アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリング、コンサルティングを行っています。
アドラー心理学による勇気づけ一筋40年 「勇気の伝道師」   ヒューマン・ギルド岩井俊憲の公式ブログ



おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

アドラーの本を紹介し始めながら、ふと疑念が生じました。このブログの読者には、アドラー心理学をすでに学んでいる人もいれば、まったく学んでいない人もいるはずです。

そこで、道案内のつもりで、アドラー心理学の基本的な考え方を解説しておこうと考えたのです。

より平易にアドラー心理学の全体像を書物で学びたい方は、是非、次の3冊くらいは読んでおかれることをお勧めします。

『アドラー心理学教科書』(野田俊作監修、ヒューマン・ギルド出版部、2,000円+税、写真)
『アドラー心理学への招待』(アレックス・L・チユー著、岡野守也訳、金子書房、1,800円+税)
『アドラー心理学入門』(ロバート・W・ランディン著、前田憲一訳、一光社、1,500円+税、写真)

  

さて、道案内としてアドラー心理学の基本的な考え方(基本前提)を示します。

『アルフレッド・アドラーの個人心理学』(“The Individual Psychology of Alfred Adler”、1956、写真)の編著者ハイツ・L・アンスバッハーとロウェナ・R・アンスバッハーは、「アドラー心理学(個人心理学)の基本前提」を次の12にまとめています。



『人生の意味の心理学』(A.アドラー著、高尾利数訳、春秋社)の「訳者あとがき」で訳者が『アルフレッド・アドラーの個人心理学』をもとにしたアドラー心理学の基本的な考え方として訳して紹介していますが、ここでは訳文を参考にしながらも私が少々手を加えています。
コメントを加えずに、そのまま掲載します。

1.全ての人間の背後には、一つの根本的な、そしてダイナミックな力がある。その力はマイナスと感じられた状況からプラスの状況へ、劣等感から優越・完全・全体性へ向かう努力である。

2.その努力は、その独特な方向を、各個人に固有な目標あるいは自己理想から受け取る。目標ないし自己理想は、生物学的および環境上の諸要因に影響されるが、究極的には、各個人の創造物である。その目標ないし自己理想は、理想であるがゆえに虚構(fiction)である。

3.当の個人は目標をただ「ただ漠然と描いている」だけである。ということは、彼は目標をほとんど知らず、理解していないということを意味する。「無意識とは、個人の目標の理解されていない部分のことである」というのがアドラーの無意識の定義である。

4.目標は、最終的原因になるし、また、究極的な独立した変数にもなる。目標が個人を理解するための鍵を提供するかぎり、目標は、心理学者にとって有効な仮説である。

5.すべての心理的過程は、目標の見地からすれば、最初からフィナーレを想定しながら構想されるドラマのように一貫した体系を形成する。この一貫したパーソナリティーの構造を、アドラーは「ライフ・スタイル」と呼ぶ。ライフ・スタイルは、非常に初期の段階で確立され、その時からずっと、各個人の生活全体において決定的な役割を果たしていくのである。後の一見したところ全く矛盾したような行動も、同じ目標を追求するための違った手段を採用したことを意味するにすぎない。

6.種々の衝動だとか、意識と無意識の対照だとかいう、一見明瞭なすべての心理学的カテゴリーは、統一された関係体系の諸局面にすぎず、決して個々の実体や資質を代表するものではない。

7.生物学的因子だとか、過去の個人史だとかいうすべての客観的決定因子は、目標と関連している。すなわち、すべての客観的決定因子は、直接的原因として機能するのでなく、ただ可能性を提供するだけである。各個人は、すべての客観的因子を自分のライフ・スタイルと一致させて使用する。「それらの重要性と効果は、単に媒介的な、いわば心理的代謝作用(メタボリズム)においてのみ発達させられるのである」

8.個人が自分自身について、また世界について持つ見解、彼の「統覚体系」、彼の解釈はすべて、彼のライフ・スタイルの諸局面であり、すべての心理的過程に影響を与える。「万物は、個人の見解次第である」(Omnia ex opinione suspensa sunt)というのが、アドラーが1912年に著した個人心理学の本(『神経質性格について』)のモットーであった。

9.個人は、その社会的状況から隔離しては考えられない。「個人心理学は、個人を、社会的な関連のなかにいるものとして見る。孤立した人間として見ることを拒否する」のである。

10.一定の衝動の充足を含めて、すべての重要な人生の問題は、社会的な問題になる。すべての価値は、社会的価値になる。

11.個人の社会化は、抑圧を犠牲にして達成されるのではなく、生得的な人間の能力-それは発達させられる必要性があるものであるが-によってなされるものである。アドラーが、「社会感情」とか「共同体感覚」とか呼ぶものは、この能力のことである。個人は、社会的状況のなかに根づいているので、共同体感覚は、彼の適応にとって決定的となる。

12.適応不能ということは、増大する劣等感、未発達の共同体感覚、個人的優越という誇張された非協力目標という特徴を持っている。したがって諸問題は、課題中心的な「共通感覚」(common sense)というやり方によってよりも、自己中心的な「私的感覚」(private sense)というやり方によって解決される。神経症者においては、これは失敗したという経験に導く。なぜなら彼は、彼の行動の社会的妥当性を未だ彼の究極的規範として受け入れているからである。他方、精神病者の場合には、客観的には、つまり共通感覚の目から見れば、明らかに人生において失敗したということなのであるが、失敗という経験は受け取られない。なぜなら彼は、社会的妥当性という規範を受け入れていないからである。

<お目休めコーナー> 自宅近くのお寺の牡丹(1)

 



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