こんにちは、小学生時代から戦記物の本を読み込んでいた石井伸之です。
本日は午後3時に商工会青年部でお世話になっている歯科医の先生に紹介していただき、国分寺の楠井市議と共に太平洋戦争で航空母艦「瑞鶴」を始めとする艦船に乗艦されていた方の話を聞かせていただきました。
その方は、現在91歳となり、海軍兵学校を71期で卒業され、ガダルカナル島撤退作戦から従軍されたそうです。
既にその時期から戦況は悪化しており、駆逐艦に乗り込んで夜間の撤退や他の島へ輸送するというのは厳しい任務であると言われておりました。
それから幾つかの船を乗り継ぎ、真珠湾作戦から機動部隊の中核として活躍していた航空母艦「瑞鶴」で対空砲を指揮する防空指揮官として乗艦されます。
その当時、連合艦隊旗艦であった戦艦「大和」の優雅な姿を「大和ホテル」同型艦の戦艦「武蔵」を「武蔵屋旅館」と言い、乗艦された「瑞鶴」は「瑞鶴アパート」と言っていたそうです。
また、駆逐艦などの小さな船になるほど、食事は粗末になり、最も辛い乗艦は潜水艦と言われておりました。
そして、空母瑞鶴がレイテ沖海戦で沈没した際も乗艦し、その時は艦橋上の防空指揮所を指揮をされていたそうです。
それでも防空指揮官というのは、最初に「打てーー」の号令をかけた後に、することは何も無く、ただひたすら戦況を見守るだけと言われていました。
このレイテ沖海戦において空母瑞鶴を始めとする小沢艦隊は、栗田艦隊がフィリピン諸島に上陸する米軍を艦砲射撃で撃退する為に、アメリカ機動部隊を引き付ける囮艦隊であり、敵艦隊に発見されることを目的としたものだったそうです。
幸運艦と呼ばれていた瑞鶴も昭和19年10月25日14時20分頃、アメリカ機動部隊の猛攻には耐えられず、右舷からゆっくりと沈没したと言われました。
辺り一面重油の海は、とにかく目が痛く、拭っても拭っても取れないと言われ、駆逐艦に助けられるまで辛い時間だったそうです。
その後は、駆逐艦の水雷長、紀伊地域の海防隊に配置され、終戦となります。
日本を守る為、戦っていただいた方への感謝の気持ちを忘れないと共に、二度と戦争を起こさないための外交努力が重要ではないでしょうか?
その方も言われておりましたが、ただ一つ気になるのは、終戦後に日本が戦争に突入しなければならなかった当時の事情を鑑みず、ただ「日本が悪かった」一点張りの論調に支配されていたことだそうです。
当時の世界情勢を始めとして、どうして日本が戦争という判断に至ったのか?という部分について、客観的かつ冷静に分析することが重要だと思います。
こういった当時の事をする方に、話を聞けるというのは、貴重な経験でした。紹介していただいた歯科医の先生には心から感謝したいところです。
本日は午後3時に商工会青年部でお世話になっている歯科医の先生に紹介していただき、国分寺の楠井市議と共に太平洋戦争で航空母艦「瑞鶴」を始めとする艦船に乗艦されていた方の話を聞かせていただきました。
その方は、現在91歳となり、海軍兵学校を71期で卒業され、ガダルカナル島撤退作戦から従軍されたそうです。
既にその時期から戦況は悪化しており、駆逐艦に乗り込んで夜間の撤退や他の島へ輸送するというのは厳しい任務であると言われておりました。
それから幾つかの船を乗り継ぎ、真珠湾作戦から機動部隊の中核として活躍していた航空母艦「瑞鶴」で対空砲を指揮する防空指揮官として乗艦されます。
その当時、連合艦隊旗艦であった戦艦「大和」の優雅な姿を「大和ホテル」同型艦の戦艦「武蔵」を「武蔵屋旅館」と言い、乗艦された「瑞鶴」は「瑞鶴アパート」と言っていたそうです。
また、駆逐艦などの小さな船になるほど、食事は粗末になり、最も辛い乗艦は潜水艦と言われておりました。
そして、空母瑞鶴がレイテ沖海戦で沈没した際も乗艦し、その時は艦橋上の防空指揮所を指揮をされていたそうです。
それでも防空指揮官というのは、最初に「打てーー」の号令をかけた後に、することは何も無く、ただひたすら戦況を見守るだけと言われていました。
このレイテ沖海戦において空母瑞鶴を始めとする小沢艦隊は、栗田艦隊がフィリピン諸島に上陸する米軍を艦砲射撃で撃退する為に、アメリカ機動部隊を引き付ける囮艦隊であり、敵艦隊に発見されることを目的としたものだったそうです。
幸運艦と呼ばれていた瑞鶴も昭和19年10月25日14時20分頃、アメリカ機動部隊の猛攻には耐えられず、右舷からゆっくりと沈没したと言われました。
辺り一面重油の海は、とにかく目が痛く、拭っても拭っても取れないと言われ、駆逐艦に助けられるまで辛い時間だったそうです。
その後は、駆逐艦の水雷長、紀伊地域の海防隊に配置され、終戦となります。
日本を守る為、戦っていただいた方への感謝の気持ちを忘れないと共に、二度と戦争を起こさないための外交努力が重要ではないでしょうか?
その方も言われておりましたが、ただ一つ気になるのは、終戦後に日本が戦争に突入しなければならなかった当時の事情を鑑みず、ただ「日本が悪かった」一点張りの論調に支配されていたことだそうです。
当時の世界情勢を始めとして、どうして日本が戦争という判断に至ったのか?という部分について、客観的かつ冷静に分析することが重要だと思います。
こういった当時の事をする方に、話を聞けるというのは、貴重な経験でした。紹介していただいた歯科医の先生には心から感謝したいところです。