神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

ちょっと懐かしい顔に出会いました

2014年02月12日 21時39分32秒 | 地理

 

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ちょいとアラビア風にしゃれたほっかむり、なかなか男前の上に強そう
ほっかむりに積もった雪で水もしたたるいい男

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もう一人はこちら、ちょっと昆虫的な表情が面白い
ドライブの途中、信州中野市の中山晋平歌碑の小公園で休憩
近くを散策したときに見つけました、中山晋平記念館の近くです
農園で休業中の農機具、ちょっとレトロで目にとまりました
因みに歌碑は

「証城寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)」
中山晋平の作曲、野口雨情の作詞です
この歌碑は中野市長が書いたものでした、もちろんここには狸も
2匹いました、

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今年は北信は雪が少ないですが、中信は多いですね

 

 

 


今日は何の日「建国記念日」

2014年02月11日 18時02分55秒 | 日本史

 

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「今日は何の日」と30代の男子に聞きましたら「建国記念日」と正解が返ってきました
それで「それはどういう日」と更に聞いたら、もうダメです「???」
それでも彼はスマホか何かで調べたのでしょう「わかりましたカンブ天皇の日です」
「...」中国や朝鮮の歴史は後回しでも良いから、日本史だけは勉強しましょうね、受験や生活には関係ないかもしれないけれど
たしかに神話の時代の話ではあるけれど日本の始まりの「いわれ」くらいは知っておいて良いと思います、古事記などを参考にすれば、天の神様が高千穂の峰、人間界に下りてこられ(天孫降臨)、代を重ねて生まれたワカヌケミノノミコトが高千穂から筑紫(福岡)更に瀬戸内、河内と進み大和を目指したが次々に強敵が現れ、なかなか目的を達成できない、それでも兄弟の犠牲や困難の末、八咫烏、金鵄などの力を借りて高千穂を発って16年の戦の末、紀元前660年頃大和をついに平定し、日本の初めての天皇として即位、神武天皇が誕生したという、天皇は127歳で崩御されたと云われている。
中国4000年(5000年)とか考えれば、約2800年前のことだから、こうした侵攻する九州の勢力と守る畿内の勢力との戦争が口伝として残っていても不思議は無いだろう、魏志に出てくる卑弥呼の時代と数百年の違いだから、あったかもしれない(証拠は無いが歴史の流れとして何かはあったかもしれない)
天皇の生年が明らかな形で現れるのは、33代推古天皇からだと言うことです、現在の平成天皇陛下は第125代です。

 

 

 


今日のまかない

2014年02月10日 11時37分55秒 | 料理を作る・食べる


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板前が人参で細工物を作っていたのですが、あまりにも廃物が多いものですから、それを使って昼食のおかずを作ることにしました。
コンニャクは昨日の煮しめ用に買って使わなかったものを、長葱はアンコウ汁用に作ったのに、つかわなかったもの、この3点をそれぞれに下味をつけて最後に併せて盛りつけました。
材料は砂糖、醤油、塩、こしょう、善光寺の七味、ごま油、サラダ油、にんにく、ショウガ、酒、みりん、バター、味付け海苔、白ごま


瓢湖の白鳥

2014年02月06日 14時37分14秒 | 花鳥と昆虫・爬虫類・魚

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新潟市から会津若松に向かう国道49号線を南東に約20km行くと、阿賀野市水原に着く、ここには毎年5000羽前後の白鳥がシベリアから飛来する県内有数の湖、瓢湖(ひょうこ)がある、雪国ではスキー場以外では珍しい冬の観光地だ、観光バスで見物にくる団体もあって多くの人々で賑わう。
観光の場合、近くにこれも県内有数の温泉街「月岡温泉」で一泊することが多い。 楽しみは白鳥や、それ以上に多い色とりどりの鴨に餌をやることである、けたたましい声でいつも賑やかだ、この付近は阿賀野川ラインや同じく白鳥の飛来する福島潟、それに新潟競馬場、新潟市など遊びや観光のスポットも多い、また大小の温泉も豊富である。
新潟空港からも近く、交通の便も良い

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ガラケー

2014年02月05日 10時28分50秒 | 花鳥と昆虫・爬虫類・魚

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「まだガラケーですか スマホにしたらどうですか?」(余計なおせわだね!)
「ガラケー」などと言われると逆におれたちが「らくらくフォン使ってるの?」って同級生を年寄り扱いする自分の逆バージョンでダブって、どうにも気分が悪い。
先日70歳の先輩が「これからはガラケーが復活するんだ!」などと意味不明の言葉を自信満々に叫んだから、「ガラケーってどういう意味なんですか?」と問うてみた
「ああ~? 意味? 携帯のことだろ...それ以外は知らん!」それ以来、誰に聞いても明快な返事をもらえない、私の想像ではさっきの先輩のような性格を「がらっぱち」というから「がらっぱち」みたいな頑固者が持つ携帯だから「ガラケー?」 いずれにしろスマホ派が携帯派をあざ笑う語源に違いないと思った...そこで便利なネットで調べたら(なあ~んだ)
私はスマホを、「電話機能とカメラがついた携帯パソコン&ゲーム機」と思っているから、情報収集はやっぱり画面と情報量が多いパソコンが絶体だと信じているし、電話やメールだけなら携帯のほうが収納やバッテリー面で絶体使いやすいと考える...とはいえスマホが多数を占める現在はやはりおれたち携帯派は時代に取り残されているのだろうか、買い換えの時期になったけど次も携帯にするんだろうな...きっと。
それでガラケーの意味は「ガラパゴス諸島」の略で、孤立した島で独自の進化を遂げた(携帯)という意味で「日本特有の機能を持つ携帯」が正解らしい、だから携帯だけで無く「ガラスマ」という言葉もあるんだと、携帯とスマホを差別化したのではなく、欧米や韓国などと異なった日本の携帯文化を表しているようだ。

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信長 秀吉 家康 勝ち抜いててっぺんを獲れ!

2014年02月04日 14時43分23秒 | 戦国時代

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信長、秀吉、家康は同世代に育ち、しかも全員が愛知県生まれ、そしてこの3人のリレーによって戦国時代が終わり、日本は統一国家としての中央集権の形が完成して260年後の明治維新につながる。
よくぞこの時、日本史の英傑ベスト5に入る3人が顔を揃えたという奇跡、人類は戦時に天才的な人物が育つのではないかと思われる、平和時はいかに稼ぎ、いかに豊かに暮らすかが課題、法が生命財産を守る手段だが、戦時は命と領土を守り、さらにあわよくば領土拡大を企むことが価値観、そして生命財産を守るのは武力、規律はあっても法は存在しない、勝者が法であり敗者は財産を全て失い奴隷となる、命は勝者の気まぐれに任せるしか無い、人間の本性が丸出しになる時代それが戦時だ。
この3人は誰とどのように戦ったのか何を得たのか
 信長は3人の中でもっとも非情かつ残忍である、大虐殺をいくつか行っている、まずは叔父や実弟を権力争いで殺した、それから信長出世の一番の見せ場、桶狭間の戦で東海道最強の今川義元を殺し、天下とりダービーに名乗りを上げる、この時10倍の敵に立ち向かっての勝利、この戦で家康の運も開ける、今川の人質武将だった家康はこの敗戦で独立を果たし、今川から信長側に寝返る。
信長はようやく正真正銘の愛知県知事になった、岡崎市長に返り咲いた家康を支援し義兄弟となる、それから信長は岐阜県を目指す、ここには斎藤道三という煮ても焼いても食えぬ老獪な親父が岐阜県知事だ、これには敵対せず娘をもらって親戚になった、その後この親父は息子に殺されてしまう、仇討ち名目で信長はとうとう道三の息子を追っ払って岐阜県を手に入れる、このとき信長の家臣でまだ課長級の秀吉が活躍してデビューを飾る。
これで信長は愛知県、岐阜県の県知事を兼任、さらにうまいことを言って三重県も手に入れたうえ滋賀県北半分を領する浅井に妹を嫁がせて親戚になり、滋賀県南部の六角を攻撃して京都に一歩近づく。
さてここから信長の集団虐殺が始まる、まずは浅井のボスである福井県知事朝倉一族を殲滅、ついで反旗を翻した妹婿の浅井一族も殲滅、妹の息子を串刺しで殺し、浅井、朝倉の大将の頭蓋骨で造った金杯で酒を回しのみしたとか
それからは順不同だが比叡山の僧侶や妾など数万を皆殺し、伊勢長島の宗徒数万皆殺し、親の代からの老臣を追放して殺し、反旗を翻す家臣を次々誅殺、強く反抗する敵をだまし討ちしたり、家臣を疑って追放したことも何度もある、また敵将の妻となった叔母を逆さ張り付けで殺した、光秀に討たれる半年前くらいには甲府に攻め込み名刹恵林寺を名僧ともども焼き尽くし武田一族を殲滅した、この時点での信長の領土は西は岡山、鳥取、東は山梨、長野、群馬、北は富山、石川、福井までで、当面の敵は越後上杉(勝利目前)、広島毛利、四国長宗我部の3方面だった。

 秀吉は信長の配下として、できるだけ兵を殺さず勝とうとして気長な包囲作戦が得意だったがそのため鳥取城では飢えた人が死んだ仲間の肉を食べるような干し殺し作戦も行った、信長の死後は織田家重臣の跡目争いで電光石火の戦いで明智光秀、柴田勝家、滝川一益を殺し、信長の三男信孝も殺した、しかしその後は小田原攻めなど貫禄の戦争を続けてとうとう日本統一を果たした、しかし息子が生まれてから人が変わり晩年は狂った醜い権力者になり、朝鮮に二度にわたり侵略戦争を行ったり、姉の息子(関白)とその妾、子供数十人を公開処刑、茶道の師匠の千利休を自害させたりと安らかな死を迎えることができない汚点を残した。

 家康はどうか、この苦労人の単独の戦争は信長が死んだあとからが本番だ、早くに屈強の武田遺臣を取り込み難なく甲州を占拠、織田の後継者争いに加わって秀吉と睨み合ったが勝負は引き分け、それからは秀吉を立てたがその死後にいよいよ天下取りに動き出す、関ヶ原で西軍を破り、また14年辛抱してついに秀吉の息子秀頼と生母淀君を殺害して江戸時代の基礎を固めた。
ずるがしこい狸親父などと言われるが、家康の戦争には信長や秀吉のむごさは無い、ただ淡々とするべき戦争をするだけで、勝つための当然のことを当然のように事務的にやっているだけという感じがする、まさに剛直素朴な三河武士の面目躍如、それに敗れた敵は家康が卑怯だから敗れたのでは無く、家康ほどの能力もなく、努力もしなかったから負けたのだ、写経を続け、毒を混ぜた薬を飲んで免疫をつけたり、健康を保つ努力を続け75年の長生きをしてとうとう天下を手にした。
太原雪齋に学問教養と兵法を学び、信長の天才カリスマを間近で感じ、偉大なる武田信玄に実戦を学び、無欲正義の人、謙信から人の道を悟り、天才軍略家、秀吉をライバルに育った家康は、戦国天才武将の全てを吸収合体した戦国集大成の人物だったのだろう。        
                                  おしまい


信長 秀吉 家康の旅行

2014年02月03日 16時41分25秒 | 戦国時代

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秀吉の凄いのは出世レベルですね、名も無い尾張の百姓兼足軽の倅に生まれて、これが江戸時代なら多分一生水呑み百姓で人生が終わっただろうけど、ラッキーな事に手柄次第で出世できた戦国時代、結局ほぼ最下層から日本一の男になったのですから凄いですね、駅伝で言ったら30位でたすきをもらって29人抜きして優勝みたいなもの、しかも20キロ区間でトップと10キロも差がついていたにも関わらず抜いたくらいの奇跡!
因みに信長は愛知県の副知事の息子くらい、家康は岡崎市長の息子くらいかな?
やっぱり秀吉の出世率はダントツですね...すご~い
それから私たちは自由に世界旅行でも出来る(稼ぎ次第だけど)時代に生きてますが、彼らはどこまで行ったのかな?って疑問が
武田信玄は静岡を制し、家康を襲って浜松まで行ってますが奥さんの故郷京都には行けなかったんです、北は長野市まできてますけど、そこまでですかね
それに比べれば謙信さんは戦争で信州や富山、遠く福井までさらに関東一円はしょっちゅう、それから鎌倉、小田原、関東一円の他、戦争目的で無く京都や大阪、堺あたりまで行ったみたいで、しかも京都には2回も行っている、敵ばかりの時代によくぞ行けましたね、それも1回はたいした家来も連れずに行ったらしいし、戦争をするために行ったのでは無く天皇様に拝謁するために600kmの道のりを船に乗ったり、陸路を進んだりして行ったんですね、信玄さんが不可能だったのになぜ謙信さんは安全かつ長期滞在して天皇様にもお会いできて(できたんでしょ?)不思議な人ですよね謙信さんは、義の人というのが謙信さんの人柄、敵さえも謙信には憎しみをもたなかったのではないかと思うほど、自分を頼ってくる弱者を助け自分の欲望を持たなかった人みたいです。
さて3人の中で一番年上の信長は大阪、堺は当然ですがそこより西はどうなんでしょう、ほとんど秀吉に任せてましたから、東は武田征伐で甲府までは行ったみたいですね、あとは伊勢とか岐阜とか、そうそう福井石川県境の手取川で謙信に追いかけ回されて敗走したという話も(そこにはいなかった確率のほうが高い)朝倉攻めで福井市は行ったようですが。信長さんの旅行?はこんなところかな
家康は秀吉の朝鮮攻撃の時、九州名護屋城まで同行してますよね確か...
それから甲府には間違いなく行っているし、東京は第二の故郷で日本一の足がかり、関東周辺は見て歩いたかもしれませんね、上杉攻めでは栃木の小山まで来てましたね、もう少しで会津若松まで行けたんですが
それから福井の金ヶ崎では秀吉、信長揃っていましたね、で家康はこのあたりまでかな、でも九州見物しましたね。
いよいよ秀吉ですが姫路に別荘をもらってそこから岡山、広島目指して居たときに信長が殺されてスピードオーバーで大阪までぶっとばし光秀を討ち果たしたのですが、それから勝家を賤ヶ岳で破ったのもこれもスピード違反の猛突進、まさに暴走族のはしりですね 当時、馬で遠乗りするのは現代のドライブなんでしょうね


で南は島津攻めで九州福岡、大分くらいまで行ったのでしょうか、四国征伐でも香川県くらいまで行ったかも、北陸は新潟県の西、親不知の勝山城で謙信の養子上杉景勝と和平会談したとか、東は小田原攻めが一番遠くでしょうかね
海外となれば秀吉は実際に朝鮮半島の侵略を実行して家臣は北朝鮮まで攻め込んでいますし、本人は朝鮮は通過して中国を占領して天皇をお迎えして、狭い日本は甥に譲ると言ったとか歴史小説によくでてきますよね、
また信長が生きながらえたら、強力な海軍を作って南蛮貿易に出かけ、フィリピン沖でスペインの無敵艦隊と大海戦をしたのでは無いかという人も居ますね、スケールが大きい秀吉、革新的な世界視野を持っていた信長、それに対し鎖国と質素倹約を貫いた家康、もっとも秀吉時代に途切れた朝鮮との国交を回復したのは家康と言われていますが
三者三様面白いですね。
             *内容の間違いはご容赦下さい


信長、秀吉、家康

2014年02月02日 19時13分12秒 | 戦国時代

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大原三千院には5年連続で紅葉の頃に行っていたのですが、帰り道に琵琶湖大橋を渡って東岸に出て、ゆっくりと近江の景色でも眺めながらと走っていたら、突然「安土城趾」の足許に出て驚いたのでした、思いもよらぬ事で感激して是非見学と考えたのですが、「こんなところ見なくてもいいよ」と言う、いかにも面倒そうな女房の一言であきらめたのでした...が
安土城は信長が造った最後の城、信長の死とともに燃え尽きた儚い城
信長の先輩で強敵だった信玄や謙信は拠点を変えずに何度も本拠地から出陣したのに比べ、信長は名古屋、小牧山、岐阜、京、安土と拠点を移動しながら版図を広げていきました。
そして北陸、中国、伊勢に支店を開設して、下手な大名を遙かに上回る優秀な支店長を配置してそれぞれに権力を与えて競わせた。
秀吉は有能な支店長の一人、家康は信長の関連企業の社長、「企業は人なり」というが信長は日本の歴史史上、最高の人使いの天才、さすがの秀吉も家康も信長の幹部でしかなかったのですから...すごいなあ...信長を思うと「人間には無限の力が秘められているんだなあ」と思いますね。
信長の現代版の人物が今いたら、どんな内政や外交をするのでしょうか?


結局、酒談義になってしまいました

2014年02月01日 22時11分34秒 | ライフスタイル

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今日は知り合いの女性が3人うちの店でワイン一本開けて生ビール1杯ずつ、アンコウの大鍋肴に飲んでいったんですけど、「日本酒の魅力について」ちょっと彼女らにお勧めしました。
近日、有志で地酒を楽しむ会を企画しているものですから、うちの店に来店されるお酒好きにはどんどん進めているわけです、昨年は115名参加して下さったので今年も同じくらいはと手分けしてPRしているのです。
「熱燗と冷酒はどっちが美味いか」とか「ビールを飲む女性より、日本酒を飲む女性の方が魅力的」だとか、帰りがけの酒好きのお客様を捕まえては酒談義、けっこう自分勝手で一方的な解釈をしてしまうのですが、「酒は薬か毒薬か、それが問題だ」「晩酌は女房泣かせ、寝酒は体があたたまってすぐ眠れる」「飲んだら乗るな、飲んだら代行、代行あるから飲んじゃおうか」なんて事も結構あって、去年の今頃初対面のお医者様とたまたま隣席になり、1970年頃の洋楽談義で盛り上がって意気投合、2次会3次会までご一緒するとは...今日その先生にお会いできたので、同じ会に見えられるのか聞いたら、「もちろん!」と迫力満々のお返事でした、この先生が実は連チャンになること知っているんです、それで聞いてみたのですが、これでまた先生と楽しく飲めるし、多分2次会に行くことになるんでしょうね。
ついでに新酒の話もしておきましたが、これにみえられれば1週間3日以上続くことになりますね。 夏になればビールになるので「今だけ今だけ」と言っては日本酒を飲んでいるんです。