○網野徹哉『インカとスペイン:帝国の交錯』(興亡の世界史12) 講談社 2008.5
好著の相次ぐ「興亡の世界史」シリーズの最新巻。私は、南米について書かれた本を読むのは、これが初めてだと思う。昨年、科博で『インカ・マヤ・アステカ展』が開かれていたが、行ってみようとも思わなかった。中南米三大文明の区別もおぼつかない私が、本書を読もうと思ったのは、書店の店頭でふと開いたとき、スペイン・コルドバのメスキータ(モスク)の写真が目に入ったからだ。スペインへは1度だけ行った。キリスト教国として認識していたスペインの内部に、深々と残るイスラム教の影響を見て、強い印象を受けたことを思い出した。
著者の専門はアンデス社会史、ラテン・アメリカ史だそうだが、恩師・増田義郎氏の「アンデスのことを知るためには、スペインのことを徹底的に勉強したほうがいい」という教えに従い、本書は「インカの歴史をスペインの歴史との交錯の中でとらえること」を目指して書かれている。私は、スペイン史にも詳しいわけではないので、なじみのない固有名詞や術語に二重に苦しめられ、なかなか読み進むことができなかった。
それでも、ざっとした見取り図ではあるが、興味深い新知識をいくつか仕入れた。スペインに関しては、中世スペインが、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教という三大宗教を信仰する人々が共生する空間であったこと。ところが、14世紀末、ポグロムと呼ばれるユダヤ人大迫害が生じる。迫害を避け、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々をコンベルソと呼ぶ。16世紀初め、中米に向かって拡大を始めたスペインの植民者集団の先兵には、多数のコンベルソの人々が含まれていた。
また、多くのユダヤ人およびコンベルソは、スペインを逃れ、隣国ポルトガルに移住した。ポルトガルでは、コンベルソを核に、キリスト教徒をも取り込んだ、ハイブリッドな商人階階層「ナシオン」が育っていく。1580年、スペイン王フェリペ二世によるポルトガル併合以降も、実質的に大きな利益を得て、アメリカ商業の盟主となったのは、ポルトガル系商人=ナシオンの人々だったという。
このへんが実に面白いと思う。通りいっぺんの歴史の習い方では、「スペイン人」とか「ポルトガル人」というカテゴリーが万古不変のもののように思ってしまうが、実は、その中を移動していく「ユダヤ人」のような人々がいたり、スペインがポルトガルを併合しても、やっぱり「ポルトガル系商人」という集団アイデンティティのほうが強固だったりすることに、初めて気づかされる。そうすると、新世界の征服者(コンキスタドール)とは「何者」だったのか?ということも、もう一度、考えてみなけれなならない、と思えてくる。
16世紀から17世紀初頭にかけて、既にアジアからアメリカに至る文物の交流が行われ、中国製の陶磁器や絹織物がアンデス山中にも入り込んでいたというのは、愉快な驚きだった。その一方、18世紀、スペインの植民地支配に対するインディオたちの蜂起とその失敗は、血腥く、苦い歴史である。反乱事件の指導者コンドルカンキは、インカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルの名を名乗り、「インカ」の記憶を自らの身体にまとおうとした。それゆえ、植民地権力はインカの記憶を憎悪し、それを徹底的に根絶しようとした。「記憶」をめぐる主導権争いは、東アジアだけのことではないのだな、と思った。
「あとがき」によれば、インカの記憶をめぐる問題は今日に続いているようだ。ペルーの人々が語る、驚くほど理想化されたインカのイメージは、国家的宣伝の賜物にも思えるが、貧困と不正にまみれた現実からなんとか逃れようとする若者にとって、可能性の在り処を示すものでもある。「ペルーの民衆がいまも『インカ』を探し続けていることは確かである」という一節が、強く印象に残った。
好著の相次ぐ「興亡の世界史」シリーズの最新巻。私は、南米について書かれた本を読むのは、これが初めてだと思う。昨年、科博で『インカ・マヤ・アステカ展』が開かれていたが、行ってみようとも思わなかった。中南米三大文明の区別もおぼつかない私が、本書を読もうと思ったのは、書店の店頭でふと開いたとき、スペイン・コルドバのメスキータ(モスク)の写真が目に入ったからだ。スペインへは1度だけ行った。キリスト教国として認識していたスペインの内部に、深々と残るイスラム教の影響を見て、強い印象を受けたことを思い出した。
著者の専門はアンデス社会史、ラテン・アメリカ史だそうだが、恩師・増田義郎氏の「アンデスのことを知るためには、スペインのことを徹底的に勉強したほうがいい」という教えに従い、本書は「インカの歴史をスペインの歴史との交錯の中でとらえること」を目指して書かれている。私は、スペイン史にも詳しいわけではないので、なじみのない固有名詞や術語に二重に苦しめられ、なかなか読み進むことができなかった。
それでも、ざっとした見取り図ではあるが、興味深い新知識をいくつか仕入れた。スペインに関しては、中世スペインが、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教という三大宗教を信仰する人々が共生する空間であったこと。ところが、14世紀末、ポグロムと呼ばれるユダヤ人大迫害が生じる。迫害を避け、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々をコンベルソと呼ぶ。16世紀初め、中米に向かって拡大を始めたスペインの植民者集団の先兵には、多数のコンベルソの人々が含まれていた。
また、多くのユダヤ人およびコンベルソは、スペインを逃れ、隣国ポルトガルに移住した。ポルトガルでは、コンベルソを核に、キリスト教徒をも取り込んだ、ハイブリッドな商人階階層「ナシオン」が育っていく。1580年、スペイン王フェリペ二世によるポルトガル併合以降も、実質的に大きな利益を得て、アメリカ商業の盟主となったのは、ポルトガル系商人=ナシオンの人々だったという。
このへんが実に面白いと思う。通りいっぺんの歴史の習い方では、「スペイン人」とか「ポルトガル人」というカテゴリーが万古不変のもののように思ってしまうが、実は、その中を移動していく「ユダヤ人」のような人々がいたり、スペインがポルトガルを併合しても、やっぱり「ポルトガル系商人」という集団アイデンティティのほうが強固だったりすることに、初めて気づかされる。そうすると、新世界の征服者(コンキスタドール)とは「何者」だったのか?ということも、もう一度、考えてみなけれなならない、と思えてくる。
16世紀から17世紀初頭にかけて、既にアジアからアメリカに至る文物の交流が行われ、中国製の陶磁器や絹織物がアンデス山中にも入り込んでいたというのは、愉快な驚きだった。その一方、18世紀、スペインの植民地支配に対するインディオたちの蜂起とその失敗は、血腥く、苦い歴史である。反乱事件の指導者コンドルカンキは、インカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルの名を名乗り、「インカ」の記憶を自らの身体にまとおうとした。それゆえ、植民地権力はインカの記憶を憎悪し、それを徹底的に根絶しようとした。「記憶」をめぐる主導権争いは、東アジアだけのことではないのだな、と思った。
「あとがき」によれば、インカの記憶をめぐる問題は今日に続いているようだ。ペルーの人々が語る、驚くほど理想化されたインカのイメージは、国家的宣伝の賜物にも思えるが、貧困と不正にまみれた現実からなんとか逃れようとする若者にとって、可能性の在り処を示すものでもある。「ペルーの民衆がいまも『インカ』を探し続けていることは確かである」という一節が、強く印象に残った。