見もの・読みもの日記

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普遍を取り戻す/逆接の民主主義(大澤真幸)

2008-04-29 23:58:10 | 読んだもの(書籍)
○大澤真幸『逆接の民主主義:格闘する思想』(角川oneテーマ21) 角川書店 2008.4

 「われわれは、一方で、ユートピアを避けなくてはならず、他方では、ユートピアを必要ともしている」という一文で始まる「まえがき」を読んで、最初は、どんな話が始まるやら、と思って首をひねった。読み終えて、この一文に戻ると、腑に落ちるものがある。

 各章の標題となっている著者の主張は、「北朝鮮を民主化する」「自衛隊を解体する」「(周辺諸国との)歴史問題を解決する」など、絶望的に不可能に見える命題ばかりだ。これがユートピアである。しかし、このユートピアは「逃避の場」ではない。われわれは「現実的」「不可避的」な選択(=グローバル資本主義)が、根本的な困難を伴っていることを半ば無意識に理解している。それゆえ、一見、荒唐無稽に見える「ユートピア」(普遍的な構想の建て直し)こそ、われわれが真に必要としている「オールタナティヴ」なのではないか。著者は、そのように、われわれを勇気づけて、各論に進む。

 たとえば「北朝鮮を民主化する」。まず、今日の国際社会の構図がハーバーマスとデリダの対立に象徴されることを確認する。他者との対話を重視するハーバーマス(ヨーロッパ)に対して、対話のテーブルに着かない「熊」の存在を前提とするデリダ(アメリカ)。しかし、25年前のヨーロッパには、現在の北朝鮮と似たような国家がいくつも存在した。北朝鮮の民主化は夢物語ではない。そうではなく、北朝鮮のような国家が現に存在していることこそ、不可能な夢なのだ。それゆえ、われわれのなすべきことは、北朝鮮の人々に対して「お前は既に死んでいる」と知らしめることである。

 著者は冗談を提案しているのではない。『裸の王様』で、任意の個人は、誰もが、王様が裸であることを知っている。しかし、同時に彼らは「他の皆は、王様が裸であることを知らない」と信じている。この認知を「第三者の審級」という。では、「第三者の審級」の転換は、どんなときに起きるのか。著者は、歴史的な実例として、ベルリンの壁崩壊の端緒となった「汎ヨーロッパ・ピクニック」を紹介する。1989年8月、ハンガリーとオーストリアの国境を開放し、東ドイツ市民を、一挙に西側に亡命させたプロジェクトである。この大量亡命の成功が、東ドイツ国内の民主化運動を引き起こした。

 このとき、民主化グループによって撮影された、印象的なシーンがある。国境を走り抜けようとした女性が、ゲート直前で赤ちゃんを落としてしまう。そこに近づいてきた警備兵は、赤ちゃんを抱き上げ、女性に手渡す。著者は、東ドイツ体制に関する「第三者の審級」が崩壊した瞬間をピンポイントで絞っていけば、まさにこのときではなかったか、という。これは感銘深いエピソードである。何か「超越的なもの」が、無名の兵士の何気ない行動を借りて現れたように思われて、私は、ちょっと敬虔な気持ちを感じた。

 つまり、北朝鮮の現体制に「死」を宣告するために必要なのは、まず日本が、北朝鮮難民を、何千人でも何万人でも受け入れる覚悟を示すことだ。そのことによって初めて、北朝鮮の内部に、自律的な民主化運動が起こるはずである。

 たぶん多くの日本人は、著者の提案を、受け入れがたい暴論と感じることだろう。けれど、私は、あながち荒唐無稽とは思わなかった。むしろ、東欧の民主化という体験に裏打ちされている点でも、本書の中でいちばん同意できたものだ。後半の「歴史問題を解決する」「未来社会を構想する」あたりは、理が勝ちすぎの感があって、受け入れにくかった。

 ともあれ、全編にわたって、今の社会の行き詰まりを打開するための真剣な思考実験が展開されている。何が「現実的」で何が「非現実的」かというわれわれの判断も、実は「第三者の審級」に属する知に過ぎない。そのことに気づくだけでも、意味のあることではないかと思う。
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