○国学院大学博物館 平成28年度特別展『火焔型土器のデザインと機能 Jomonesque Japan 2016』(2016年12月10日~2017年2月5日)
最終日に滑り込みで見てきた。信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化が文化庁の日本遺産に認定されたことを記念し、その実態と魅力を多面的に紹介する展覧会。SNSなどでかなり話題になっていたが、行ってみてよかったと思う。展示品は71件で、全て新潟県(新潟県立歴史博物館、十日町市博物館、長岡市馬高縄文館、津南町教育委員会など)から持ってきたものだ。「火焔型土器」と「王冠型土器」が合計25件。ほかに土偶や土器、石棒や磨石などがあり、いずれも縄文時代中期(約五千年前)の考古遺物である。
火焔型土器は、上部の4か所(原則)に鶏冠のような大ぶりの把手(突起)があり、把手以外の口縁部は鋸の歯状をしている。一方、王冠型土器は、同様に上部の4か所が立ち上がっているが、火焔型土器ほど複雑な形状ではなく、口縁部は滑らかで鋸の歯状の装飾がない。一見、よく似ているが、説明を読むと、なるほど違うものだということが分かる。あと、Wikipediaによると、1936年に新潟県長岡市の馬高遺跡で発見された出土第1号の土器のみを「火焔土器」と通称し、他を「火焔型土器」と呼ぶ慣習が一部にあるそうだ。え?と思って、本展の出品目録を見直してみたら、1件だけ分類が「火焔土器」になっているものがあったが、会場のどこにあったもののことか、記憶がはっきりしない。
本展では「数」の迫力に圧倒された。私は、完全な火焔型土器というのは、数点しか現存しないものだと勝手に思い込んでいた。それが、近い関係にある王冠型土器を含め、狭い展示スペースに二十件以上並んだ迫力! むかし、中国・四川省の三星堆遺跡の文物が紹介され始めた頃、現地の博物館で、異様な造形の仮面がごろごろ発掘されているのを見て呆れたことを思い出した。そして、芸術的鑑賞に堪える、シュッとした火焔型土器ばかりでなく、何か「民芸」的に間の抜けた火焔型土器もあるのだと分かって面白かった。私は、後者の造形がけっこう好きである。火焔型土器は、上部の広がった深鉢形(ゴージャスなクリームパフェみたい)が典型的だが、植木鉢のようなずん胴型や、まれに浅い鉢形もあることを知った。
なお、同館は常設展示の考古ゾーンにも多数の縄文土器が展示されており、前期(1万5,000年前)→中期(5,000年前)→後期→晩期と造形の変遷を追うことができる(時代区分は諸説あり)。火焔型土器を含む中期がいちばん装飾的。解説によれば、日本列島では1万6,000年前に土器が出現しており、中国の華中・華南、ロシアのアムール川流域でも1万2,000年前を超える土器が出土している。東アジアは「世界最古の土器の起源地」であるとの説明に、しみじみ感じ入る。
最後に、もう一度、特別展のエリアに戻ってきて「火焔型土器が日本遺産になるまで」という年表パネルを見つけて、微笑んでしまった。「1936年 12月31日に近藤篤三郎が馬高遺跡で火焔土器を発掘したと伝えられる」「1951年 火焔土器が学校教科書(高等学校 日本史)にはじめて掲載される」などはともかく、「1976年 水木しげるが火焔型土器をマンガに描く(縄文少年ヨギ)」「1977年 手塚治虫が火焔型土器をマンガに描く(三つ目がとおる)」「1978年 諸星大二郎が火焔型土器をマンガに描く(孔子暗黒伝・東夷伝)」などなど。年表を作った学芸員さんの火焔型土器愛が伝わってくるようである。私が使った教科書にも火焔型土器は載っていたかも知れないが、どちらかといえば、こうしたマンガを通じて、火焔型土器のビジュアルイメージを記憶に刻んできたような気がする。
1964年の東京オリンピックの聖火台に火焔型土器のデザインが提案されていたことは初めて知った。結局、採用されなかったようだが、同じ年の新潟国体では、本当に火焔型土器のかたちをした炬火台が使われた(ネットで検索すると写真あり)。1993年の石川国体でも通称「お魚土器」(王冠型土器)のデザインが使われている。でも、土器は煮炊きの容器であって、その中で火を燃やすのは違うんじゃなかろうか?
最終日に滑り込みで見てきた。信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化が文化庁の日本遺産に認定されたことを記念し、その実態と魅力を多面的に紹介する展覧会。SNSなどでかなり話題になっていたが、行ってみてよかったと思う。展示品は71件で、全て新潟県(新潟県立歴史博物館、十日町市博物館、長岡市馬高縄文館、津南町教育委員会など)から持ってきたものだ。「火焔型土器」と「王冠型土器」が合計25件。ほかに土偶や土器、石棒や磨石などがあり、いずれも縄文時代中期(約五千年前)の考古遺物である。
火焔型土器は、上部の4か所(原則)に鶏冠のような大ぶりの把手(突起)があり、把手以外の口縁部は鋸の歯状をしている。一方、王冠型土器は、同様に上部の4か所が立ち上がっているが、火焔型土器ほど複雑な形状ではなく、口縁部は滑らかで鋸の歯状の装飾がない。一見、よく似ているが、説明を読むと、なるほど違うものだということが分かる。あと、Wikipediaによると、1936年に新潟県長岡市の馬高遺跡で発見された出土第1号の土器のみを「火焔土器」と通称し、他を「火焔型土器」と呼ぶ慣習が一部にあるそうだ。え?と思って、本展の出品目録を見直してみたら、1件だけ分類が「火焔土器」になっているものがあったが、会場のどこにあったもののことか、記憶がはっきりしない。
本展では「数」の迫力に圧倒された。私は、完全な火焔型土器というのは、数点しか現存しないものだと勝手に思い込んでいた。それが、近い関係にある王冠型土器を含め、狭い展示スペースに二十件以上並んだ迫力! むかし、中国・四川省の三星堆遺跡の文物が紹介され始めた頃、現地の博物館で、異様な造形の仮面がごろごろ発掘されているのを見て呆れたことを思い出した。そして、芸術的鑑賞に堪える、シュッとした火焔型土器ばかりでなく、何か「民芸」的に間の抜けた火焔型土器もあるのだと分かって面白かった。私は、後者の造形がけっこう好きである。火焔型土器は、上部の広がった深鉢形(ゴージャスなクリームパフェみたい)が典型的だが、植木鉢のようなずん胴型や、まれに浅い鉢形もあることを知った。
なお、同館は常設展示の考古ゾーンにも多数の縄文土器が展示されており、前期(1万5,000年前)→中期(5,000年前)→後期→晩期と造形の変遷を追うことができる(時代区分は諸説あり)。火焔型土器を含む中期がいちばん装飾的。解説によれば、日本列島では1万6,000年前に土器が出現しており、中国の華中・華南、ロシアのアムール川流域でも1万2,000年前を超える土器が出土している。東アジアは「世界最古の土器の起源地」であるとの説明に、しみじみ感じ入る。
最後に、もう一度、特別展のエリアに戻ってきて「火焔型土器が日本遺産になるまで」という年表パネルを見つけて、微笑んでしまった。「1936年 12月31日に近藤篤三郎が馬高遺跡で火焔土器を発掘したと伝えられる」「1951年 火焔土器が学校教科書(高等学校 日本史)にはじめて掲載される」などはともかく、「1976年 水木しげるが火焔型土器をマンガに描く(縄文少年ヨギ)」「1977年 手塚治虫が火焔型土器をマンガに描く(三つ目がとおる)」「1978年 諸星大二郎が火焔型土器をマンガに描く(孔子暗黒伝・東夷伝)」などなど。年表を作った学芸員さんの火焔型土器愛が伝わってくるようである。私が使った教科書にも火焔型土器は載っていたかも知れないが、どちらかといえば、こうしたマンガを通じて、火焔型土器のビジュアルイメージを記憶に刻んできたような気がする。
1964年の東京オリンピックの聖火台に火焔型土器のデザインが提案されていたことは初めて知った。結局、採用されなかったようだが、同じ年の新潟国体では、本当に火焔型土器のかたちをした炬火台が使われた(ネットで検索すると写真あり)。1993年の石川国体でも通称「お魚土器」(王冠型土器)のデザインが使われている。でも、土器は煮炊きの容器であって、その中で火を燃やすのは違うんじゃなかろうか?