父の家に行かないと仏壇はないので、最近は1日おきとか、3日間とかおつとめをさぼることがままある
今朝は新しいお花を買って行ってきた。 涼しくなったせいか、それとも教えて頂いた茎を湯につける方法のせいか、前の花も枯れないでいる
南無阿弥陀仏と声にならぬ声を出して10回ほど唱えたら、あとは瞑想する
瞑想というより心を、「大いなる善の唯一仏」に預ける
裁判とは、人が人を裁くという人間が作り出した愚かしシステムで、その始まりは富むものが財産を守るための自衛で作り出したシステムだ
そこには不平等が必ず起こる、映画「それでも僕はやっていない」は、それを告発するものだった。
それはそれとして、私にも様々な煩悩があり、私を誤解する人もいれば、過大評価する人もいる
自分の中でも、自分を庇う自分がいたり、自分を叱る自分もいる、自分自身をずるいと思うこともあれば、誰よりも正直者だと思うこともある
人の評価は裁判同様、人がするもので、間違いだらけの評価が山積みになっている
そして自分自身も、正しい自分への評価ができているかどうかは疑問だ
それだからこそ、私は仏様の前で無心になって、私のすべてをさらけ出す
自分の想いや言い訳、それらが出てこないように、いや出てこないようにという感情さえも捨てて一瞬の無を送る
そして「大いなる善の唯一仏」に評価をゆだねるのだ
仏壇の引き出しを開けてみた、男物、女物のお数珠がいくつか出てきた
さらに下を探していたら、封筒が出てきた、その中には父が育った家の歴史と、もう一枚あった
もう一枚は、すべて戒名と没年月日が書いてある
父の両親は、お位牌に戒名があるから知っていたが、その紙には父を育ててくれた幕末生まれの祖祖母、祖母、祖母のつれ合い、
その二人の12歳で水死した子供、父と仲良しだった東京大空襲で亡くなった浅草の叔母さんの5人だった
初めて見た、これを見て、伝えることは伝えるべきだと思った、今それをできるのはわが一族では私だけだ
我が家も長男、次男ともに結婚していない、我が家の家系が繋がっていく可能性があるのは弟の家だけだ
まるで天皇家のように綱渡り的な家系になっている
弟の長男が結婚して、長女も生まれた、しかし近年は婿さんをもらって家を継ぐなどという昔風は期待できない
できれば我が家の同姓を受け継ぐ男子が生まれてくれればという他力本願の無責任な思いを持っている
こんな時代になって。家名だの先祖だの言うのはナンセンスと言われそうだが、日本の長い歴史は自分の血統に誇りをもって励んできたのは事実だ
我が家には誇る物などないし、父も少しも家系など興味を持たなかった、しかし晩年になって、故郷と祖先を知りたいという心が出てきた
それで私が、あれこれ調べて200年前まで明らかにすることができたのだ
いつか何世代のちに私のような心持の子孫が出るやもしれぬ、だから彼への伝えるべきものを残しておきたいのだ。