○上田秋成著、円地文子訳『現代語訳:雨月物語、春雨物語』(河出文庫) 河出書房新社 2008.7
京博の秋成展を見てきて(展覧会の内容にやや不満だったこともあり)久しぶりに、雨月・春雨が読みたくなって、神田の三省堂書店に探しに行った。原文かつ文庫本で、と思ったが、どうやら雨月は岩波文庫に入ってないのね、意外。原文+現代語訳が読める角川ソフィア文庫はこういうときに重宝するが、品切れだったので、本書を買った。円地さんの訳は、翻訳者は黒子に徹し、原文の品格を最大限に尊重した「現代文」で、原文を読んでいるとしか思えないくらい、気持ちいい。見事なお仕事だと思う。
「雨月物語」は、何度か書いたように、小学生の頃「少年少女世界の名作文学」(小学館)で繰り返し熟読した、私の愛読作品である。大人になってからも何度か読んでいる。にもかかわらず、あらためて、あ、この話はここが舞台だったのか、と再認識した作品が多かった。各話は、それぞれ異なる時代と場所が設定されているのだが、子どもの頃、茫漠とした「昔話」の感覚で読んでいた記憶が抜けないのである。
■「白峯」 この話、わけも分からず好きだった。魔界に落ちた亡霊は「陛下」と呼ばれる貴人であり、徳の高い(?)僧侶(西行)がねんごろに回向しているのに、回心を拒否して哄笑して去っていくというのが、それまで知っていた物語の定型を完全に外れていて、子ども心に印象深かったんだと思う。
■「菊花の約(ちぎり)」 宗右衛門が自害して亡魂となり、左門と再会の約束を果たすところまでは覚えていたが、そのあと、左門が兄の仇を討ちにいく下りは忘れていた。そして左門は行方知れずになるのか。ある意味、左門も「鬼」となって、いずかたともなく去りゆくんだな。
■「朝茅が宿」 旅に出た夫の勝四郎を待ち続けた宮木の亡魂が、七年ぶりに帰郷した夫の前に一度だけ現れる。その後のことははっきりしない。
■「夢応の鯉魚」 三井寺の僧興義が夢に鯉となり、琵琶湖を泳ぎまわる。あ~舞台は琵琶湖だったのか。「竹生島の、波にうつる朱色の玉垣」「千尋の水底」が実感できると、この話、いっそう興趣が深い。
■「仏法僧」 これも修羅の道から抜けることのできない亡魂の物語である。そうだ、舞台は高野山だった。関白秀次の悪逆塚のあたりか…傍を通ったら、肝が冷えそうだ(週末、高野山に行く予定なので)。
■「吉備津の釜」 いやもう、これは子どものとき、超絶に怖かった。真夜中、窓の紙にさっと赤い光が差し、「ここにもお札が貼ってある!」という女の声が聴こえる…って、視覚にも聴覚にもリアリティあり過ぎの描写だ。結末は怖すぎて書けない(でも大好きだった)。正太郎は、たぶん怨霊に一口に食い殺されたのだろうが、死骸も骨も残さず、まして磯良の怨霊の行方も知れない。この未解決感というか、読者の「取り残され感」が、雨月物語を貫く魅力ではないかと思う。言葉を変えれば、著者は、異なる者(妖怪・怨霊)は、つねに人間とともに自由に彷徨しているのが自然、と感じていたのだろう。
■「蛇性の婬」 ああ、舞台は紀州なんだ。富子に取りついた白蛇は、法海和尚によって鉄鉢に封じられ、道成寺に埋められる。中国ダネの「白娘子永鎮雷峰塔」(白蛇伝)ですね。でも本話も、白蛇は完全に退治されたわけではなく、いつかまた蘇る機会を待っている感じがする。
■「青頭巾」 舞台となった栃木県大平山の大中寺には行ったことがある。子どもの頃は、さすがにこれが「愛欲」の物語だとは分からなかった。住持の執念は肉体とともに消えつきたのかなあ。
■「貧富論」 やや異色。本書があまりに異様だったので、出版禁止を免れるため、徳川幕政にすり寄るために挿入されたとか。うがちすぎ? 信長、謙信、信玄などの戦国武将論が面白い。何か典拠はあるのだろうか。
以下は「春雨物語」。これは成人してから読んだと思うが(たぶん『新潮日本古典集成』で)あまり各話の記憶がない。ほとんど初めて読むような気持ちで読んだ。
■「血かたびら」 平城天皇の御代の物語。藤原薬子も登場。
■「天津おとめ」 嵯峨天皇の御代の物語。僧正遍昭も登場。以上の二話は、物語の結構はどうでもいいから、とにかく大好きな「古代」を生き生きと眼前に描き出してみたい、という欲求に基づいているのではないかと思う。澁澤龍彦の「高丘親王航海記」を彷彿とさせるところがある。
■「目ひとつの神」 文明長享の乱世の頃、相模の国からやってきた旅人が、近江の国老曾(おいそ)の森で、鬼神たちの夜宴に遭遇する。雨月の各話に似ている。
■「死骨(しこつ)の笑顔(わらいがお)」 摂津の国の酒の醸造を生業とする五曽次は鬼曽次と呼ばれる邪険者。息子の五蔵は同情心に富み、仏蔵殿と呼ばれていた。親類の娘、宗は五蔵と相思相愛の仲になるが、曽次に仲を裂かれ、絶望した兄によって首を切り落とされる。人間の性格や心理描写が丁寧で、近代小説のような起伏に富んだ物語。特に"怪異"は描かれない。人間存在(あるいはその心理)自体が怪異であるということかも。
■「樊噲 上」 これも面白かった。冒頭、力自慢の大蔵が伯耆の大山に登って怪異に遭うが、無事に帰宅することができ、心をあらためて仕事に励む。ところが、だんだん元の本性に戻り、博打に走り、父や兄を殺して、他国に逃げ出す。おいおい、コイツどうなるんだと思っていたら、長崎で唐人に「樊噲が来た」と騒がれたのを気に入って、これを名乗りにしてしまう。盗人の手下になり、さらに悪行を重ねるかと思えば、偽法師に身をやつし、純朴な村人を助けたりもする。主人公の善悪がくるくると入れ替わって一定しない。非常に新しい小説の誕生を感じさせるが、これ、未完なのだっけ。完成していたら、馬琴なんかより、ずっと面白い読みものになっていたろうに、残念である。
京博の秋成展を見てきて(展覧会の内容にやや不満だったこともあり)久しぶりに、雨月・春雨が読みたくなって、神田の三省堂書店に探しに行った。原文かつ文庫本で、と思ったが、どうやら雨月は岩波文庫に入ってないのね、意外。原文+現代語訳が読める角川ソフィア文庫はこういうときに重宝するが、品切れだったので、本書を買った。円地さんの訳は、翻訳者は黒子に徹し、原文の品格を最大限に尊重した「現代文」で、原文を読んでいるとしか思えないくらい、気持ちいい。見事なお仕事だと思う。
「雨月物語」は、何度か書いたように、小学生の頃「少年少女世界の名作文学」(小学館)で繰り返し熟読した、私の愛読作品である。大人になってからも何度か読んでいる。にもかかわらず、あらためて、あ、この話はここが舞台だったのか、と再認識した作品が多かった。各話は、それぞれ異なる時代と場所が設定されているのだが、子どもの頃、茫漠とした「昔話」の感覚で読んでいた記憶が抜けないのである。
■「白峯」 この話、わけも分からず好きだった。魔界に落ちた亡霊は「陛下」と呼ばれる貴人であり、徳の高い(?)僧侶(西行)がねんごろに回向しているのに、回心を拒否して哄笑して去っていくというのが、それまで知っていた物語の定型を完全に外れていて、子ども心に印象深かったんだと思う。
■「菊花の約(ちぎり)」 宗右衛門が自害して亡魂となり、左門と再会の約束を果たすところまでは覚えていたが、そのあと、左門が兄の仇を討ちにいく下りは忘れていた。そして左門は行方知れずになるのか。ある意味、左門も「鬼」となって、いずかたともなく去りゆくんだな。
■「朝茅が宿」 旅に出た夫の勝四郎を待ち続けた宮木の亡魂が、七年ぶりに帰郷した夫の前に一度だけ現れる。その後のことははっきりしない。
■「夢応の鯉魚」 三井寺の僧興義が夢に鯉となり、琵琶湖を泳ぎまわる。あ~舞台は琵琶湖だったのか。「竹生島の、波にうつる朱色の玉垣」「千尋の水底」が実感できると、この話、いっそう興趣が深い。
■「仏法僧」 これも修羅の道から抜けることのできない亡魂の物語である。そうだ、舞台は高野山だった。関白秀次の悪逆塚のあたりか…傍を通ったら、肝が冷えそうだ(週末、高野山に行く予定なので)。
■「吉備津の釜」 いやもう、これは子どものとき、超絶に怖かった。真夜中、窓の紙にさっと赤い光が差し、「ここにもお札が貼ってある!」という女の声が聴こえる…って、視覚にも聴覚にもリアリティあり過ぎの描写だ。結末は怖すぎて書けない(でも大好きだった)。正太郎は、たぶん怨霊に一口に食い殺されたのだろうが、死骸も骨も残さず、まして磯良の怨霊の行方も知れない。この未解決感というか、読者の「取り残され感」が、雨月物語を貫く魅力ではないかと思う。言葉を変えれば、著者は、異なる者(妖怪・怨霊)は、つねに人間とともに自由に彷徨しているのが自然、と感じていたのだろう。
■「蛇性の婬」 ああ、舞台は紀州なんだ。富子に取りついた白蛇は、法海和尚によって鉄鉢に封じられ、道成寺に埋められる。中国ダネの「白娘子永鎮雷峰塔」(白蛇伝)ですね。でも本話も、白蛇は完全に退治されたわけではなく、いつかまた蘇る機会を待っている感じがする。
■「青頭巾」 舞台となった栃木県大平山の大中寺には行ったことがある。子どもの頃は、さすがにこれが「愛欲」の物語だとは分からなかった。住持の執念は肉体とともに消えつきたのかなあ。
■「貧富論」 やや異色。本書があまりに異様だったので、出版禁止を免れるため、徳川幕政にすり寄るために挿入されたとか。うがちすぎ? 信長、謙信、信玄などの戦国武将論が面白い。何か典拠はあるのだろうか。
以下は「春雨物語」。これは成人してから読んだと思うが(たぶん『新潮日本古典集成』で)あまり各話の記憶がない。ほとんど初めて読むような気持ちで読んだ。
■「血かたびら」 平城天皇の御代の物語。藤原薬子も登場。
■「天津おとめ」 嵯峨天皇の御代の物語。僧正遍昭も登場。以上の二話は、物語の結構はどうでもいいから、とにかく大好きな「古代」を生き生きと眼前に描き出してみたい、という欲求に基づいているのではないかと思う。澁澤龍彦の「高丘親王航海記」を彷彿とさせるところがある。
■「目ひとつの神」 文明長享の乱世の頃、相模の国からやってきた旅人が、近江の国老曾(おいそ)の森で、鬼神たちの夜宴に遭遇する。雨月の各話に似ている。
■「死骨(しこつ)の笑顔(わらいがお)」 摂津の国の酒の醸造を生業とする五曽次は鬼曽次と呼ばれる邪険者。息子の五蔵は同情心に富み、仏蔵殿と呼ばれていた。親類の娘、宗は五蔵と相思相愛の仲になるが、曽次に仲を裂かれ、絶望した兄によって首を切り落とされる。人間の性格や心理描写が丁寧で、近代小説のような起伏に富んだ物語。特に"怪異"は描かれない。人間存在(あるいはその心理)自体が怪異であるということかも。
■「樊噲 上」 これも面白かった。冒頭、力自慢の大蔵が伯耆の大山に登って怪異に遭うが、無事に帰宅することができ、心をあらためて仕事に励む。ところが、だんだん元の本性に戻り、博打に走り、父や兄を殺して、他国に逃げ出す。おいおい、コイツどうなるんだと思っていたら、長崎で唐人に「樊噲が来た」と騒がれたのを気に入って、これを名乗りにしてしまう。盗人の手下になり、さらに悪行を重ねるかと思えば、偽法師に身をやつし、純朴な村人を助けたりもする。主人公の善悪がくるくると入れ替わって一定しない。非常に新しい小説の誕生を感じさせるが、これ、未完なのだっけ。完成していたら、馬琴なんかより、ずっと面白い読みものになっていたろうに、残念である。