見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

もうひとつの薬師寺展(薬師寺東京別院)

2008-04-25 23:39:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
○薬師寺東京別院 国宝薬師寺展開催記念『もうひとつの薬師寺展』

http://www.yakushiji.or.jp/

 上野の東京国立博物館で開催中の『国宝 薬師寺展』にあわせて、東京別院で開かれている展覧会。上記サイトにあがっているポスターの、向かって左、垂髪の十一面観音は、私の好きな仏像である。東京でお会いできるとは嬉しい。

 五反田の薬師寺東京別院を訪ねるのは3回目。前回は、定例の法話の時間にぶつかって、年齢層の高い団体さんに混じって、ありがたいお話を聞くことになってしまった。今回は、お話は遠慮申し上げたいと思っていたが、会場に入ると、20人あまりの老若男女が神妙に般若心経を唱えている。また団体さんか~と思ったが、そうではなかった。お経のあと、講師のお坊さんの「初めていらした方は?」という質問に、ほとんどの人が手を上げていた。『国宝 薬師寺展』の影響力は絶大なんだなあ。

 それから20分ほど、お話を聞いた。要は写経のすすめなのだが、仏像や寺宝の解説もあり、面白かった。上野で公開中の日光・月光の両菩薩には、あわせて20トンの銅が使われている。薬師寺創建当時(680年)、銅は金にも等しい貴重な金属だった。日本で初めて自然銅が見つかったのは、708年。これを記念して、年号を「和銅」に改め、「和同開珎」という銅貨が鋳造された。したがって、両菩薩像に使われた銅は、大陸からの輸入品だろうという。ええ~20トンもの銅を、どうやって(海路で?)運んだのか、いろいろ想像してしまった。

 しかし、調べてみると、薬師寺には”移建・非移建論争”というのがある。薬師寺は、和銅3年(710)、平城京遷都に伴い、飛鳥から現在の地に移された。日光・月光菩薩を含む薬師三尊像は、飛鳥で造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説が有力だが、「平城移転後の新造とする説もなお根強い」のだそうだ。また、飛鳥で造立されたとしても、688年頃に完成していたと見る通説のほか、『日本書紀』に仏像の開眼法会の記録がある持統天皇11年(697)に造られたという説もある。そういえば古い本で、”白鳳文化(様式)”という時代区分を認めるかどうかについて議論があることを、むかし読んだ。この件、諸説をまとめて知るには、以下のサイトが便利。

■飛鳥白鳳彫刻の問題点/朝田純一(神奈川仏教文化研究所)
http://www.bunkaken.net/index.files/arakaruto/daigaku/asuka7.html

 また、「和銅」は「日本(で初めて)の銅」ではなく、「にきあかがね」つまり製錬をしなくても既に金属となっている「自然銅」の意味であること、和銅産出と和同開珎に直接のつながりがないことについては、下記の報告が詳しい。 なんだ~。どうやら、20トンの銅を大陸から輸入したというのは空想の産物のようだ。それでも、国家的な大事業だったことに変わりはないが。

■皇朝十二銭の原料と製作技術/齋藤努(国立歴史民俗博物館「歴博」144号)
http://www.rekihaku.ac.jp/research/publication/144witness.html

 さて、本展は、奈良から特別においでいただいた2体の十一面観音が見もの。博物館と違って明るい部屋で、間近に対面できるのが嬉しい。上述の私の好きな仏像は、顔面がひどく傷んでいるが、「(足元が腐って)前のめりに倒れたんじゃないですかねえ」というのはリアリティがあった。何しろ薬師寺の諸像は、一時期、雨ざらし(!)の状態にあったという話である。

 別の小さな木像は、天竜八部像の4体だという(これも重要文化財だが、ひょいと手を伸ばせば触れる状態)。創建当時の薬師寺には、法隆寺と同様、釈迦の生涯を表した塔本塑像があったが、早くに失われてしまった。鎌倉時代、これらを木像で復元しようとして造られたのが、この木造天部像であるという。ちなみに、もとの塑像の破片と、大量の人形(ひとがた)の心木が『国宝 薬師寺展』で公開されている。

 なお、小さな別室に、ひっそり置かれている展示ケースがあって、覗いてみたら、大津皇子像だった。なんだか、幽閉されているみたいで可哀相だった。ご来場の際は、お忘れなく。

コメント
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