見もの・読みもの日記

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幕末の海外視察/西洋事情(福澤諭吉)

2009-08-08 09:48:31 | 読んだもの(書籍)
○福澤諭吉著;マリオン・ソシエ、西川俊作編『西洋事情』 慶応義塾大学出版会 2009.6

 Wikiの説明が簡にして要を得ているので、そのまま引くと「福沢は江戸幕府の命により1860年(万延元年)にアメリカに渡り、1862年(文久2年)にはヨーロッパに渡ったのち、1866年(慶応2年)に初編3冊を刊行した」とのこと。本書の注によれば、売り上げは15万部、海賊版を含めると20万部とも言われるらしい。幕末の大ベストセラーである。

 という事情はひととおり心得ていたが、読んでみて、へえ~こんな本だったのか、とびっくりした。イメージとしては、鎖国体制に守られて育った日本人が、はじめて欧米を訪れ、見るもの聴くもの珍しくてびっくり、みたいな、もっと素朴な海外見聞録だと思っていたのだ。ちょうど、私が大学の事務職員だった頃、幸いにも海外の類縁機関の見学に行かせてもらったことがあるが、たいがい、出てきた案内者の説明を鵜呑みにして、呑気な出張報告書を書いて終わったように…。

 ところが、福沢はそんな素朴な観察者、祖述者ではない。たぶん書物を頼りに、ものすごく勉強している。彼は、西洋の政治には三態(立君=モナルキ、貴族合議=アリストカラシ、共和政治=レポブリック)あるという「原理」も分かっているし、各国の「史記」の記述も詳しい。アメリカが如何にして独立を成し遂げたか、フランス革命の残虐性、ナポレオン登場から帝政復活に至る混乱、ロシアのペイトル(ピョートル)大帝の卓越した個性など。これらは、書物から学んだ知識を、彼の見識に基づき、批判的にまとめたものと思われる。

 いちばん驚いたのは、アメリカ独立宣言が、見事な文語体に翻訳され、全文(らしい)掲載されていたことだ(初編)。Wikiに記述されているくらいだから、有名な話なのかな。私は知らなかった。特に感銘を受けたのは、「政府たらんものはその臣民に満足を得せしめ初て眞に権威あると云ふべし。政府の処置、この趣旨に戻(もと)るときは、則ち之を変革し或は倒して、更にこの大趣旨に基き、人の安全幸福を保つべき新政府を立るも又人民の通義(※権利)なり」という部分。現今、自民党の先生方も拳々服膺するとよろしい。それにしても、幕末に、こんなラディカルな政治言説が堂々と行われていたなんて。なお、私がラディカルというのは、既存の政府にとっては危険きわまりない、しかし、政治思想としては「根本的」という意味である。

 学校、文庫(図書館)、博物館、貧院、癲院(精神病院)など、具体的な施設に関する記述(初編)を読むと、「余が…に行きし時」という具合に、実際にその現場を訪れたと分かる記述もある。福沢は、狂心のときに死罪を犯したため、回復後も癲院に収容されていた狂人たちに会い「自ら三子を殺せしと云う」一婦人とも話をしている。しかし、単に現場で見たもの聴いたものだけのを写すのではなく、その施設が社会で果たしている役割、運営システム(特に財政的基盤)に注意を払い、また西洋各国の差異もよく意識している。民間の活力に任せることが妥当なものと、政府が統制することが必要なもの(この時代でいうと、ガス、水道、鉄道、郵便など)の区別があることも鋭敏に理解し、分かりやすく説明している。21世紀に生きている私たちが、すっかり分からなくなってしまった近代社会システムの基本原理を、あらためて福沢に解説してもらっているような気さえした。

 名著である。そして、この名著を、一部漢字や仮名遣いをあらため、「読みやすい原文」で提供した本書の企画に賛辞を送りたい。やっぱり、日本語の名著は原文で読みたいと思う。それから、毎年、税金を使って「海外視察」に赴いているらしい、多くの政治家とか公務員にも、一度読んでいただきたい本でもある。
コメント
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