、今や床から出ることもできずお出迎えできぬ御無礼をお許しあれ」と言えば、晴信は、そのまま家の中に入っていき、日浄の枕元に座した、しばらく会わぬうちに顔色は衰え、肌の肉も枯れ果てている
晴信は「汝。これまで何事もはばかることなく諫言を呈してくれた老漢であった、今この時にのぞんで申すことあれば忌憚なく申すがよい、汝、善句を残して死ぬるがよい、また心に叶わぬことあれば遠慮なく申すがよい」と言うと
日浄は、先ほどまで閉じたままの目を開くと、たちまち病床から起き上がり
「尊君の御入来、心魂に染み、ありがたきことであります
また善言を残して死せよとのお言葉、名君の御意と返す返すも喜ばしきことでありますが、酒に酩酊したような心のありさまですから、特に申し上げることもできませぬが、しかし会子の言葉に『鳥のまさに死なんとする時、その鳥の言、善なり』と申します、その上、某若年の頃より、老衰の今まで心中に比しておくことが出来ぬ性であります故、あえて申し上げます

御公、先代信虎公に比べても仁・義・智・勇すべてにおかれて優れておられます、ただ「任」の一事においては遥かに劣っております
任とは人に事を打ち任せる義であります、信虎君はまずは人の才を見立てて合戦ともなって、この人に任せれば最後まで任せました、これが任と云うことであります。
君は、たとえ任せることがあっても、常に「この者は失敗するのではないか」と御心をいつも痛める、その為に任せることが出来ず、何事も自分がやってしまう、これは大器のなさることではありません
凡そ天下の主を目指すとも、任のことできぬならば天下平定などとてもできませぬ」

「昔、漢の高祖皇帝(劉邦)は楚の項羽と戦い給う時、項羽の軍師に范増という者が在り、これを危惧する高祖の臣、張良は謀計を巡らし、彼の范増を取り除かねばこの者がある限り百戦百敗を免れずと思い、高祖の基にまかり出て
『当国の弁舌良き者を敵地に遣わし、楚の家臣たちに金銀を与え、范増、密かに漢に内通ありと言わせれば、元来猜疑心が強い項羽は范増を退けるやもしれませぬ、うまくいけば項羽が滅ぶのは必然であります』と上申した。

高祖はこの計を取り上げて、陳平という者に黄金四万両という大金を与えて楚へ遣わせた
陳平はこの金を賄賂として楚の臣や士に贈って流言を行わせた、果たして項羽は范増を疑い、楚から追い出した
その後、陳平は楚から戻って来たが、高祖は持たせた四万両について『どれだけ残ったか』などと問うこともしなかった、これこそ任ということであって、
四万両と言えば漢にとって大金であるが、一度任せたからには(私服したのではないか?)などのような少しの猜疑心すら持たないのは、まさにこれぞ元よりの大器のあかしなり、楚の項羽が滅んだのは、君もご存じの通りであります
今や諸国には智勇仁すぐれた諸侯が充満しているから、天下を手中にしたければ人に先駆けて行動の時であります、未だ定まらぬ天下、君、御手に天下を得ようと思いませぬか、一方にのみ心を寄せているうちに傍らから奪い去られるものである、もし君の御心定まったならば、『得ること難きは天下の権なり、再び得難きは時なり、時は失うべからず』この後は軍師の任ある人を訪ねたまえ、その人を得たならば何事もその人に任せ、天下を得るための策を練るがよろしい、某が君に残す言葉はこれ一つなり」と言って、眠る如く目を閉じた。

晴信は日浄の言葉にいたく感動して「汝の一言、予の心に貫けり、以後においてはこの善言必ず守る」と言って、手を握りしめた。
その夜、日浄は虎盛を枕元に呼び、細々と忠義の事を遺言して正月二十一日、齢六十一で永眠した。



   

最新の画像もっと見る

コメントを投稿