○清水克行『大飢饉、室町時代を襲う!』(歴史文化ライブラリー258) 吉川弘文館 2008.7
『日本神判史』でファンになった”若旦那”清水克行氏の本2冊目。本書は、応永27年(1420)から翌28年にかけての大飢饉をドキュメンタリーふうに追いながら、中世日本人の生活と思想を多角的に論じたものである。
私のように、この時代の歴史をほとんど知らない素人には、びっくりするほど面白い話が次々と飛び出す。まずは「応永の大飢饉」が始まる1年前、謎の船影が対馬を襲い、次々と上陸を開始する。実は李氏朝鮮軍227艘による対馬侵攻だった(応永の外寇:ただし著者はこの用語を使用しない)。おおー村上龍の小説『半島を出よ』みたいじゃないか、と思った。詳細は『朝鮮王朝実録』(世宗実録)に記事があると書かれていたので、ネットで探してみた。翻刻文はすぐ見つかったが、ソウル大学奎章閣のサイトで見られるはずの画像は、なぜか表示できなかった。
それにしても、この事件の情報が京都に伝わったときは「蒙古の船500艘」に化けていたというのには驚いた。折り悪しく、室町幕府をめぐる対外関係は、対朝鮮のみならず、対中国も最悪で、明の永楽帝は足利義持に「せいぜい城壁を高くし、堀を深く掘って待っていろ」という恫喝の言葉を伝えているという。うわ~よしてくれ、よりによって、永楽帝に喧嘩を売るなんて、考えただけで冷や汗が出る。でも小説やドラマのネタとしては、ずいぶん面白そうだ。「辺境の地域紛争が日本を取り巻く世界帝国の巨大な陰謀として映り」「対外的な脅威と自国の優越だけがいたずらに誇張される」という著者の評は、なんだか、最近の日本の姿と、あまり変わらないように思った。
本書に描かれた中世の人々は、宗教的・呪術的行為に大きく依存するなど、現代人と異なる点もある一方で、経済的な「利」に関するしたたかさは、ほとんどわれわれと変わらない。百姓たちは、飢饉を理由に荘園領主から「損免」(控除、年貢の減額)を勝ち取るべく、必死の政治闘争を行った(だから、彼らの訴えた飢饉の窮状を額面どおり受け取ってはならないのだそうだ)。荘園領主も、自分たちの生活がかかっている以上、必死である。東寺の僧侶たちには、京都と荘園(生産地)の米価の差に着目し、少ない年貢米でも京都に運ばれてくる代銭の総額はさほど減少しないのではないか、と細かく気をつかった議論をしていた記録もあるという。うーん、ちょっと東寺を見る目が変わってしまうな…。
生産地が先に飢え、列島の富(食物)が京都に集中していたこと、やがて、その富を追って、難民たちが京都を目指し始めること。これも今日の、開発途上国と先進国の構図にぴたりと収まる。興味深いのは、人々が、京都を「富の集積地」であると同時に「有徳人の集住地」と考えていた、という著者の指摘である。有徳人、つまり富裕者は「相応の徳を社会に示す必要があると考えられていた」という。
こう書くと穏やかな思想に聞こえるが、持てる富を出そうとしない富裕者に対して、難民・窮乏者は、暴力に訴えても施行を求めていいと考えられていた。これって、近代史の小松裕さんが『「いのち」と帝国日本』で書いていた「集団の圧力による廉売強制」の話にも似ていると思った。また、最近のネットに頻出している、富裕者に対する怨嗟の声、あれは嫌だなあ、と思って読んでいるのだが、この時代まで遡る根の深い思想なのかもしれない。
『日本神判史』でファンになった”若旦那”清水克行氏の本2冊目。本書は、応永27年(1420)から翌28年にかけての大飢饉をドキュメンタリーふうに追いながら、中世日本人の生活と思想を多角的に論じたものである。
私のように、この時代の歴史をほとんど知らない素人には、びっくりするほど面白い話が次々と飛び出す。まずは「応永の大飢饉」が始まる1年前、謎の船影が対馬を襲い、次々と上陸を開始する。実は李氏朝鮮軍227艘による対馬侵攻だった(応永の外寇:ただし著者はこの用語を使用しない)。おおー村上龍の小説『半島を出よ』みたいじゃないか、と思った。詳細は『朝鮮王朝実録』(世宗実録)に記事があると書かれていたので、ネットで探してみた。翻刻文はすぐ見つかったが、ソウル大学奎章閣のサイトで見られるはずの画像は、なぜか表示できなかった。
それにしても、この事件の情報が京都に伝わったときは「蒙古の船500艘」に化けていたというのには驚いた。折り悪しく、室町幕府をめぐる対外関係は、対朝鮮のみならず、対中国も最悪で、明の永楽帝は足利義持に「せいぜい城壁を高くし、堀を深く掘って待っていろ」という恫喝の言葉を伝えているという。うわ~よしてくれ、よりによって、永楽帝に喧嘩を売るなんて、考えただけで冷や汗が出る。でも小説やドラマのネタとしては、ずいぶん面白そうだ。「辺境の地域紛争が日本を取り巻く世界帝国の巨大な陰謀として映り」「対外的な脅威と自国の優越だけがいたずらに誇張される」という著者の評は、なんだか、最近の日本の姿と、あまり変わらないように思った。
本書に描かれた中世の人々は、宗教的・呪術的行為に大きく依存するなど、現代人と異なる点もある一方で、経済的な「利」に関するしたたかさは、ほとんどわれわれと変わらない。百姓たちは、飢饉を理由に荘園領主から「損免」(控除、年貢の減額)を勝ち取るべく、必死の政治闘争を行った(だから、彼らの訴えた飢饉の窮状を額面どおり受け取ってはならないのだそうだ)。荘園領主も、自分たちの生活がかかっている以上、必死である。東寺の僧侶たちには、京都と荘園(生産地)の米価の差に着目し、少ない年貢米でも京都に運ばれてくる代銭の総額はさほど減少しないのではないか、と細かく気をつかった議論をしていた記録もあるという。うーん、ちょっと東寺を見る目が変わってしまうな…。
生産地が先に飢え、列島の富(食物)が京都に集中していたこと、やがて、その富を追って、難民たちが京都を目指し始めること。これも今日の、開発途上国と先進国の構図にぴたりと収まる。興味深いのは、人々が、京都を「富の集積地」であると同時に「有徳人の集住地」と考えていた、という著者の指摘である。有徳人、つまり富裕者は「相応の徳を社会に示す必要があると考えられていた」という。
こう書くと穏やかな思想に聞こえるが、持てる富を出そうとしない富裕者に対して、難民・窮乏者は、暴力に訴えても施行を求めていいと考えられていた。これって、近代史の小松裕さんが『「いのち」と帝国日本』で書いていた「集団の圧力による廉売強制」の話にも似ていると思った。また、最近のネットに頻出している、富裕者に対する怨嗟の声、あれは嫌だなあ、と思って読んでいるのだが、この時代まで遡る根の深い思想なのかもしれない。