○出光美術館 『柿右衛門と鍋島-肥前磁器の精華-』
http://www.idemitsu.co.jp/museum/
江戸時代初期、日本で初めて磁器生産に成功した九州・肥前窯(佐賀県)。その精華というべき柿右衛門と鍋島、さらに古伊万里を、館蔵コレクションを中心に紹介する展覧会。
うれしい。肥前磁器は大好きだ。陶磁器の魅力に目覚めかけた頃、たまたま九州に行く機会があって、有田の町を訪ねた。製陶会社の店舗に併設された私設博物館を見て歩き、「柿右衛門って、どこが特徴なんですか?」と超初心者の質問をして、学芸員(店員?)の方に「余白が広いことと、乳白色の地色ですね」なんて丁寧に教えてもらった。以来、柿右衛門と鍋島は、私のお気に入りである。
本展は、肥前磁器の成り立ちと変遷を、時代を追って歴史的に把握することが出来る。初代柿右衛門の登場が17世紀。ただし、夕日に照らされた柿の色を見て…というのは、昭和8~15年の尋常小学校読本によって作られた伝説である。という会場の説明を読みながら、老夫婦が「習ったなあ、この話」と大きくうなずいていた。実際は、文書等によって、柿右衛門が正保4年(1647)長崎滞在中の中国人から赤絵の技術を学んだこと、初期の赤絵は柿色というより濃い赤であったことが分かっている。
寛文年間(1650~60年代)、肥前磁器は、中国磁器(康煕朝の初期)の影響を受けて、その完成度を高める。この展覧会、ところどころ肥前磁器に中国磁器が混ぜてあるのだが、びっくりするほど両者の区別が付かない。派手な色彩、ごてごての文様で見るからに中国磁器と思うものが和ものだったり、おっとりした花鳥文がいかにも和様と思うと、意外に中国磁器だったりする。日本磁器なのに(しかも18世紀になっても!)「大明成化年製」なんて入ってるので、油断がならない(これはモチーフを借用しているという意味か?)。
次いで、鍋島の登場。鍋島藩窯は、寛永5年(1628)に有田の岩谷川内に設けられ、1675年に伊万里市大川内山(おおかわちやま)に移された。写真パネルに、この大川内山の風景を描いた絵皿があって、面白かった。興味深かったのは、鍋島藩初代・勝茂の伝来品である2枚の大皿(色絵椿文輪花大皿)。全く同形・同デザインなのだが、一方は伝統的な技法に基づき、文様を黒い輪郭線で縁取る。もう一方は、葉なら緑、花なら赤というように、文様と同色の輪郭線を用いている。中国磁器の豆彩の技法だ。
解説者はこう推測する。鍋島藩は、新旧2つのスタイルを比較し、鍋島窯の路線を後者に決定したのではないか。まるで現代企業の企画会議みたいである。鍋島勝茂って、苦労のわりに評判のよくない可哀想な殿様だが、経営者として先見の明があったわけだ。(※佐賀県サイトに上記大皿の写真あり。ただし、色があまりよくない)。
後半は、再び柿右衛門で魅せる。ところが、優美な花鳥文の角瓶一対(色絵花鳥文六角共蓋壺)を見て、これぞ柿右衛門の真髄と思ったら、「マイセン窯」とあって、びっくり。これは見事だ。柿右衛門に惚れ込んだアウグスト強王(→『西洋陶磁入門』に出てきた)が焼かせたものだという。もっとも、ヨーロッパで作られた柿右衛門コピーには、苦笑を誘うような稚拙なものもある。なお、真正の柿右衛門で、底面に「ヨハネウムナンバー」という数字が振ってあるものがあり、これはザクセン強王のコレクションだった印という。
鍋島のデザインは、寛文小袖に代表される”傾(かぶ)いた美意識”に通じ、余白を重んじる柿右衛門の美意識は、小堀遠州や狩野探幽など江戸前期の時代様式に即している、という指摘は興味深かった。
元禄年間(1680~1740)、景徳鎮窯の影響を受けて、新たな様式、古伊万里(金襴手)が誕生する。”古伊万里”って、柿右衛門や鍋島より新しいんだ、と再認識。柿右衛門の優雅や鍋島の格調に比べると、破壊的なまでのインパクトだ。率直に言って、あまり好きではないのだが、使い勝手のいい器が中心だったというのは、気づかない点だった。大衆社会の成立を反映しているのだと思う。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/
江戸時代初期、日本で初めて磁器生産に成功した九州・肥前窯(佐賀県)。その精華というべき柿右衛門と鍋島、さらに古伊万里を、館蔵コレクションを中心に紹介する展覧会。
うれしい。肥前磁器は大好きだ。陶磁器の魅力に目覚めかけた頃、たまたま九州に行く機会があって、有田の町を訪ねた。製陶会社の店舗に併設された私設博物館を見て歩き、「柿右衛門って、どこが特徴なんですか?」と超初心者の質問をして、学芸員(店員?)の方に「余白が広いことと、乳白色の地色ですね」なんて丁寧に教えてもらった。以来、柿右衛門と鍋島は、私のお気に入りである。
本展は、肥前磁器の成り立ちと変遷を、時代を追って歴史的に把握することが出来る。初代柿右衛門の登場が17世紀。ただし、夕日に照らされた柿の色を見て…というのは、昭和8~15年の尋常小学校読本によって作られた伝説である。という会場の説明を読みながら、老夫婦が「習ったなあ、この話」と大きくうなずいていた。実際は、文書等によって、柿右衛門が正保4年(1647)長崎滞在中の中国人から赤絵の技術を学んだこと、初期の赤絵は柿色というより濃い赤であったことが分かっている。
寛文年間(1650~60年代)、肥前磁器は、中国磁器(康煕朝の初期)の影響を受けて、その完成度を高める。この展覧会、ところどころ肥前磁器に中国磁器が混ぜてあるのだが、びっくりするほど両者の区別が付かない。派手な色彩、ごてごての文様で見るからに中国磁器と思うものが和ものだったり、おっとりした花鳥文がいかにも和様と思うと、意外に中国磁器だったりする。日本磁器なのに(しかも18世紀になっても!)「大明成化年製」なんて入ってるので、油断がならない(これはモチーフを借用しているという意味か?)。
次いで、鍋島の登場。鍋島藩窯は、寛永5年(1628)に有田の岩谷川内に設けられ、1675年に伊万里市大川内山(おおかわちやま)に移された。写真パネルに、この大川内山の風景を描いた絵皿があって、面白かった。興味深かったのは、鍋島藩初代・勝茂の伝来品である2枚の大皿(色絵椿文輪花大皿)。全く同形・同デザインなのだが、一方は伝統的な技法に基づき、文様を黒い輪郭線で縁取る。もう一方は、葉なら緑、花なら赤というように、文様と同色の輪郭線を用いている。中国磁器の豆彩の技法だ。
解説者はこう推測する。鍋島藩は、新旧2つのスタイルを比較し、鍋島窯の路線を後者に決定したのではないか。まるで現代企業の企画会議みたいである。鍋島勝茂って、苦労のわりに評判のよくない可哀想な殿様だが、経営者として先見の明があったわけだ。(※佐賀県サイトに上記大皿の写真あり。ただし、色があまりよくない)。
後半は、再び柿右衛門で魅せる。ところが、優美な花鳥文の角瓶一対(色絵花鳥文六角共蓋壺)を見て、これぞ柿右衛門の真髄と思ったら、「マイセン窯」とあって、びっくり。これは見事だ。柿右衛門に惚れ込んだアウグスト強王(→『西洋陶磁入門』に出てきた)が焼かせたものだという。もっとも、ヨーロッパで作られた柿右衛門コピーには、苦笑を誘うような稚拙なものもある。なお、真正の柿右衛門で、底面に「ヨハネウムナンバー」という数字が振ってあるものがあり、これはザクセン強王のコレクションだった印という。
鍋島のデザインは、寛文小袖に代表される”傾(かぶ)いた美意識”に通じ、余白を重んじる柿右衛門の美意識は、小堀遠州や狩野探幽など江戸前期の時代様式に即している、という指摘は興味深かった。
元禄年間(1680~1740)、景徳鎮窯の影響を受けて、新たな様式、古伊万里(金襴手)が誕生する。”古伊万里”って、柿右衛門や鍋島より新しいんだ、と再認識。柿右衛門の優雅や鍋島の格調に比べると、破壊的なまでのインパクトだ。率直に言って、あまり好きではないのだが、使い勝手のいい器が中心だったというのは、気づかない点だった。大衆社会の成立を反映しているのだと思う。