○苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ:学歴主義と平等神話の戦後史』(中公新書) 中央公論新社 1995.6
戦後日本に出現した「大衆教育社会」。それは、単に教育機会が拡大した社会ではなく、教育と社会のかかわりかたに日本固有の特徴が見られる。
第一のキーワードは「学歴社会」。日本では、学歴が「社会的生まれ変わり」をもたらすと言われるほど学歴への期待が高い。実際には、学歴が地位や収入と結びつく度合いは、イギリスやアメリカと差がないのだが、階級制度や人種差別の残る両国では、学歴だけで「生まれ変わり」ができるとは期待されていない。
一方で、学歴は実力を反映していない、という批判がある。これも日本的な特徴のひとつで、背後には「教育がそもそも実力と関係するはずだという期待」が共有されている。これは面白い指摘だ。あらためてこんなことを言われたら、多くの日本人は(文部科学省の役人も)激しくとまどうだろう。しかし、たとえばイギリスでは、職業的な実力とは無関係に、高い教育はそれだけで尊敬に値する、という教養主義な見方が強い。儒学知識人の伝統の残る韓国も同様だという。
日本の場合、実際の学歴取得競争は、社会のどの場面でもあまり役に立たない(どの社会階層にも属さない)「学校文化」的な知識技術によって争われている。これは、きわめて平等なシステムに見えるため、大衆の教育意欲を刺激し、メリトクラシーの大衆化をもたらした。一方で、諸外国に比べて、紐帯も責任感も弱い「受験エリート(学校文化エリート)」しか生み出すことができなかった。
これは実感として、よく分かる。私自身も戦後社会の「受験エリート」であるが、選良らしいふるまいは出来ない。だって、しょせん受験学力なんて、真の実力ではなく、教養でも専門知識でもないと囁かれ続けるのだから、自信が身につくわけもないのである。でも、グローバル・スタンダード的には異端であっても、日本的な「平等主義的心性を身に付けたエリート」って、それはそれで存在意義があるんじゃないか、とも思う。
第二のキーワードは「能力主義的差別教育」の忌避。能力や成績による序列化は、差別感を生むという理由で、これを忌避する心理である。背後には、「誰でもがんばれば100点を取れる」的な、能力の可変性への信仰と、学校で測られる学力は「真の能力」ではないという学力観がある。本書の第5章は、こうした能力観・学力観を推進してきた日教組の記録を、執拗に追っており、非常に興味深い。どう考えても、素質や文化資本の不平等を隠蔽しているだけだと思うんだが、理想に燃える教師というのは、困ったものである。
本書は1995年に執筆されたもので、大衆教育社会が極限に行きついた時点の総括と言える。その後は、戦後の日本社会が隠蔽してきた「格差」「貧困」の問題が、急速に顕在化している。しかし、今日の問題に対処する方法は、本書の最後に記されたとおりではないか。すなわち「本当の教育が実現すれば…」という、<よきものとしての教育>信仰を捨てること。熱い教育論はもう辞めよう。
戦後日本に出現した「大衆教育社会」。それは、単に教育機会が拡大した社会ではなく、教育と社会のかかわりかたに日本固有の特徴が見られる。
第一のキーワードは「学歴社会」。日本では、学歴が「社会的生まれ変わり」をもたらすと言われるほど学歴への期待が高い。実際には、学歴が地位や収入と結びつく度合いは、イギリスやアメリカと差がないのだが、階級制度や人種差別の残る両国では、学歴だけで「生まれ変わり」ができるとは期待されていない。
一方で、学歴は実力を反映していない、という批判がある。これも日本的な特徴のひとつで、背後には「教育がそもそも実力と関係するはずだという期待」が共有されている。これは面白い指摘だ。あらためてこんなことを言われたら、多くの日本人は(文部科学省の役人も)激しくとまどうだろう。しかし、たとえばイギリスでは、職業的な実力とは無関係に、高い教育はそれだけで尊敬に値する、という教養主義な見方が強い。儒学知識人の伝統の残る韓国も同様だという。
日本の場合、実際の学歴取得競争は、社会のどの場面でもあまり役に立たない(どの社会階層にも属さない)「学校文化」的な知識技術によって争われている。これは、きわめて平等なシステムに見えるため、大衆の教育意欲を刺激し、メリトクラシーの大衆化をもたらした。一方で、諸外国に比べて、紐帯も責任感も弱い「受験エリート(学校文化エリート)」しか生み出すことができなかった。
これは実感として、よく分かる。私自身も戦後社会の「受験エリート」であるが、選良らしいふるまいは出来ない。だって、しょせん受験学力なんて、真の実力ではなく、教養でも専門知識でもないと囁かれ続けるのだから、自信が身につくわけもないのである。でも、グローバル・スタンダード的には異端であっても、日本的な「平等主義的心性を身に付けたエリート」って、それはそれで存在意義があるんじゃないか、とも思う。
第二のキーワードは「能力主義的差別教育」の忌避。能力や成績による序列化は、差別感を生むという理由で、これを忌避する心理である。背後には、「誰でもがんばれば100点を取れる」的な、能力の可変性への信仰と、学校で測られる学力は「真の能力」ではないという学力観がある。本書の第5章は、こうした能力観・学力観を推進してきた日教組の記録を、執拗に追っており、非常に興味深い。どう考えても、素質や文化資本の不平等を隠蔽しているだけだと思うんだが、理想に燃える教師というのは、困ったものである。
本書は1995年に執筆されたもので、大衆教育社会が極限に行きついた時点の総括と言える。その後は、戦後の日本社会が隠蔽してきた「格差」「貧困」の問題が、急速に顕在化している。しかし、今日の問題に対処する方法は、本書の最後に記されたとおりではないか。すなわち「本当の教育が実現すれば…」という、<よきものとしての教育>信仰を捨てること。熱い教育論はもう辞めよう。