○北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』(岩波新書) 岩波書店 2012.10
本書が刊行されてしばらくは、読もうか、どうしようか、悩んでいた。文禄の役/壬辰倭乱(1592年)と慶長の役/丁酉倭乱(1598年)という、日本人の野望が招いた戦乱が、朝鮮の民衆に甚大な損害を与えたことは事実で、彼の国の子孫のみなさんには、申し訳なかったと思う。しかし、一方で、この時代の戦争を、近代の非戦主義から悪徳呼ばわりすることにも、私は違和感がある。
本書の立場はどちらであるか。「はじめに」を読み始めてすぐ、戦功の証しとして指示された鼻切りが非戦闘員の民衆に及んだことに触れ、鼻を削がれて生きながらえた人々の「苦悩や思うにあまりある」という一節に行き当たったときは、やっぱり非戦主義か、ずっとこの調子だと鬱陶しいな、と警戒した。しかし、これは杞憂だった。
第1章、第2章は、秀吉の第一次朝鮮侵略(文禄の役)と第二次朝鮮侵略(慶長の役)の発端から収束までを記す。著者の感想めいた言葉は一切なく、淡々と事実のみが記述されている。初めて知ることが多くて、面白かった。第一次朝鮮侵略の日明講和交渉で、秀吉は、明皇帝の公主(皇帝の姫)を日本天皇(後陽成天皇)の妃とすることを要求している。明皇帝って万暦帝か。実現してたら面白かったのに~と無責任に思う。もっとも、このときの明講和使節は偽物だったというのも驚きだ。
第3章は、名将・李舜臣の戦いぶりを、独立した1章でまとめて語る。ただ、第2章で日本軍が撤退を決めるまでの間に、あまり李舜臣が登場しないので、李舜臣の存在が、この戦いで重要だったのかどうかが、いまひとつ納得できない。「乱中日記」という日記が残っているんだな。でも、今の韓国人で漢文の読める者は少ないんだろうなあ、残念なことに。
さらに第4章では、この「乱中日記」から、李舜臣の水軍を支えた人々、船大工や弓匠などの職人集団、船漕ぎたちの実像を明らかにしていく。朝鮮では、陸軍は門閥の子孫だが、水軍は身分の職業だった。へえ~日本の水軍はどうだったんだろう。また、李舜臣の水軍の船漕ぎには、や「鮑作人」と呼ばれる沿海の民(船の扱いに熟練した水上生活者)が徴用されていた。小説のネタになりそうな話だ、と思った。
第5章では「降倭」すなわち、日本の陣営から朝鮮あるいは明側に投降した将卒や雑役夫などの日本人について語る。敗色濃厚となって、取り残された日本人がいたという話は聞いていたが、積極的に投降した将卒もいたことは初耳。著者は降倭を、耕地や官職を与えられて土着し、朝鮮人に同化していった幸せな降倭と、過酷な運命に遭った兵卒労役型の降倭に分類している。後者の中でも、何も特技のない者は、消耗品として朝鮮水軍に配置され、さらに女真への防備問題が起きると、辺境の防衛軍として動員されたという。しかし辺境で生き抜いた者も少数はいたのではないか。ここでも、つい小説的妄想が湧き出てくるのを抑えがたい。女真族に投降し、ついに山海関を越える日本人とかね…。
逆に、これも知らなかったことだが、日本の兵卒に変装して略奪行為を行った朝鮮人や、さらには、日本軍の間諜となったり、抗日活動家を密告した朝鮮人もいたそうだ。特に朝鮮東北部においては、朝鮮国家の中央から派遣された官僚と、在地勢力(女真族を含む)の間に軋轢があり、中央政府への反感を抱く者が、侵略軍である日本軍の傀儡となる事態が生じた。この地域(咸鏡道)に駐屯した加藤清正は、「日本にては八丈が嶋、硫黄が嶋などの様なる流罪人の配所(中略)帝王は我々為には代々の敵」と、鋭い観察を残している。
つまり、「日本」がまだ形成途上であったと同様に、「朝鮮」という国家も、さまざまな集団が混沌と寄り集まっている状態だったんだな、と思った。宣祖25年(1592)4月30日、朝鮮国王都落ちの直後には、乱民が宮中に放火し、国王の私庫から宝物を奪い取った。また身分差別の根底にあった戸籍を焼き払うたちもいたという。これは「おわりに」にある記述で、明記されていないけど出典は「実録」かな? 未確認。
戦乱の中でも、図太く、こずるく、したたかに生きる下層民たち。著者の表現を借りれば「必ずしも国家への忠義を第一とするわけではない。まず自分の生命と生活の安全を優先する」態度が、私は嫌いではない。それにしても、秀吉の朝鮮出兵の波紋を、武将たちだけでなく民衆の経験を交えて、面白く描いた小説ってないものだろうか。
本書が刊行されてしばらくは、読もうか、どうしようか、悩んでいた。文禄の役/壬辰倭乱(1592年)と慶長の役/丁酉倭乱(1598年)という、日本人の野望が招いた戦乱が、朝鮮の民衆に甚大な損害を与えたことは事実で、彼の国の子孫のみなさんには、申し訳なかったと思う。しかし、一方で、この時代の戦争を、近代の非戦主義から悪徳呼ばわりすることにも、私は違和感がある。
本書の立場はどちらであるか。「はじめに」を読み始めてすぐ、戦功の証しとして指示された鼻切りが非戦闘員の民衆に及んだことに触れ、鼻を削がれて生きながらえた人々の「苦悩や思うにあまりある」という一節に行き当たったときは、やっぱり非戦主義か、ずっとこの調子だと鬱陶しいな、と警戒した。しかし、これは杞憂だった。
第1章、第2章は、秀吉の第一次朝鮮侵略(文禄の役)と第二次朝鮮侵略(慶長の役)の発端から収束までを記す。著者の感想めいた言葉は一切なく、淡々と事実のみが記述されている。初めて知ることが多くて、面白かった。第一次朝鮮侵略の日明講和交渉で、秀吉は、明皇帝の公主(皇帝の姫)を日本天皇(後陽成天皇)の妃とすることを要求している。明皇帝って万暦帝か。実現してたら面白かったのに~と無責任に思う。もっとも、このときの明講和使節は偽物だったというのも驚きだ。
第3章は、名将・李舜臣の戦いぶりを、独立した1章でまとめて語る。ただ、第2章で日本軍が撤退を決めるまでの間に、あまり李舜臣が登場しないので、李舜臣の存在が、この戦いで重要だったのかどうかが、いまひとつ納得できない。「乱中日記」という日記が残っているんだな。でも、今の韓国人で漢文の読める者は少ないんだろうなあ、残念なことに。
さらに第4章では、この「乱中日記」から、李舜臣の水軍を支えた人々、船大工や弓匠などの職人集団、船漕ぎたちの実像を明らかにしていく。朝鮮では、陸軍は門閥の子孫だが、水軍は身分の職業だった。へえ~日本の水軍はどうだったんだろう。また、李舜臣の水軍の船漕ぎには、や「鮑作人」と呼ばれる沿海の民(船の扱いに熟練した水上生活者)が徴用されていた。小説のネタになりそうな話だ、と思った。
第5章では「降倭」すなわち、日本の陣営から朝鮮あるいは明側に投降した将卒や雑役夫などの日本人について語る。敗色濃厚となって、取り残された日本人がいたという話は聞いていたが、積極的に投降した将卒もいたことは初耳。著者は降倭を、耕地や官職を与えられて土着し、朝鮮人に同化していった幸せな降倭と、過酷な運命に遭った兵卒労役型の降倭に分類している。後者の中でも、何も特技のない者は、消耗品として朝鮮水軍に配置され、さらに女真への防備問題が起きると、辺境の防衛軍として動員されたという。しかし辺境で生き抜いた者も少数はいたのではないか。ここでも、つい小説的妄想が湧き出てくるのを抑えがたい。女真族に投降し、ついに山海関を越える日本人とかね…。
逆に、これも知らなかったことだが、日本の兵卒に変装して略奪行為を行った朝鮮人や、さらには、日本軍の間諜となったり、抗日活動家を密告した朝鮮人もいたそうだ。特に朝鮮東北部においては、朝鮮国家の中央から派遣された官僚と、在地勢力(女真族を含む)の間に軋轢があり、中央政府への反感を抱く者が、侵略軍である日本軍の傀儡となる事態が生じた。この地域(咸鏡道)に駐屯した加藤清正は、「日本にては八丈が嶋、硫黄が嶋などの様なる流罪人の配所(中略)帝王は我々為には代々の敵」と、鋭い観察を残している。
つまり、「日本」がまだ形成途上であったと同様に、「朝鮮」という国家も、さまざまな集団が混沌と寄り集まっている状態だったんだな、と思った。宣祖25年(1592)4月30日、朝鮮国王都落ちの直後には、乱民が宮中に放火し、国王の私庫から宝物を奪い取った。また身分差別の根底にあった戸籍を焼き払うたちもいたという。これは「おわりに」にある記述で、明記されていないけど出典は「実録」かな? 未確認。
戦乱の中でも、図太く、こずるく、したたかに生きる下層民たち。著者の表現を借りれば「必ずしも国家への忠義を第一とするわけではない。まず自分の生命と生活の安全を優先する」態度が、私は嫌いではない。それにしても、秀吉の朝鮮出兵の波紋を、武将たちだけでなく民衆の経験を交えて、面白く描いた小説ってないものだろうか。