○神奈川県立近代美術館(葉山) 『画家の眼差し、レンズの眼-近代日本の写真と絵画』(2009年6月27日~8月23日)
写真と絵画の関係を、近代日本の美術を素材に考える展覧会。19世紀・幕末、西洋から日本に伝わった写真技術は、人々の「ものを見る」という知覚に大きな驚きと発見を与えた。
初期の写真師は同時に洋画家でもあった。たとえば、島霞谷(1827-1872)と横山松三郎(1838-1884)。名刺大の小さな写真を集めた島霞谷の「アルバム」には、日本人男女のスナップに混じって、ナポレオンや磔刑のキリストの(もちろん絵画の)写真が貼り付けてあるのが面白いと思った。あと、展示の趣旨には何もかかわりないのだが、肖像画(写真?)を見て、島霞谷ってオトコ前だな~と感じた。横山松三郎も、芸術家らしくて印象の強い風貌である。
はじめは、画家たちが写真に学ぼうとする。洋画の先駆者・高橋由一(1828-1894)が描いた、いくつかのモニュメンタルな風景画(山形市街図、宮城県庁門前図など)には、高橋が参照したとおぼしい同構図の写真が残っている。もう少し時代が下って、日本の風土に根ざした写実表現を確立したと言われる浅井忠(1856-1907)も、写真や絵葉書を利用していることが「最近の研究で明らかになってきた」そうだ。『農夫帰路』(※新潮日本美術文庫の表紙)と、その元ネタとなった古写真が並べられており、一目瞭然である。ただし、浅井は人物の数を減らし、舞台を農家の前から広い農道へと、自由な換骨奪胎を施してもいる。
浅井の門下生、倉田弟次郎のコンテ絵3点は、写真の迫真性に肉薄した執念の作品である。たまたま、そのうち1点は元ネタが発見されたことから、他も写真や絵葉書を参照したものだろうと推測されている。でも、こういう元ネタ探しって、索引にたよるわけにもいかないので、ずいぶん難しいだろうなあ。
興味深いのは、やがて写真が絵画を模倣し始めることだ。明治半ば以降、写真家は絵画を意識した写真を制作するようになる。同時期に水彩画が流行し、風景を絵画的に(美術的に)とらえることが一般化し、これをもとに「ピクトリアリズム(絵画的写真)」と呼ばれる風景写真が流行する。代表的な作品が、黒川翠山の、松並木の下を歩む蓑笠姿の農夫をとらえた1枚(題不詳、明治時代→画像あり)。白と黒のぼんやりしたコントラストが描き出す幽玄の空気は、松林図屏風さながらだ。よく見ると、片隅に作者(撮影者)の朱印が押されていて、絵画製作と同じ意識だったんだなあ、と思う。
1900年代には、ゴム印画、ブロムオイル印画などの焼付け方法が登場し、写真を水彩画ふう、銅版画ふうに仕上げることが可能になる。フォトショップの特殊効果みたいだ。ピクトリアリズムは一層進化して、版画ぶう、日本画ふう、あるいは人物画や静物画に及ぶ。作品解説の作者名や制作年代を気にすることはあっても、技法(絵画?写真?)を確かめずにいられない展覧会というのは、めったにない。写真と思えば絵画、絵画と思えば写真、という「胡蝶の夢」のような酩酊感が新鮮だった。
不満なのは、有料の展示図録以外、出品リストが用意されていなかったこと。会場で配布しないまでも、せめてネットには載せてほしい。上記、簡単なメモと記憶をたよりにかいているので、間違っていたらご容赦。
↓こんなのを発見。
■黒川翠山撮影写真資料(京都北山アーカイブズ/京都府立総合資料館)
http://www.pref.kyoto.jp/archives/shiryo1/index.html
芸術性豊かな記録資料という、二律背反ぶりが面白い。
写真と絵画の関係を、近代日本の美術を素材に考える展覧会。19世紀・幕末、西洋から日本に伝わった写真技術は、人々の「ものを見る」という知覚に大きな驚きと発見を与えた。
初期の写真師は同時に洋画家でもあった。たとえば、島霞谷(1827-1872)と横山松三郎(1838-1884)。名刺大の小さな写真を集めた島霞谷の「アルバム」には、日本人男女のスナップに混じって、ナポレオンや磔刑のキリストの(もちろん絵画の)写真が貼り付けてあるのが面白いと思った。あと、展示の趣旨には何もかかわりないのだが、肖像画(写真?)を見て、島霞谷ってオトコ前だな~と感じた。横山松三郎も、芸術家らしくて印象の強い風貌である。
はじめは、画家たちが写真に学ぼうとする。洋画の先駆者・高橋由一(1828-1894)が描いた、いくつかのモニュメンタルな風景画(山形市街図、宮城県庁門前図など)には、高橋が参照したとおぼしい同構図の写真が残っている。もう少し時代が下って、日本の風土に根ざした写実表現を確立したと言われる浅井忠(1856-1907)も、写真や絵葉書を利用していることが「最近の研究で明らかになってきた」そうだ。『農夫帰路』(※新潮日本美術文庫の表紙)と、その元ネタとなった古写真が並べられており、一目瞭然である。ただし、浅井は人物の数を減らし、舞台を農家の前から広い農道へと、自由な換骨奪胎を施してもいる。
浅井の門下生、倉田弟次郎のコンテ絵3点は、写真の迫真性に肉薄した執念の作品である。たまたま、そのうち1点は元ネタが発見されたことから、他も写真や絵葉書を参照したものだろうと推測されている。でも、こういう元ネタ探しって、索引にたよるわけにもいかないので、ずいぶん難しいだろうなあ。
興味深いのは、やがて写真が絵画を模倣し始めることだ。明治半ば以降、写真家は絵画を意識した写真を制作するようになる。同時期に水彩画が流行し、風景を絵画的に(美術的に)とらえることが一般化し、これをもとに「ピクトリアリズム(絵画的写真)」と呼ばれる風景写真が流行する。代表的な作品が、黒川翠山の、松並木の下を歩む蓑笠姿の農夫をとらえた1枚(題不詳、明治時代→画像あり)。白と黒のぼんやりしたコントラストが描き出す幽玄の空気は、松林図屏風さながらだ。よく見ると、片隅に作者(撮影者)の朱印が押されていて、絵画製作と同じ意識だったんだなあ、と思う。
1900年代には、ゴム印画、ブロムオイル印画などの焼付け方法が登場し、写真を水彩画ふう、銅版画ふうに仕上げることが可能になる。フォトショップの特殊効果みたいだ。ピクトリアリズムは一層進化して、版画ぶう、日本画ふう、あるいは人物画や静物画に及ぶ。作品解説の作者名や制作年代を気にすることはあっても、技法(絵画?写真?)を確かめずにいられない展覧会というのは、めったにない。写真と思えば絵画、絵画と思えば写真、という「胡蝶の夢」のような酩酊感が新鮮だった。
不満なのは、有料の展示図録以外、出品リストが用意されていなかったこと。会場で配布しないまでも、せめてネットには載せてほしい。上記、簡単なメモと記憶をたよりにかいているので、間違っていたらご容赦。
↓こんなのを発見。
■黒川翠山撮影写真資料(京都北山アーカイブズ/京都府立総合資料館)
http://www.pref.kyoto.jp/archives/shiryo1/index.html
芸術性豊かな記録資料という、二律背反ぶりが面白い。