見もの・読みもの日記

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清水安三と2人の妻/朝陽門外の虹(山崎朋子)

2009-08-25 23:52:38 | 読んだもの(書籍)
○山崎朋子『朝陽門外の虹:崇貞女学校の人びと』 岩波書店 2003.7

 本書は、子安宣邦さんの一風変わった書評エッセイ『昭和とは何であったのか』(藤原書店、2008.7)で知ったタイトルである。厳格な学風のイメージのある子安さんが、なんだか手放しで感動されていたのが印象的で、読んでみようとずっと思っていた。

 明治24年(1891)、滋賀県に生まれた清水安三は、17歳でキリスト者となり、同志社大学を卒業後、中国への伝道ボランティアを志す。朝陽門外の太平倉(清朝時代の穀物倉)を借り受け、旱災児童収容所を設置したのを手始めに、スラム街の少女たちに無料で読み書きと手芸を教える崇貞女学校を設立し、さらに城内の天橋地区に愛隣館というセツルメントを設け、診療、教育、授産事業に奔走する。

 安三の物語に、明るい彩りを添えるのは、彼を支えた2人の女性。中国で女子教育を始めるにあたり、独身では支障があると忠告され、伴侶を探していた安三のもとに、自ら飛び込んでいったのが、最初の妻、美穂。病気で早世するに及び、「私の骨は郷里に埋めないでください、学校の庭の片隅に埋めてください」と願って、その願いを叶えてもらう。3人の子供とともに残された安三は、やがて再婚を決意し、選んだ相手が小泉郁子。アメリカの大学院に学び、青山学院女子専門部の教授、ジャーナリズム界の寵児でもあった郁子に、安三は、さりげない、しかし率直なプロポーズの手紙を書き、44歳まで独身職業婦人として(女性エリートとして)生きてきた郁子は「フツツカナルモノナレドモ カミ ユケトメイジタモウガユエニ」という電報で応諾する。この淡々と描かれた三者三様の人情の機微は、やや本筋を外れるけど、とても面白かった。

 昭和20年(1945)の終戦とともに、安三・郁子は中国退去を余儀なくされる。両人は日本に戻り、再び学校教育を志して、作り上げたのが桜美林学園である。一方、中国政府に接収された崇貞女学校は、陳経倫中学と名を変えたが、今日も、安三・美穂・郁子の事跡を校史陳列室に留めているという。

 安三をめぐって、意外な人物の名前が登場するのは、本書の読みどころのひとつ。彼をキリスト教に導いたのが、ウィリアム・メレル・ヴォーリーズ(伝道師、建築家)であったり、崇貞女学校の教員募集に魯迅がかかわっていたり。でも、いちばん驚いたのは、崇貞女学校が日本人(および朝鮮人)のための女子中学校を併設していた時期、のちに中国語・中国文学の大家となられる中山時子先生が、本場の中国語を学ぶため、同校に学んでいたというエピソード。へぇーっ。私は、わずかではあるが、直接教えを受けたことがあるので、先生とお呼びしたい。

 それにしても、どんな困難にも、呆れるほど楽天的な無鉄砲さ(信念というか、信仰というか)で向かっていく安三は、明朗な魅力に満ちている。この魅力があるから、美穂や郁子をはじめとして、多数の援助者がどこからか現れ、何とかなってしまうのかなあ、と思った。
コメント
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