こんにちは、国立市内の小中学校を卒業している石井伸之です。
本日は午前10時30分頃より、国立市立第五小学校創立50周年記念式典が行われます。
私も市議会議員の一人として、案内をいただき出席しました。
どういった式典が行われるのか楽しみであると共に、本校卒業生として特別講演を行うプロデューサーの「おちまさと」氏がどういった話をされるのか楽しみです。
開会前には、記念アトラクションとして、六年生による「八木節」の披露が行われました。
「タッ、タッ、タッタカタ、タッタカタ・・・・」という盆踊りでお馴染みのテンポで太鼓が打ち鳴らされると、体が自然に動きそうになります。
黄色い御揃いの半被で演奏が披露され、体育館が割れんばかりの拍手が巻き起こりました。
開式の辞から、国歌斉唱、学校長式辞と続き、来賓挨拶となります。
佐藤市長を始めとする来賓からは、開校50年の歴史というが、その歴史は一人一人の努力によって作られている事、その日本の歴史を支えているのは皆さん一人一人との自覚を持ってほしいということを伝えていました。
記念品贈呈、来賓紹介などが終わり、無事式典が閉会した後に、おちまさとプロデューサーによる記念講演会に入ります。
講演テーマは「君たちに贈るメッセージ」です。
おちまさと氏は、昭和40年生まれで第五小学校と同じ50歳と言われていました。
プロデューサーという仕事は、アイデアを形とする仕事で「~な番組があれば」とか「~なことがあれば」というように、ドラえもんのような仕事だそうです。
何故、この仕事を目指したのか?
それは、小学校における学芸会で話をまとめて、それを行ったところ先生から褒められたということによります。
また、4年生の時に旭通りのスカラ座(今はありません)でジョーズを見た時に、スピルバーグ監督が26歳だったそうです。
すると、16年後には自分も26歳となり同じことが出来ると考え進路を決めたと言われました。
そのまま順風満帆かと思いましたが、6年生の時に思わぬ挫折があったそうです。
自信満々で学芸会のシナリオを書き、実際に行ったそうですが、これがまるで駄目。
先生方は「良くできた」と、褒められたそうですが、本人としては忸怩たる思いだったそうです。
つまり、失敗でした。
物事について、失敗から入ったことは後々にとっては良かったと言われていました。
一時は成功しても失敗することが殆どということに気が付きます。
野球でも打率3割、つまりは30%の成功が素晴らしい事であって、残り70%の失敗は気にしません。
それと同じで、失敗を気にせず、失敗を恐れず、チャンスと感じたら掴むことが大切と言われました。
そして、チャンスがたまにやって来る、しかし、チャンスは決して貯金できないという言葉が、私の心の芯を捉えられました。
17年前に会社の同期が「石井は議員の仕事に興味があると言っていたし、その仕事に向いていると思うから、とある人に会って見ないか?」
と言われ、東日本ハウスや大江戸温泉物語、銀河高原ビールの創業者中村功氏に会うことにより、政治家としての人生が始まりました。
また、人生には楽しい事と辛いことが交互にやって来る、辛い時に自分の想いを書くと解放されるそうです。
確かに、辛い事でも、このブログにその時の様子を書くと、その辛い想いが消える感じがします。
人は必ず最後は死ぬという言葉にも関連付けていたことから、一時辛いことがあっても、絶対自殺してはいけないというメッセージが込められていたのではないでしょうか?
それと、おちまさと氏は五小へサッカーボールを寄付していただきました。
何故寄付したのかというと、おちまさと氏が在学中にもサッカーボールを寄付していただいた方がいたそうです。
そこで、在校生へ大人になったら「五小へサッカーボールを寄付するように」という一言に笑いがもれました。
最後に「50年後100歳になって再び、5小100周年記念の時に記念講演をしたい」という一言で講演を締めくくられました。
15分程度の短い講演会でしたが、人生で最も大切な部分を凝縮して伝えていただいたのではないでしょうか?
素晴らしい講演をしていただいた、おちまさと氏に心から感謝したいと思います。
また、おちさまと氏に講演を依頼していただいた方に対しても心から感謝いたします。
「人は人との出会いでしか変われない」という言葉があるように、素晴らしい出会いが人生をより良い方向へ導いてくれると感じた今日の講演会でした。
本日は午前10時30分頃より、国立市立第五小学校創立50周年記念式典が行われます。
私も市議会議員の一人として、案内をいただき出席しました。
どういった式典が行われるのか楽しみであると共に、本校卒業生として特別講演を行うプロデューサーの「おちまさと」氏がどういった話をされるのか楽しみです。
開会前には、記念アトラクションとして、六年生による「八木節」の披露が行われました。
「タッ、タッ、タッタカタ、タッタカタ・・・・」という盆踊りでお馴染みのテンポで太鼓が打ち鳴らされると、体が自然に動きそうになります。
黄色い御揃いの半被で演奏が披露され、体育館が割れんばかりの拍手が巻き起こりました。
開式の辞から、国歌斉唱、学校長式辞と続き、来賓挨拶となります。
佐藤市長を始めとする来賓からは、開校50年の歴史というが、その歴史は一人一人の努力によって作られている事、その日本の歴史を支えているのは皆さん一人一人との自覚を持ってほしいということを伝えていました。
記念品贈呈、来賓紹介などが終わり、無事式典が閉会した後に、おちまさとプロデューサーによる記念講演会に入ります。
講演テーマは「君たちに贈るメッセージ」です。
おちまさと氏は、昭和40年生まれで第五小学校と同じ50歳と言われていました。
プロデューサーという仕事は、アイデアを形とする仕事で「~な番組があれば」とか「~なことがあれば」というように、ドラえもんのような仕事だそうです。
何故、この仕事を目指したのか?
それは、小学校における学芸会で話をまとめて、それを行ったところ先生から褒められたということによります。
また、4年生の時に旭通りのスカラ座(今はありません)でジョーズを見た時に、スピルバーグ監督が26歳だったそうです。
すると、16年後には自分も26歳となり同じことが出来ると考え進路を決めたと言われました。
そのまま順風満帆かと思いましたが、6年生の時に思わぬ挫折があったそうです。
自信満々で学芸会のシナリオを書き、実際に行ったそうですが、これがまるで駄目。
先生方は「良くできた」と、褒められたそうですが、本人としては忸怩たる思いだったそうです。
つまり、失敗でした。
物事について、失敗から入ったことは後々にとっては良かったと言われていました。
一時は成功しても失敗することが殆どということに気が付きます。
野球でも打率3割、つまりは30%の成功が素晴らしい事であって、残り70%の失敗は気にしません。
それと同じで、失敗を気にせず、失敗を恐れず、チャンスと感じたら掴むことが大切と言われました。
そして、チャンスがたまにやって来る、しかし、チャンスは決して貯金できないという言葉が、私の心の芯を捉えられました。
17年前に会社の同期が「石井は議員の仕事に興味があると言っていたし、その仕事に向いていると思うから、とある人に会って見ないか?」
と言われ、東日本ハウスや大江戸温泉物語、銀河高原ビールの創業者中村功氏に会うことにより、政治家としての人生が始まりました。
また、人生には楽しい事と辛いことが交互にやって来る、辛い時に自分の想いを書くと解放されるそうです。
確かに、辛い事でも、このブログにその時の様子を書くと、その辛い想いが消える感じがします。
人は必ず最後は死ぬという言葉にも関連付けていたことから、一時辛いことがあっても、絶対自殺してはいけないというメッセージが込められていたのではないでしょうか?
それと、おちまさと氏は五小へサッカーボールを寄付していただきました。
何故寄付したのかというと、おちまさと氏が在学中にもサッカーボールを寄付していただいた方がいたそうです。
そこで、在校生へ大人になったら「五小へサッカーボールを寄付するように」という一言に笑いがもれました。
最後に「50年後100歳になって再び、5小100周年記念の時に記念講演をしたい」という一言で講演を締めくくられました。
15分程度の短い講演会でしたが、人生で最も大切な部分を凝縮して伝えていただいたのではないでしょうか?
素晴らしい講演をしていただいた、おちまさと氏に心から感謝したいと思います。
また、おちさまと氏に講演を依頼していただいた方に対しても心から感謝いたします。
「人は人との出会いでしか変われない」という言葉があるように、素晴らしい出会いが人生をより良い方向へ導いてくれると感じた今日の講演会でした。