○ジャン・ノエル・ジャンヌネー著、佐々木勉訳+解題『Googleとの闘い:文化の多様性を守るために』 岩波書店 2007.11
2004年12月、グーグル社は、6年間で1,500万冊の図書、約45億ページをデジタル化する計画(グーグル・プリント)を発表した。その後、2005年にグーグル・ブック検索(Google Book Search)と名前を改め、2007年、慶応大学が参加を表明し、日本語版のフロントページが登場するなどして、次第に日本での認知度も上がってきたかと思う。今回、いつの間にか日本語Wikipediaに「Googleブック検索」の項目が立っていることを発見して驚いた(2007年12月作成)。いや、2007年まで無かったことのほうがオカシイのだが…。
しかし、私は、2004年12月当時の社会的反響を何も記憶していない。大多数の日本人は、出版や図書館にかかわる人間も含め、遠く無縁な外国のニュースと考えていたように思う。けれども、フランス国立図書館長の職にあった著者は、「その日新聞社の受け取った一片の情報は、我々の思考、行為、想像力を心底震え上がらせた」という。大げさな、と思うが、誇張ではないらしい。なぜ著者は、グーグルの「挑戦」をかくも重大に受け止めるのか。
ひとつは、市場と文化の問題である。著者は、資本主義が良いものを生み出す可能性を全否定するわけではない。しかし、市場の原理を過信することは、文化の多様性や公共性を損ない、長期的な観点で、社会に損失をもたらす危険性がある。――これは、われわれ日本人にも理解しやすい。
もうひとつの論点は言語である。フランス人の著者は「英語利用が他のヨーロッパ言語のほとんどすべてを犠牲にしていっそう優勢となる」ことを、実は、市場の問題以上に警戒している。これは、日本人には共感しにくいところだ。そもそも漢字カナという独自表記システムを持つ日本語で暮らしているわれわれは、英米語の世界で、どんなに優れた検索エンジンが出来ても、全文テキストの宝庫が構築されても、特に損にも得にもならない話だと思っている。しかし、同じアルファベットを使用するフランス人にとっては、等閑視できない脅威と感じられるらしい。
グーグル・プリントのサイトが公開されるとすぐ、フランス国立図書館では、ヴィクトル・ユゴー、ダンテ、ゲーテなどの作家の名前を打ち込んでみた。その結果は「英語になった書籍だけが提供されていた」という。そりゃあそうだろうと私は思うのだが、デジタル化する書籍の選択には、言語の多様性に配慮が払われるべきだ、と著者は主張する。きわめて単純化すれば、英語(米語)は、アメリカ文明=資本主義の代理人であり、他のヨーロッパ言語=ヨーロッパ文明の多様性、共和制の伝統を侵食するものと見ているようだ。
Googleブック検索については、もうひとつ思ったことがある。著作権切れの古典が「読める(検索できる)」ようになることは、確かに少数の研究者にとって恩恵である。しかし、一般市民にとっては、どれだけの得になるのだろうか?
アメリカ人(またはヨーロッパ人)にとって、100年前の英語(またはフランス語、ドイツ語)の書籍が読めることは、福音なのかもしれない。しかし、われわれ普通の日本人は、100年前の日本語の書籍を苦労なく読むことができるのだろうか。近代の日本語は、たぶん世界でも稀なほど「足のはやい」言語なのだ。そのことを考えると、「著作権切れの図書の全文がウェブで読めるプロジェクト」なんていうのは、平均的日本人にとって、全くどうでもいいことかもしれない。頑張っている慶応大学さんには悪いけど。
2004年12月、グーグル社は、6年間で1,500万冊の図書、約45億ページをデジタル化する計画(グーグル・プリント)を発表した。その後、2005年にグーグル・ブック検索(Google Book Search)と名前を改め、2007年、慶応大学が参加を表明し、日本語版のフロントページが登場するなどして、次第に日本での認知度も上がってきたかと思う。今回、いつの間にか日本語Wikipediaに「Googleブック検索」の項目が立っていることを発見して驚いた(2007年12月作成)。いや、2007年まで無かったことのほうがオカシイのだが…。
しかし、私は、2004年12月当時の社会的反響を何も記憶していない。大多数の日本人は、出版や図書館にかかわる人間も含め、遠く無縁な外国のニュースと考えていたように思う。けれども、フランス国立図書館長の職にあった著者は、「その日新聞社の受け取った一片の情報は、我々の思考、行為、想像力を心底震え上がらせた」という。大げさな、と思うが、誇張ではないらしい。なぜ著者は、グーグルの「挑戦」をかくも重大に受け止めるのか。
ひとつは、市場と文化の問題である。著者は、資本主義が良いものを生み出す可能性を全否定するわけではない。しかし、市場の原理を過信することは、文化の多様性や公共性を損ない、長期的な観点で、社会に損失をもたらす危険性がある。――これは、われわれ日本人にも理解しやすい。
もうひとつの論点は言語である。フランス人の著者は「英語利用が他のヨーロッパ言語のほとんどすべてを犠牲にしていっそう優勢となる」ことを、実は、市場の問題以上に警戒している。これは、日本人には共感しにくいところだ。そもそも漢字カナという独自表記システムを持つ日本語で暮らしているわれわれは、英米語の世界で、どんなに優れた検索エンジンが出来ても、全文テキストの宝庫が構築されても、特に損にも得にもならない話だと思っている。しかし、同じアルファベットを使用するフランス人にとっては、等閑視できない脅威と感じられるらしい。
グーグル・プリントのサイトが公開されるとすぐ、フランス国立図書館では、ヴィクトル・ユゴー、ダンテ、ゲーテなどの作家の名前を打ち込んでみた。その結果は「英語になった書籍だけが提供されていた」という。そりゃあそうだろうと私は思うのだが、デジタル化する書籍の選択には、言語の多様性に配慮が払われるべきだ、と著者は主張する。きわめて単純化すれば、英語(米語)は、アメリカ文明=資本主義の代理人であり、他のヨーロッパ言語=ヨーロッパ文明の多様性、共和制の伝統を侵食するものと見ているようだ。
Googleブック検索については、もうひとつ思ったことがある。著作権切れの古典が「読める(検索できる)」ようになることは、確かに少数の研究者にとって恩恵である。しかし、一般市民にとっては、どれだけの得になるのだろうか?
アメリカ人(またはヨーロッパ人)にとって、100年前の英語(またはフランス語、ドイツ語)の書籍が読めることは、福音なのかもしれない。しかし、われわれ普通の日本人は、100年前の日本語の書籍を苦労なく読むことができるのだろうか。近代の日本語は、たぶん世界でも稀なほど「足のはやい」言語なのだ。そのことを考えると、「著作権切れの図書の全文がウェブで読めるプロジェクト」なんていうのは、平均的日本人にとって、全くどうでもいいことかもしれない。頑張っている慶応大学さんには悪いけど。