見もの・読みもの日記

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八十五年目の証言/甘粕正彦 乱心の曠野(佐野眞一)

2008-06-10 23:44:14 | 読んだもの(書籍)
○佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』 新潮社 2008.5

 先日、国会図書館の座談会『出版文化と納本制度について考える』を聞きに行ったとき、パネリストの佐野眞一さんが「今度、甘粕正彦についての本を出します」とおっしゃるのを聞いて、へえ、と思った。実のところ、私は甘粕正彦(1891~1945)が何をした人物なのか、よく分かっていない。戦前・戦中の歴史に関する図書は、いろいろ読んだが、甘粕は、教科書的な「正史」の前面に出てくる人物ではない。にもかかわらず、映画や小説など「イメージの満州」あるいは「イメージの日本陸軍」を語るとき、外せない人物だと思う。

 その冷酷で、ファナテックで、おどろおどろしい印象を決定づけているのは、関東大震災直後の”主義者殺し”=甘粕事件である。アナーキストの大杉栄、内縁の妻・伊藤野枝、そして大杉の甥の6歳の少年の3人を憲兵隊本部に連行し、虐殺したというものだ。Wikipediaには「事件の主犯は甘粕大尉ではないとする説は根強く存在している」とあるが、私は、甘粕=首謀者説を疑ったことは一度もなかった。

 けれども、佐野さんは、85年ぶりに甘粕の無罪を証明したというので吃驚した。本書を読んでみると、別に決定的な新しい証拠が出現したわけではない。敢えて言えば、甘粕が陸士同期の半田敏治氏に「自分はやっていない」と漏らしていたことが、平成11年、半田氏の遺族から甘粕の弟の五郎氏に伝えられたということくらいか。ただし、これは口伝えの証言であるから、信じる・信じないは聞く者次第である。

 一方、法廷での甘粕の供述と矛盾する、大杉らの「死因鑑定書」は、昭和51年に発見されている。軍医の田中隆一氏が、二重蓋の木箱に収めて、ひそかに自宅に保管していたものだという。真実を伝えようとする人間の意志とは、すごいものだと思った。同時に、これほど明らかな「証拠」があっても、甘粕=”主義者殺し”の冷酷な殺人者という、出来上がったイメージを覆すことは難しい、ということにも、人間の業のようなものを感じた。

 服役後の甘粕は大陸に渡り、満洲映画協会(満映)の理事長となる。この満映の人脈、および戦後の中国の映画産業に与えた影響というのも興味深く思った。佐野さんの満州もの第一作『阿片王』(新潮社、2005)は、里見甫(はじめ)という人物が、すごい、すごいと形容されるばかりで掴みどころがなく、期待の割に面白くなかった。対して、本書の甘粕は、酒席での狼藉ぶり、母親への孝心など、人間的な弱さが活写されている点が、すぐれて魅力的である。

 ちなみに、甘粕家は上杉謙信に仕えた甘粕近江守長重を始祖としており、甘粕は武人の家系を誇りにしていたという。私は、先週末、ふと思いついて新潟県の上越市に赴き、本書を背中のリュックに入れて春日山城跡に登ってきた。山を下りたあと、埋蔵文化財センターに寄り、甘粕近江守の屋敷跡が、私の歩いたコースからは少し離れた位置にあったことを確かめた。それにしても奇縁である。私は、甘粕正彦の霊柱を背負って春日山城を一周しているような気分になって、ときどき、背中のリュックに向かって、成仏しろよ、とつぶやかずにはいられなかった。
 
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