○京都国立博物館 特別展観『没後200年記念 上田秋成』(20107月17日~8月29日)
怪異小説『雨月物語』の作者として有名な上田秋成(1734-1809)の自筆原稿や出版物に加え、交友のあった画家たちの作品を展示し、18世紀後半の多彩で豊かな文学・芸術の世界を楽しむ。という趣旨らしいが、正直、「秋成」と「18世紀後半の画家たち」のミゾが埋まっていない展覧会だと思った。
展示点数は、展示替えを含め、82点。うち61点が秋成関係で、残りが「秋成ゆかりの京の画家」を構成する。神田の天理ギャラリーが、あの狭い1室に約70点の資料を押し込んで、濃密な「秋成空間」を作り上げていたのに比べると、なんともスカスカした印象だった。これだけの広い会場があれば、小説家・秋成にしても、国学者・秋成にしても、俳諧、茶人、医師・自然科学者との交友にしても、もっといろいろ掘り下げる余地があったと思うのに、なぜ「画家たちとの交友」を強調したかといえば、最近、平常展示館が閉まっているせいで、公開する機会のない絵画コレクションを見せたかったという、京博の都合としか思えない。残念である。
ちょっと興味深かったのは、死の前年(75歳)、隣人の機嫌を損ねて急に転居せざるを得なくなり、画家の山口素絢に慌てて金の無心をした手紙が残っていること。「隣人とは、秋成に離れを提供していた磯谷常瑛もしくは大沢春作」と展示図録の解説(長島弘明先生)にいうが、私がこの名前が誰なのかよく分からない。「大沢春作」でgoogle検索をかけたら、日文研の「平安人物志データベース」という、何やら面白そうなデータベースが見つかって、しばらく遊んでしまった。検索はできなくて、ページイメージを繰って読むだけなのかな。でも面白い。
それにしても、いい年をして、隣人に追い出されるほどのトラブルって何だったのか。妻に先立たれて偏屈な独居老人だったんだろうなあとか、25歳も年下の素絢に金の無心をする心境や如何(恥ずかしいのか、意外と平気なものか)とか、その前年、74歳で古井戸に投げ捨てた草稿類には、もっと恥ずかしい記録もあったのかも知れないなあとか、いろいろなことを考えた。
気になる伊藤若冲との関係だが、秋成の随筆『春雨梅花歌文巻』に、秋成の墓石(生前墓)の蟹形台座は「若冲が石峯寺で五百羅漢を彫った残りの石で作ったものである」と記されているそうだ。同書(巻子本)は出品されていたが、別の箇所が開けてあり、記述は確認できなかった。原文のニュアンスが気になるので、週末に『上田秋成全集』第9巻で確認してくる予定。これも探していたら、青空文庫に電子テキストの存在が掲載されていたが、リンク切れで本文には辿りつかなかった。秋成と若冲は、全く性格は合わない気がするが、秋成と大田南畝が認め合っていたというのは、納得できる気がする。でも、秋成は上方人、南畝は江戸人のイメージだったんだが、地理的な懸隔って、意外と障害にならないのね、この当時。
怪異小説『雨月物語』の作者として有名な上田秋成(1734-1809)の自筆原稿や出版物に加え、交友のあった画家たちの作品を展示し、18世紀後半の多彩で豊かな文学・芸術の世界を楽しむ。という趣旨らしいが、正直、「秋成」と「18世紀後半の画家たち」のミゾが埋まっていない展覧会だと思った。
展示点数は、展示替えを含め、82点。うち61点が秋成関係で、残りが「秋成ゆかりの京の画家」を構成する。神田の天理ギャラリーが、あの狭い1室に約70点の資料を押し込んで、濃密な「秋成空間」を作り上げていたのに比べると、なんともスカスカした印象だった。これだけの広い会場があれば、小説家・秋成にしても、国学者・秋成にしても、俳諧、茶人、医師・自然科学者との交友にしても、もっといろいろ掘り下げる余地があったと思うのに、なぜ「画家たちとの交友」を強調したかといえば、最近、平常展示館が閉まっているせいで、公開する機会のない絵画コレクションを見せたかったという、京博の都合としか思えない。残念である。
ちょっと興味深かったのは、死の前年(75歳)、隣人の機嫌を損ねて急に転居せざるを得なくなり、画家の山口素絢に慌てて金の無心をした手紙が残っていること。「隣人とは、秋成に離れを提供していた磯谷常瑛もしくは大沢春作」と展示図録の解説(長島弘明先生)にいうが、私がこの名前が誰なのかよく分からない。「大沢春作」でgoogle検索をかけたら、日文研の「平安人物志データベース」という、何やら面白そうなデータベースが見つかって、しばらく遊んでしまった。検索はできなくて、ページイメージを繰って読むだけなのかな。でも面白い。
それにしても、いい年をして、隣人に追い出されるほどのトラブルって何だったのか。妻に先立たれて偏屈な独居老人だったんだろうなあとか、25歳も年下の素絢に金の無心をする心境や如何(恥ずかしいのか、意外と平気なものか)とか、その前年、74歳で古井戸に投げ捨てた草稿類には、もっと恥ずかしい記録もあったのかも知れないなあとか、いろいろなことを考えた。
気になる伊藤若冲との関係だが、秋成の随筆『春雨梅花歌文巻』に、秋成の墓石(生前墓)の蟹形台座は「若冲が石峯寺で五百羅漢を彫った残りの石で作ったものである」と記されているそうだ。同書(巻子本)は出品されていたが、別の箇所が開けてあり、記述は確認できなかった。原文のニュアンスが気になるので、週末に『上田秋成全集』第9巻で確認してくる予定。これも探していたら、青空文庫に電子テキストの存在が掲載されていたが、リンク切れで本文には辿りつかなかった。秋成と若冲は、全く性格は合わない気がするが、秋成と大田南畝が認め合っていたというのは、納得できる気がする。でも、秋成は上方人、南畝は江戸人のイメージだったんだが、地理的な懸隔って、意外と障害にならないのね、この当時。