見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

滝の湯さん、解体中

2006-05-21 21:02:03 | なごみ写真帖
鎌倉駅西口、御成通りの銭湯「滝の湯」さんの解体が始まっていると聞いて見に行った。
数年前から廃業を宣言しては、惜しまれて、営業を続けていた銭湯である。逗子に住んでいた頃、一度、入りに来てみたいと思いながら、機会がないままになってしまった。冷やかしで入口をくぐるには、あまりにレトロな構えだったので。



というわけで、初めて見る屋内。天井から下がっった扇風機。



跡は何になるのかなあ。
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明治の「め」の字は/大江戸曲者列伝・幕末の巻(野口武彦)

2006-05-20 22:08:15 | 読んだもの(書籍)
○野口武彦『大江戸曲者列伝・幕末の巻』(新潮選書) 新潮社 2006.2

 『太平の巻』の続き。時代は幕末。世相はいよいよ混迷の度を深め、さまざまに個性的な登場人物が駆け抜ける。梶原雄之助という(たぶんそれほど有名人ではないと思うが)幕府歩兵隊の”鬼軍曹”を扱った章の最後に、この言葉があった。明治の「め」の字はメチャクチャの「め」である。

 笑った。全くそのとおりだ。私は、明治というのは、大正や昭和に比べて、間違いの少ない「偉大な時代」だと思っていた。ところが、どうもそうではないらしい、ということに気づいたのは昨年あたりからである。

 明治に先立つ江戸の末期。これは「政治・経済・社会のすべてにわたる多臓器不全の時代」だった。なんだか今の日本にも似ている。そして、徳川幕府が、ついにこの病根を取り除くことができなかったのは、成熟した都会文明が「クソマジメ」な療治を嫌ったためだという。旗本たちは真剣な話が苦手。当事者感覚はゼロ。冷笑こそが「洒脱」でカッコイイ。その結果、江戸の主人は入れ替わり、庶民は大量の失業と社会不安に追い落とされた。

 確かに、幕末の江戸人の狂躁的な「不真面目」には、うんざりするものがある。かと言って、「クソマジメ」の果ては『夜明け前』の青山半蔵の狂気ではなかったか。特別な才能のない庶民が、時代の変わり目に生きるのは、どっちにしても大変なことだ。

 本書に登場する何人かは、幕末の混迷を生き抜いて、明治の元勲と呼ばれた。たとえば、初代総理大臣の伊藤博文。若い頃は過激な尊攘派の志士で、イギリス公使館焼き打ちに参加したことは、よく知られた逸話であるが、実際に人を斬ったこともあるという。斬られたのは、塙保己一の息子の塙次郎。うーむ。明治政府の初期って、自ら手を下して人を斬った経験のある者が総理大臣になってたのか。後年、伊藤は安重根に暗殺されるが、テロリスト上がりの宰相がテロリストに殺害されたわけだ。だからテロを正当化できるというのではないが、そのとき、伊藤の内心には、殺人から遠い日常に暮らす我々には理解しがたい思いが去来していたのではないかと思った。

 伊藤もそうだが、池田長政(外交交渉のため、フランスを訪れた徳川使節団の正使)とか、山口直毅(兵庫開港を求めて大阪湾に入港した四ヶ国艦隊と交渉した責任者)とか、幕末の外交官は、苦労のわりに、後世の評価で報われていないなあ、と思った。しかし、欧米諸国を教師に、外交のイロハを教わっていた日本が、今や国連の常任理事国でないのは「納得できない」と考える人が多い(最近のYahoo!投票)というんだから、変われば変わったものである。
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紀伊國屋セミナー・批評・教養の〈場〉再考/再興

2006-05-18 21:59:34 | 行ったもの2(講演・公演)
○紀伊國屋セミナー・書物復権2006 第1回『批評・教養の〈場〉再考/再興』

http://www.kinokuniya.co.jp/01f/fukken/index.html

 5月16日に、佐藤学、姜尚中、高橋哲哉の三氏による鼎談を聴きに行った。名著の復刻をこころざす出版社の共同企画「書物復権」の関連イベントである。昨年の『日本美術の愉しみ』に続き、2回目だが、今回は「教養の復権」という、「書物復権」企画の趣旨に真正面から斬り込んだテーマが設定されている。

 佐藤学氏の問題提起は、上記サイトにまとめられているとおり。かつて全共闘世代は、大学から「教養」を投げ捨てようとした。しかし、全共闘世代の戦果など微々たるものであった。教養の崩壊は、80年代から90年代にかけて、我々が事態を甘く見ている間に、またたく間に社会に蔓延してしまった。大学、政治家、そして書物と出版の周辺について、そのような状況があることを三氏は確認しあう。

 教養の復権は確かに重要である。しかし、「伝統」を呼び込むだけの復古主義であってはいけない。必ず「批判」が伴わなければいけない。教養を形づくるものは読書である。読書は孤独と沈黙の営為である。しかし、孤独や沈黙に、何かを生み出すための積極的な意味があるということが、なかなか理解されなくなっている。大学経営者が「情報発信」を言いたがるのもそのひとつではないか。これは姜尚中氏の発言。

 「貴方と私は、異なる」という批判を、「いじめ」のように考える層が増えている。批判哲学と呼ばれるカント哲学は、「分けること」から始まる。ヘーゲルが重視する精神の自己運動(Bildung 陶冶、教養)は、他者の発見が契機となる。自分と同じ意見を持つ者と群れ集うだけでは、教養は生まれない。これは高橋哲哉氏の発言。

 「長く読み続けてもらえる本が書きたい」という佐藤氏に対して、「僕自身は古典にならなくてもいい。アクチュアルな問題を扱いながら、そのアクチュアルな問題が、古典につながっているということを示したい」という姜氏。「僕は哲学者だから、抽象的な思考を重んじるけれど、もっと重要なのは史料を読み、歴史から学ぶことである」という高橋氏。

 三者三様の「教養の復権」に対する思いが交錯して、あっという間の1時間半が過ぎてしまった。議論の深まりが足りなくて、ちょっと物足りなかったが、佐藤学氏が述べた、「書物と教養の復権のために、我々(知識人、大学人)は、もっと魅力的にならなければならない」という決意表明に期待したい。

 終了後は、三人ともロビーに下りて来て、帰りがけの聴衆に混じり、会話を交わしてくださった。オペラか演奏会の後のようで、興奮さめやらず、楽しい一夜だったと思う。
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金地屏風に囲まれて/静嘉堂文庫美術館

2006-05-17 22:02:27 | 行ったもの(美術館・見仏)
○静嘉堂文庫美術館 『国宝 関屋澪標図屏風と琳派の美』

http://www.seikado.or.jp/

 日曜日、久しぶりに遠出をするか、この展覧会の最終日を見に行くか、迷った末に後者に決めた。展示室に入って、ほっと息をついた。正面に大きな六曲一双の『関屋澪標図屏風』。その隣も光琳の『紅白梅図屏風』『桜鹿・紅葉鶴図屏風』と続き、展示室全体が金色に照り映えているのである。しかし、屏風の金色は、メタリックな金とは明らかに違う。なるほど、金地屏風や障壁画というのは、暗い日本家屋に、品のよさと優しいぬくもりを加えるものだったのだな、ということを実感する。

 今展の見ものである『関屋澪標図屏風』。こんなにいいとは思わなかった。大きな画面に少ない色で描かれた作品である。山・海・橋などの景物は大胆にデザイン化されている。人物は小さくて、広い箱庭に置かれたフィギュアみたいに頼りない。しかも、源氏をはじめとする主要人物は、全て車や船によって暗示されているだけで、表に出てこない。「主人公の不在」が、画面に茫漠としたムード(日本人好みの情趣)を与えているように思う。

 というようなことを考えながら、壁の解説を読んでみた。この屏風の特徴として、まず、金雲が一切使われていないことが挙げられている。なるほどね。にもかかわらず、主人公の姿が画面のどこにも見えない、というのが、ポイントなのではないかしら。

 それから、人物の大部分と景物の一部は、古い絵巻物を典拠としているという指摘。これは、いちいち具体例が示されていた。すごいなあ~。日本の絵画が、このように先行作品を利用していることは、私も気づいていたけれど、文字資料と違って索引が作れないから、結局、記憶をたよりに探していかなければ、典拠は発見できない。よくこれだけ見つけたなあ、と思った。

 また、この『関屋澪標図屏風』は、どちらが右隻・左隻か、分かっていないので、前期と後期で、並べ方を変えてみたそうだ。なかなか面白い試みである。うーむ。私はパネルで見る限り、後期の並べ方(左:澪標-右:関屋)のほうがいいと思う。「源氏物語」の進行では、第14 帖「澪標」→第16帖「関屋」だから、逆ですね。

 後半は、酒井抱一、鈴木其一らの彩色画に、茶道具・蒔絵なども展示されていた。圧巻だったのは、酒井抱一の『波図屏風』。銀地に墨筆で波を描いたもの。彩色は、わずかに波頭に胡粉(白絵具)、全体に淡い緑青が塗られているだけである。触れば掌が張り付きそうな、ひやりとした金属的な触感がある。

 このあと、最初に戻って、好きな『平治物語絵巻・信西巻』をじっくり見たが、それはまた別稿にて。
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学者の小話/大江戸曲者列伝・太平の巻(野口武彦)

2006-05-16 23:00:51 | 読んだもの(書籍)
○野口武彦『大江戸曲者列伝・太平の巻』(新潮選書) 新潮社 2006.1

 『長州戦争』(中公新書 2006.3)が面白かったので、しばらく野口武彦さんに付き合ってみようと思う。本書は、雑誌「週刊新潮」に連載された江戸時代のゴシップ集である。

 一流の学者が、筆のすさびに書いた小話は面白い。というか、こういう小話をたくさん書ける学者こそ、一流の学者だと、どこかで私は信じている。ネタ元はいちいち明らかにされていないが、それなりに同時代の資料があるのだろう。たぶん、掃いて捨てるほどの嘘八百の中から、キラリと光る鋭い観察を掬い上げるのが、著者の技量である(たとえその逸話が真実でなくても)。

 登場人物は有名無名さまざまだが、あまりカッコいい話はない。だいたい、旗本とか大名と呼ばれる人々は、今の官僚と同じで、陰険、強欲かつ小心である。ときどき、気の毒なほど、みっともないことをしでかしてくれる。日本の歴史は、こんなふうに作られてきたのかと思うと、ほろ苦い。こういうのも、自虐史観というのかしら。

 通常、貶められることの少ない大学者に対しても、著者の筆は厳しい。家康のために方広寺鐘銘事件を演出した林羅山とか、プライドが高くて就職しなかった太宰春台とか、老害をふりまいた佐藤一斎とか。

 例外的に颯爽とした姿で一話をシメるのは、幕末の英才・安藤長門守くらいか。個人的には「いつも万葉気分」の平賀元義も好きだ。この位くらい屈託がないと、文句のつけようがない。

 頼山陽の愛人の江馬細香とか、教養あふれる日記を残した井関隆子とか、数は少ないけど、女性のほうが溌剌と書かれているかな。いや、一方には愛欲地獄みたいな本寿院の逸話も伝えられる(晩年は幽閉され、庭のモミの木によじのぼり、切なげに身悶えしていたというこの話、どこかで読んだことがあるなあ)。
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江戸絵画、探検中/大倉集古館

2006-05-15 22:39:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
○大倉集古館 『播磨ゆかりの江戸絵画-応挙・蘆雪・若冲を中心として-』

http://www.hotelokura.co.jp/tokyo/shukokan/

 なぜ播磨なのかは、結局よく分からなかったが、応挙・蘆雪・若冲などが出ているらしいので、見に行った。はじめに、小さな水墨画『百合図』があって、曾我蕭白だというので驚いた。筆を使わず、指で描く指頭画という技法で、たどたどしい描線が可憐である。その横に、妙に美形の羅漢図があって、若冲だというので、また驚いた。現代のマンガみたいにはっきりした線で輪郭を描き、まわりを薄墨で塗りつぶしたヘンな絵である。

 それから、田能村直入(田能村竹田の養嗣子らしい)が明治に描いた『万里長城図巻』というのがあった。考えてみれば、万里の長城って、中国でも日本でも、近代以前は絵画の素材になっていないなあ。それなのに、この作品は、どうして出来たのだろう?とちょっと興味深く思った。

 1階展示室の見ものは、長澤蘆雪の『方広寺大仏殿炎上』であろう。ふーん。蘆雪って、こんな作品も描いたのか。時事性もあり、かつ芸術的完成度の高い不思議な作品だ。解説に言うように「極限まで絞られた彩色筆致」が見事である。よく見ると、炎上する建物部分は、墨色と朱色の配置が緻密な計算で成り立っており、対照的に、大きく立ち上がった炎と煙は、即興に任せている。上記のサイトに一応、写真があるけれど、これは原寸大で見ることを推奨する。

 2階にあがると、いかにも蘆雪らしい虎の絵(跳ね起きて、画面から飛び出しそうだ)、いかにも若冲らしい鶏と鶴(このデフォルメはすごい)、それから白隠らしい布袋などが待っている。

 そのほか、森徹山、森狙山、高橋草坪、福田半香、木下逸雲、鉄翁祖門など、気になった画家の名前をメモしてきた。私にとって、江戸絵画の探検は、まだまだこれから。
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名品に向き合う/出光美術館

2006-05-14 20:41:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
○出光美術館 『開館40周年記念名品展』第1弾

http://www.idemitsu.co.jp/museum/

 開館40周年を記念する名品展である。既に見てきた友人からは「後期のほうがいいかも」という忠告を受けていたが、やっぱり行ってしまった。

 いつもと異なる順路で、展示室3が「仏画」と「絵巻物」。展示室2に進むと「茶道具」。「茶掛」(茶席に掛ける掛軸)つながりで、日本の書画と中国絵画も展示されている。最後の展示室3は、周囲に「室町屏風」、中央に「中国陶磁」という構成である。

 最大のお目当ては『伴大納言絵巻』だったが、一目見てガッカリ。ええ~ケチ!これだけしか開けてくれないの!という気持ちだった。見ることができるのは、応天門炎上の火柱を挟んで、左右に野次馬が集う場面だけである。ほかの絵巻なら、ある程度の幅で、1場面1場面が完全に切り替わり、物語が進行していくので、こういう見せ方で十分である。しかし、この絵巻に限っては、とにかく始まりから一気呵成に場面が続いていく「想定外」の連続性を味わうのでないと――。そのへんは、今秋の『伴大納言絵巻展』を待て、ということかしら。

 しかし、やっぱり人々の表情はいいなあ。右へ左へ、舞い散る火の粉を追う人々の顔の向きに従って、黒い烏帽子がさまざまな方向を向いているのも面白い。火柱を挟んで、右手の群集と左手の群集では、少し社会的階層が違うように思われる。ところで、人々の装束を見ると、藍地に白の小紋とか、タータンチェック風とか、けっこう柄物が混じっている。これはどうなんだろう。史実の応天門事件(866) の頃の庶民って、こんな着物を着ていたのだろうか? 後世の人が塗り絵しちゃったなんてことはないよね?

 出光美術館には何度も足を運んでいるのに、今回、初めて見る(と思われる)作品が、いくつもあった。ひとつは徐祚筆『漁釣図』。白衣の男が四角く身を屈めて、じっと釣糸を垂れている。丈の高い枯れ草との対比で、男の姿は、コロボックルか何かのように小さく見える。言葉にすればそれだけだが、絹本の暗い画面に漂うメランコリーが美しい。

 相阿弥という画家も、これまであまり気にしたことがなかったが、『瀟湘八景図』はいいなあ。描かれているのは、城壁や城門からして中国のつもりなんだろうけど、丸みを帯びた山容、ちょびちょびと申しわけに生えた木々は、どこか和風である。霞む風景は春の朧夜か。

 ところで、近年、出光美術館は「読ませる解説」が非常に充実していたが、この名品展は、一切、個別作品の解説がない。私は、こういうスタイルは、スッキリしていて気持ちがいいと思う。まず、自分の眼力で展示品に向き合おうという気持ちになれる。でも、意外に観客が少なかったことに驚いた。雨のせいかしら。
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東アジアの共有財産/漢文の素養(加藤徹)

2006-05-13 21:40:56 | 読んだもの(書籍)
○加藤徹『漢文の素養:誰が日本文化をつくったのか?』(光文社新書) 光文社 2006.2

 今朝、たまたま、ネットを開けたら、次のような記事が上がっていた。

■台湾、止まらぬ「簡体字」浸透 中国の“文化侵攻”に危機感も(産経新聞)
http://www.sankei.co.jp/news/060513/kok006.htm

 3年前に台北市内に簡体字の専門書店が出現したのがきっかけで、中国で使われる「簡体字」が、台湾にじわじわと浸透している、というものだ。だが、世論調査によれば、77%の台湾人が簡体字の使用拡大に否定的で、「選挙を控えて与野党の攻防が激しさを増す立法院(国会)でも、簡体字問題では党を超えて『拡大反対』で一致している」と、中共嫌いの産経らしく結んでいる。

 ふーむ。何年か前、村松伸さんの本だったか、いや、武田雅哉さんの本だったかな。逆に中国では、繁体字がカッコいいと思われて、どんどん増殖している、という記事を読んだことがある。どっちも本当なのだろう。便利なもの、カッコいいものに手を伸ばすのは人情である。お役所は余計なことを心配せずにほうっておけばいいのだと思う。

 今朝の「2ちゃんねる」では、この記事をマクラに、日本語における漢字・漢語の使用について、さまざまな意見がとびかっていた。私は、ちょうど本書を読み始めていたので、非常に興味深くそれらを読んだ。稚拙な意見や事実誤認もあったけれど、全体として真面目な書き込みが多くて感心した。

 本書は、日本における漢文の歴史を、遠い古代から今日まで、通史的に著述したものである。読みはじめは、ちょっと抵抗感があった。著者の専門は中国文学(演劇史)のはずである。『京劇』も『西太后』も面白く読んだ。しかし、卑弥呼や聖徳太子を語らせて大丈夫か?という不安があったのだ(失礼)。これは無用の心配。以下、各時代について、興味深いと思ったエピソードを挙げていこう。

 日本には、遅くとも二千年前までに漢字を書いたものが伝来していた。しかし、古代ヤマト民族は、漢字(文字)の使用に対して抑制的だった。伝承によれば、日本で本格的な漢字文化が始まるのは、応神天皇の時代(4世紀末~5世紀初?)、百済の王仁が『論語』『千字文』をもたらしたことによる。ここで著者は、古事記の記述の謙虚さに注目する。『千字文』といえば、子供向けの学習教材である。それを政府間レベルで輸入したなどと歴史書で公言している国は、日本くらいである、という。なるほど。

 奈良~平安は、漢文の黄金時代と言える。血筋や門閥が重視された日本では、科挙制度は成り立たなかった。しかし、政治家たるものは、漢文の素養を持たなければならない、という意識は、日本の貴族社会にも根付いた。

 中世の日本社会では、公家・寺家・武家という3つの権門が、統治権をめぐって、五百年もの間、争い続けた。このような国は(東アジアでは)日本だけだった、と著者はいう。中国や朝鮮では、純正漢文のリテラシーを独占した士大夫階級が早々と階級闘争の勝利者となり、そのまま近代を迎えた。日本では、長期にわたる階級闘争の副産物として、「充実した中級実務階級」が形成された。この中級実務階級が、のちに日本の近代化を支える国力となった、と著者は見るのである。中世から近代の始まりまでを、一息に把握するような考え方で、長いスパンで歴史を見ることに慣れた、中国研究者らしい発想だと思った。

 具体的なエピソードでは、懐良親王が明の洪武帝に書き送った漢文とか、武田信玄の抒情的な漢詩が収録されている。赤穂浪士の討入りが幕府に対する思想闘争の意味を持っていたこと、朝鮮の対日外交の機微を書いた柳成龍の著作や、中国では国家機密に属する「実録」もの(皇帝の事蹟記録)が、日本では堂々と出版されて一般書店で売られていた、というのも興味深い。

 近代に入ると、日本で作られた新漢語(西洋の思想や文物を漢訳したもの)が、多数、中国に逆輸出された。その結果、現代中国語の「高級語彙」は、半分以上が日本漢語であるという(この比率は、今後、落ちていくだろう。現代中国語の旺盛な造語力を見ていると)。一方、近代日本語の標準は、漢文訓読調を基本にして作られた。こうして振り返ると、なるほど「漢語・漢文」というのは、特定の国民の財産ではなくして、東アジア諸地域の人々が、共に作り上げてきた智恵の集積であるということを感じる。しかし、日本人の「漢文の素養」は、大正に入ると急速に衰え、今日に至る。

 最後に著者は、「東洋人のための教養」「生産財としての教養」「中産実務階級の教養」の3点から、漢字漢文の再評価を提唱している。「漢字漢文はコメのようなものだ。それが美味しくて、栄養になるなら、(好きなように料理して)食べればよい」というように。
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歌人・詩人・小説家/すばる歌仙(丸谷才一ほか)

2006-05-12 11:57:13 | 読んだもの(書籍)
○丸谷才一、大岡信、岡野弘彦『すばる歌仙』 集英社 2005.12

 「歌仙」というのは、五七五と七七を交互に詠んで36句を連ねる連句である。江戸時代には、俳諧といえば連句のことだったらしいが、近代以降、俳句は五七五で味わうものと決まってしまった。その結果、芭蕉や蕪村の「俳句」なら、小学生でも知っているのに、現代人が「連句」を学ぶ機会は、ほとんどない。

 唯一の例外が、丸谷才一さんの活動である。私は、余さず読んできたように思ったが、検索してみると『浅酌歌仙』(集英社 1988)、『とくとく歌仙』(文藝春秋 1991)の2冊しかない。あれー、そんなものだったか。いや、文芸評論と一緒に歌仙を収録したものが、もう1冊くらい、あったような気がする。明日、実家に戻って自分の書棚を探してみるとしよう。しかし、どちらにしても、1980年代からの活動だから息が長い。

 本書には、1999年から2005年の間に巻かれた5つの歌仙が収録されている。1999年だけは丸谷・大岡の2人で巻いたもので、2001年から岡野弘彦が加わった。岡野さんは折口信夫門下の歌人である(恥ずかしながら、私は本書で初めてお名前を知った)。

 過去の歌仙の参加者、石川淳や井上ひさしも面白かったが、この3人の組み合わせは、文学的にバランスが取れていて味わい深い。歌人(日本民俗学)の岡野弘彦、詩人(フランス象徴詩)の大岡信、小説家(イギリス風俗小説)の丸谷才一、という、際立った個性の違いが、しなやかな弓弦(ゆづる)のように、作品世界を気持ちよく振り動かす。

 私は、まず、歌仙だけを読む。句の意味や、どうしてAの句とBの句が並ぶのか、つながりを考えながら読む。それから座談形式の解説を読むと、当たっていることもあれば、全然当たっていないところもある。「屈託のない子と言はれ辞書を引き/泪羅(べきら)に身投げした人を識る」は、辞書で「屈託」を引くと、その少し前に「屈原」があるだろうから、という付け。丸谷さんらしい。

 「ここは斉藤茂吉の短歌が連想として働いていますね」「そうそう」なんて解説を読むと、たちまち、同じ字面から全く違った印象が立ち現れてくる。時には、あとで作者自身が「そうか、僕は茂吉の歌を念頭に置いていたのか」と確認している場面もあって、創作者の無意識の中を伝わり続ける、文学の伝統の不思議を実感させる。

 本書のおもしろさのひとつは、岡野弘彦さんの口から語られる、折口信夫と柳田国男の素顔の数々である。彼らは旅先の旅館で、電話を使って歌仙を巻いたという。「今ならケータイで歌仙を巻くかもしれない」というひとことを読んだとたん、いつも丸谷さんのエッセイの挿絵を描いている和田誠さんの絵が、ありありと浮かんでしまった。和田誠さん、描いてくれないかなあ。ケータイを使う、折口信夫と柳田国男の図。
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若冲の動植綵絵 ・第2期/三の丸尚蔵館

2006-05-11 23:42:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三の丸尚蔵館 第40回展『花鳥-愛でる心、彩る技<若冲を中心に>』

http://www.kunaicho.go.jp/11/d11-05-06.html

 このブログは、実際の生活に少し遅れながら、しかし、なるべく先後関係は守って書いている。というわけで、この日は連休最終日。動植綵絵・第2期でシメることにした。翌週の仕事をスムーズに始めようと思って、ちょっと職場に寄っていたら、東御苑に着いたのは午後4時近くになってしまった。慌てて、閉館間際の三の丸尚蔵館に飛び込む。

 人影もまばらになった館内には、時が凍結したような、色鮮やかな動植綵絵・第2期の6点が待っていた。今季の展示品は、『雪中鴛鴦図』『梅花皓月図』『梅花群鶴図』『棕櫚雄鶏図』『桃花小禽図』『菊花流水図』である。反射的に目に入ったのは『菊花流水図』だった。

 この絵を知ったのは古い。しかし、むかしは、あまり好きではなかった。若冲といえば、やっぱり『雪中錦鶏図』(第1期)のような、「執拗に写実を極めて幻想に突き抜けた」作品こそが華であると思う。『菊花流水図』は、極度に装飾化されていて、この動植綵絵シリーズの中では、やや異質なのだ。「琳派みたいな」と言おうと思ったが、ちょっと違う。むしろ20世紀の抽象画みたいだ。菊の花は、増殖したルドンの目玉みたいだし。

 若冲の『梅花群鶴図』に合わせたのか、応挙の『双鶴図』と狩野探信の『松薔薇に鶴・竹梅に鶴図』が並んでいる。鶴の顔を見比べてみるのも一興。応挙ののんびりして眠そうな鶴が微笑ましい。

 それから、作者表記のない『群鶴図屏風』に見とれてしまった。左右に細長い六曲一双の画面に、背毛の黒い鶴が群舞するさまを描いているのが、まるで金地に散らばった音符のようだ。足並みを揃えたり乱したり、首を立てたり、低くしたりする様子が、フーガとなって聴こえてくるようである。
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