見もの・読みもの日記

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読み継がれる幸せ/中島敦展 ツシタラの夢(神奈川近代文学館)

2009-08-06 23:57:34 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川近代文学館 企画展『生誕100年記念 中島敦展―ツシタラの夢―』(2009年6月13日~8月2日)

 私が中島敦(1909-1942)の「山月記」を高1か高2の教科書で読んだのは、もう30年もむかしのことになる。あんまり面白かったので、「李陵」「名人伝」と読み進み、「弟子」を読んで感激し、朝日古典選の「論語」を読み、校註者の吉川幸次郎氏に興味を持ち、あげく、理系志望だった進路を文学に切り替えて、今の私がある。だから、私にとって中島敦は特別な作家である。

 この展示は、近親者から寄贈された豊富な資料によって、ほぼ経年順に中島敦の生涯を紹介している。漢学者の祖父、漢文教師の父、斗南と号した伯父・端、関東州の官僚であった叔父・比多吉(ひたき)など、中国文化に囲繞された家庭に育った敦だが、「山月記」や「李陵」の世界にまっすぐ進んだわけではない。さまざまな文学・思想に惑溺し、遍歴を重ねたことは「ある時は~のごと」と、古今東西の先達者を詠み込んだ「和歌(うた)でない歌」(これはよく覚えていた)に表れている。

 ガラスケースに、ある時期の書斎がイメージ復元されていたが、書棚には”愛蔵”の鴎外全集が並んでいた。東京帝大国文科の卒業論文(Wikiによれば、題名は「耽美派の研究」)、そして1年だけ在籍した大学院でも、鴎外を扱っていたのだという。ちょっと意外、に思うのは、私の鴎外に対するイメージが狭すぎるんだな、きっと。土地柄から、横浜高等女学校(現・横浜学園高校)で教師をつとめていた時代の資料も多数あって、「かめれおん日記」等に描かれた、性狷介な主人公とは裏腹に、女学生たちに慕われる、快活な教師であったらしい。

 そして南洋体験。日本語教科書作りの調査のため、パラオに赴任し、現地で見聞した日本の南洋統治のありさまについて、率直な感想を(いちおう検閲を気にしながら)書き送っている。これについては、あまり人道主義的に買いかぶるのも、また帝国主義的認識の不足を非難するのもあたらないと思う。あくまで、妻や子供たちに当てた私信なのだし。

 敦のパラオ赴任は、喘息の転地療養を兼ねていたが、結果的には、かえって持病をこじらせてしまう。しかし、この南洋体験を経由することで、英国人作家スティーブンスンを描いた『光と風と夢』(原題:ツシタラの死)が生まれ、中国古典に題材をとった豊穣な物語が形を成す。

 しかし、実は会場では認識しなかったのだが、帰宅して、あらためて中島敦の年譜を開いて、びっくりした。1941年6月、教職を辞してパラオ赴任→「ツシタラの死」脱稿→42年、実質的なデビュー作「文字禍」を『文學界』(1942年2月号)に発表→続いて「古譚」「光と風と夢」を発表。芥川賞を逃す(該当作なし)→12月4日死去。小説家としての”活動”期間は、1年間。どう贔屓目(?)に見ても2年間に満たないのである。あまりにも、あまりにも短い小説家人生ではないか。

 そして、にもかかわらず、今日まで、教科書を通じて多くの人々に読み継がれている、文字通り「珠玉の」作品の生命の長さ。作者の運命と作品の運命の乖離に、しみじみと感じ入ってしまった。ツシタラ(語り部)の幸福とは、こういうことなのかもしれないが。

 最後に。会場で、昭和8年(1933)1月23日付けで東京帝国大学附属図書館が発行した、図書の受贈礼状を発見(へえ、こんなもの出していたんだ)。祖父・中島撫山の『演孔堂詩文』と伯父・中島斗南の『斗南存藁』を寄贈したことに対する礼状で、B5版くらいの実に素っ気ない定型文書である。敦は、大学院に在籍する無名の一学生だったときのことだ。さて、寄贈された書籍はちゃんと残っているんだろうか、と思ったら、幸い、現物が確認されているようである。→東京大学創立130周年・総合図書館再建80周年記念特別展示会『世界から贈られた図書を受け継いで』(ページ最下段、18,19)。

↓文庫の表紙はどの出版社も粒ぞろい。心なしか、作品に対する愛着が感じられる。
  

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