見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

初訪問/古典籍展観大入札会・一般公開(古書会館)

2011-11-16 01:04:28 | 行ったもの(美術館・見仏)
○古書会館 平成23年度 東京古典会創立100周年記念『古典籍展観大入札会』一般公開(プレビュー)(2011年11月11日、12日)

 先だって、東京古典会の「和本シンポジウム」という貴重書展を見に行って、このイベントの存在を知った。13、14日の入札会は古書店業者しか参加できないが、その前の2日間は、誰でも参加できる「一般公開(プレビュー)」だという。「出品目録一覧」に上がっている資料が、あまりにもすごいので(図書館の貴重書庫、あるいは美術館でガラス越しに拝むしか縁のないようなもの多数)、本当?と疑心暗鬼で行ってみたら、本当だった。

 来場者は、1階のクロークで、コートや大きなバッグを預ける。貴重品は、貸してもらった透明のビニールバッグに入れて携帯する。会場内で使っていいのは鉛筆のみ。あと、ハンカチもあったほうがよい。準備はこれだけ。来客名簿の記帳もなく、入場無料である。プロの皆さんは、約2,000点の出品資料が掲載された、ぶあついカタログを購入して会場に向かうが、ひやかし目的の素人客は身軽である。そうは言っても、学芸員や研究職の方が多い雰囲気だった。

 会場は2~4階と地下1階。上から攻めていこうと思い、4階に上がる。150平米くらい(?)のホールの壁には、さまざまな軸物が掛けられ、4~5列に設けられた大きな平台には、巻子・冊子・摺りもの・秩入り・秩なしなど、各種形態の古典籍が、互いにぶつからない程度の距離で、雑然と並ぶ(近づいてみると、いちおう、地誌類とか医学本草類とか、主題で分類されていることが分かる)。そして、カタログ番号と書名等を記した封筒(入札で使うのだろう)が、無造作に添えられている。

 まず、壁の軸物から見ていこうと思ったら「○○切」と呼ばれる古筆や古写経の断簡、歴史上の著名人の書状などが目の当たりに下がっていて、たじろぐ。手を出して、ぺろっと撫ぜてみても、あまり怒られそうな感じがない(やらないけど…)。東京美術倶楽部の「東美アートフェア」に初めて行ったときも驚いたが、古書店主の書籍の扱いは、骨董店主が美術品を扱うより、もっと野放図な感じがする。いや、お客さんを信頼しているという意味で、うれしいのだけど…。

 もの慣れたお客さんは、興味のある商品があると、勝手に秩を外し、書籍を取り出して、中味を確かめている。私も二、三、手に取ってみたけれど、巻子本は駄目だ。きれいに巻き戻す自信がなくて諦めた。少し貴重なものはガラスの陳列ケースに入っているが、会場内の係員に声をかければ、すぐに取り出して、見せて(触らせて)くれる。しかし、熟練と自信がないと、スマートに振舞えないので、今回は指をくわえて眺めていた。引き札の貼り交ぜ帖や中国の古写真帖、絵葉書集、煙草カード集などもあって、面白かった。珍しいところでは、春日版の版木も。やっぱり、テーマを決めて、蒐集を始めると面白いんだろうなあ。ビジュアルが楽しめる地図・地誌類なんかいいかもしれない。

 少し前にニュースになっていた「お市の方の手紙」(カタログNo.2192)も、地下1階の会場で見た。特に変わった扱いもされていなかったので、気づかず、通り過ぎてしまうところだった。

 それにしても、前述のWeb版「出品目録一覧」は労作である。出品資料が(たぶん)網羅されていて、ほとんどに画像が付いている。すごい! 願わくは書誌項目の文字列検索ができると、もっとありがたいと思う。
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史官の役割/朝鮮王朝「儀軌」百年の流転(NHK取材班)

2011-11-15 00:56:19 | 読んだもの(書籍)
○NHK取材班編著『朝鮮王朝「儀軌」百年の流転』 NHK出版 2011.10

 申し訳ないが、読み始めてすぐ、これ…ダメだろ…と思った。本書の執筆にかかわったNHKスタッフは3名。世界各地に点在する文化遺産の流転の歴史と、その文化遺産をめぐる攻防を取材しようとしていた「私たち」は、2009年暮れ、「文化遺産の専門家」から「皇居のなかに、朝鮮王朝の貴重な記録がある」と告げられ、息をのむ(のむなよ、その程度のことで)。

 一体どういうことなのか? と途方に暮れていたところ…という、このスタイル(文体)、これから私たち(取材班)は皆さん(視聴者、読者)と一緒に、隠されていた歴史の真実を目撃するのです!と盛り立てるための常套手段なのだろうが、胡散臭くて、イライラする。そこを堪えながら読み続ける。

 説明しておくと、「朝鮮王朝儀軌」(Wikiでは朝鮮王室儀軌)とは、李氏朝鮮時代の国家主要行事を文章や絵画で記録した文書類の総称である。本書によれば、宮内庁書陵部は計81種167冊の儀軌を所蔵していた。書陵部に赴き、現物を確認した取材班は「五百年にわたって行事を行い、それを記録してきた朝鮮王朝の何千何百という人々の熱意と苦労がしのばれた」としみじみしている。ただし巻末所載のリスト(82種。1種は日本人による影写本のため、2010年の日韓図書協定でも対象外)によれば、18世紀ものが7種あるが、ほとんどは19世紀末~20世紀初めの成立。

 また、「なんといっても圧巻なのは、色鮮やかに描かれた隊列図である」と言って、『哲宗大王国葬都監儀軌』(口絵写真あり)を紹介しているが、これ、大勢の従者はスタンプでつくっていないか? むかし、国立国会図書館の貴重書展で、同様の技法を用いた行幸絵巻や陣立て絵巻を見たことを思い出した。これを「日本では類を見ない王朝絵巻である」と書いてしまう執筆者は、たぶん『年中行事絵巻』なんて存在も知らないのだろう。さらには、儀軌のほかにも「朝鮮王朝実録」や「承政院日記」「日省録」などが残されていることをもって、朝鮮王朝は「記録の王国」といわれると持ち上げているが、持ち上げられたほうも迷惑なんじゃないかと思う。

 取材班は「迫力のある儀軌の映像」を押さえるために、ソウル大学奎章閣(儀軌は韓国国内にも保有されている)の書庫内部での撮影を申し込み、けんもほろろに断られている。当然だろう。同じ日本人として恥ずかしいからやめてくれ、と頭を抱えたくなった。

 それでも、ところどころ知らなかった情報(たとえば、宮内庁書陵部の書庫は、空調を一切使わず、微妙な窓の開け閉めや採光の調整という職人技で、温湿度を管理している!)が面白いので読み進んだ。最初にあっと思ったのは、奎章閣に残る朝鮮総督府資料の中に、宮内大臣・渡邊千秋が寺内総督に宛てて、「王族公族の実録編集のことをも掌り候につき」朝鮮の書籍を帝室図書に編入したい、と書いた書簡がある、という箇所を読んだときだ。宮内省は、併合によって日本の王族となった李氏朝鮮の実録編纂事業を受け継ぐつもりだったのか、ということに、うかつにも初めて思い至ったのだ。え、これはすごいことだ。「異なる王朝の歴史を編纂する」って、中国ならともかく、日本人にとっては有史以来初の責務を引き受ける覚悟をしたわけで、「息をのむ」ならここだろう、と思ったのだが、NHKの執筆陣は何も反応してくれない。

 あれれ?と思ったが、途中に二人の歴史家、永島広紀氏と新城道彦氏の論稿が挟まれており、特に永島広紀氏が、この点をきちんと整理してくれている。佐賀県立名護屋城博物館が購入した資料の中に「有賀啓太郎」なる総督府中級官吏の個人文書が含まれていたこと。そこから、1920年10月8日付起案の「朝鮮図書無償譲与依頼に対する回答」という文書の写しが出てきたこと。それによれば、宮内省から総督府に「李太王(高宗)及び李王(純宗)時代の儀軌類」の求めがあり、総督府は「四部以上現存し事務上差し支えなきもの各一部」を譲与したという。

 筆者(永島氏)によれば、宮内庁にある儀軌類は、あきらかに傷みや虫喰いがひどいものが多く含まれており、書陵部でそうした破損が進行したとは考えにくい。おそらく保存状態のよくないものを優先して東京に送った可能性が高く、その基準に適ったものの多くが、たまたま(昌徳宮+四庫のうち)五台山史庫本だったのだろうという。ちなみに、2006年7月、東京大学から国立ソウル大学校に移管された『朝鮮王朝実録』も、この五台山史庫本である。

 著者は言う。ここはきちんと書き抜いておこう。…日本側に残る史料には、儀軌を東京に移した理由として明確に朝鮮王公族の実録を編纂する目的を謳っている。確かに儀軌の移管は骨董品や美術品の営利目的の掠奪ではなく、明確な意図と目的の下に収集された作業用の記録物であった。しかしそうした経緯と由来は宮内庁にはほとんど伝わっていない。日本政府、特に外務省と宮内庁書陵部にはフランスの場合のような文化財強奪ではなく、相応の理由があったことを日本と韓国の両国民に知らせる重い説明責任があるのである。…

 そのとおりだと思う。しかし、基本的な前提として、東アジアの王朝にとって「史書の編纂」が、いかなる意味を持つかという認識が共有されていないと、この説明も、なかなか理解されないのではないかと思う。ちなみに、第26代高宗と第27代純宗の実録は、朝鮮総督府によって編集されたため(とWikiは書いているが、正確には宮内省の仕事であろう)韓国では実録に含めない。一方、学習院東洋文化研究所刊『李朝実録』には採録されているという。

 私は東京大学旧蔵の『朝鮮王朝実録』を実見したことがあって、こんな汚い校正刷がどうして二国間問題になるんだろう、と思っていたが、本書を読んで、妙に懐かしくなってしまった。フランスが図々しくも掠奪したような美麗な御覧本でなくて、本当によかった。

韓国・五台山史庫址訪問の記

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町家リノベーション/そうだ、京都に住もう。(永江朗)

2011-11-13 22:28:10 | 読んだもの(書籍)
○永江朗『そうだ、京都に住もう。』 京阪神エルマガジン 2011.7

 1958年生まれ、奥様と二人暮らし(たぶん)のフリーライター・永江朗氏が、京都の町家購入を思い立ち、ついに東京・京都の二重生活を開始するまで、1年余りの顛末記。永江さんの本は、『本の現場』だったかな、出版事情に関する著作を一、二点読んだことがある。現在は、早稲田大学文化構想学部(なんだ、それは)の教授をされているそうだ。

 そもそもの始まりは茶室だったという。茶室のあるセカンドハウスが欲しくなり、銀座、青山と考えているうちに、だんだん京都のことが気になってきた。2010年3月初めに上洛して、物件探しを開始。はじめは中古マンションの購入を考えていたが、「ルームマーケット」という不動産屋で町家を勧められ、御所南の物件に決める。3月30日、現金払いで購入。さすがに値段は秘してあるが、××××(4桁?)万円とある。

 次はリノベーションである。リノベは、新築と違って法的な規制がないので、誰でもできるのだそうだ。しかし、著者夫妻は、京都在住の建築家に設計を依頼。京大建築学教室出身の河井敏明さんである。記録的な猛暑となった2010年の夏、東京と京都を往き来しながら、設計が進む。その一方で、著者は家具探しを始める。私には全くない趣味なので、椅子や壁紙へのこだわりが面白かった。ハンス・J・ウェグナーがデザインした「ベアチェア」って、そんなにいいのかー。

 2010年10月、初めて見積もりが出る。予算と相談して、見直しを重ね、12月、プラン決定。上原工務店(サイト※音が出ます)による施工が始まる。リノベは、解体してみないと分からないことが多々あるそうだ。隣家のガレージが、著者の家の浴室の壁を使っていた(壊してみたら隣家に壁がなかった)というのには笑ったが、なんといっても興奮したのは、昭和初期築と思っていた物件から「明治肆拾参年」の墨書が出現したこと。明治43年=1910年。大逆事件と日韓併合の年だ。なんと、著者が購入した2010年は、ちょうど建築から100年目だったのである。ヨーロッパの街で「18XX年」とか「17XX年」という竣工年の入った建築を見ると、さすが石造だなあと感心するが、木造住宅もやるもんじゃないか!

 2011年3月11日、大地震。この影響で、IHクッカーと浄水器の入荷が遅れることが判明。まだ仕上げ工事が続いていることを承知の上、4月30日からの連休は京都の家に初めて泊まる。そして、5月27日、命名「ガエまちや」は、正式に引き渡しとなった。

 以上のいきさつは、ウェブマガジン「Lmaga.jp」でも、おおよそ読むことができる。本書には、このほか、「ルームマーケット」代表取締役の平野準さん、建築家の河井敏明さん、「上原工務店」現場監督の片山学さんのインタビューが収録されていて、それぞれの立場から、家探し・家づくりへのコメントが聞けて面白い。

 私は永江さんとさほど変わらない年齢であるが、親の家を出てからずっと賃貸暮らしで、家を買ったことも、買おうと思ったこともない。しかし、本書を読んでいるうちに、本気で家(分譲マンションでもいい)が欲しくなってきた。残すところ10年を切った職業人生活が終了したら、仕事(配属先)の都合で家を決めるのではなくて、住みたい場所を自分で選び、住みたいスタイルの家を買いたい。

 著者が述べている京都の魅力、都会であるわりにコンパクトであること、意外とよそ者にも住みやすい土地であることは、とてもよく分かる。でも、奈良でもいい気がする。美味しいカフェで朝ごはんを食べるような優雅な楽しみは減るだろうけど、つましく田舎暮らしをするなら奈良でもいい。年金って、もらえるのかなあ…と考え出すと、現実に引き戻されてしまうが、中高年でも「将来の夢」を描ける、楽しい本である。著者が、旅行者として、あるいは京都「仮免許」生活者として、実際に利用したお店(カフェ、レストラン、書店、雑貨屋さん)のインデックスも役立ちそう。
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見えない自己像/「上から目線」の構造(榎本博明)

2011-11-13 01:17:43 | 読んだもの(書籍)
○榎本博明『「上から目線」の構造』(日経プレミアシリーズ) 日本経済新聞出版社 2011.10

 私にしては珍しく、苦手分野のビジネス書を読んでみた。なんとか最後まで読めた。本書は、いつの頃からか目立ち始めた「上から目線」という言いまわしを取り上げ、大学生や新入社員の、中高年をびっくりさせる言動を紹介して、ビジネス書の体裁を取っているが、全体としては、オーソドックスな社会心理学や精神分析の入門書という感じがした。

 上司の指導に「上からですね」と反発する若手社員、実際「上から」になりがちなウザい大人、双方の事例を紹介したあと、どちらかといえば後者について、なぜ人は「上から」心理に陥りがちなのかを考察する。これは、安定したプライドと偽物の不安定なプライドとか、横柄な人物に潜む自己防衛の構造とか、けっこう古典的な分析理論に基づいているように思う。

 そのあと、あらためて、人間関係を苦手とする現代の若者の問題に立ち返る。なぜ、今の状況が生まれたかという問いに対しては、人間関係が希薄化し、他人を鏡とする機会が減ったため、うまく自己像(他人がこちらを見る自己像)を認知することができていないから、という答えが示される。まあ、そうなんだろうな。だからこそ、就活スタート時点に自己分析をやらせるんだろう。でも分析結果を受け入れられるのかなあ、そもそも。

 それと、最近の会社は、社員寮を復活させたり、運動会やバーベキューなどの催しを積極的に開いて、社員間のコミュニケーションを改善しようという動きもあるそうだ。うっとうしい話である。上からだろうと下からだろうと、社会人のコミュニケーションは「型」であると割り切ってしまうほうが楽だと思うのに。

 著者は、「そのままの君でいい」という心のケアは、あくまで一時的な保護であって、コミュニケーション力不足や営業スキル不足に悩んでいる若者は、メンタル的に鍛えることが「本当のやさしさ」である、と苦言を呈している。ただ、実際に段階を踏んで、どう鍛えていくかという提言は特にない。逆に、即効薬的なハウツウを示さないところが、ビジネス書的な胡散臭さがなく、私が本書を最後まで読み切れた理由かもしれない。

 ちょっと関心をもったのは、著者は、社会人のキャリア・アイデンティティの形成がどの程度まで進んでいるか、およびどんなルートをたどっているかを知るためのキャリア・アイデンティティ・ステータス(CIS)テストを開発しているという情報。自分は、いまさらキャリア形成でもない年齢だと分かっているが、逆にこれまでの職業生活の総括の意味で受けてみたいと思った。ネットで調べたら、3,150円の商品になっていた。うーん、お遊びで購入するにはやや高いな。
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壮大な冗談/万里の長城は月から見えるの?(武田雅哉)

2011-11-12 21:37:44 | 読んだもの(書籍)
○武田雅哉『万里の長城は月から見えるの?』 講談社 2011.10

 万里の長城は、月から見える唯一の建築物である。――確かに私はこの言いまわしを、どこかで聞いたことがある。テレビのナレーションだったか、書物の上だったか、それとも中国旅行で出会ったガイドさんの発言だったかもしれない。無論、科学的にはありえないと思ったし、今でも思っているが、向こうも用心深く「…と言われています」と表現しているものを、まっこうから否定するのも大人気ないので、鷹揚に笑って済ませたような気がする。

 それを、よせばいいのに、とことん追究してみたのが本書である。まず、「月から(あるいは宇宙から)見える長城」という伝説は、伝統的な中華思想(中国=最高の価値という思想)の持ち主である中国人が作り出したのかと思ったら、そうではなくて、むしろヨーロッパ人が中国について書いた初期の文献に散見される、というのが面白かった。

 16世紀のポルトガル人宣教師による報告が、長城の存在を西洋に伝えた最古の一例だという。早いか遅いか…意外と遅い感じがした(ちなみに日本人はいつから知っているんだろう?)。その後、18世紀半ば、イギリス人の古代遺跡研究者、ウィリアム・ステュークリ(William Stukeley)が「(長城は)月から見分けることができるかもしれません」と書いたのが早い例で、19世紀末のヨーロッパのジャーナリストは「月から見ることのできる地球上で唯一の人間の手になる建造物であるという評判をも享受している」と書いているので、すでに伝説が人口に膾炙していたことが分かる。

 そして、20世紀初頭には、我らが岡倉天心も「月から見えるほどの長さをもつ地球上唯一の建造物といわれる」と書いている。一方で『ニュー・サイエンティスト』などの科学雑誌では、啓蒙的な科学者が、この伝説を否定する啓蒙記事を何度か書いている。しかし、「月から見える」という伝説は、「…と言われる」「…という評判がある」等の曖昧表現を伴いつつ、何度も繰り返し言及され続けた。要するに、人類は、民族や国籍を問わず、この種の壮大なホラ話が大好きなんだと思う。

 人類が実際に月に到達するようになっても、伝説は終わらない。ここでも、西洋人の宇宙飛行士がリップサービスで「見えた」と言ってしまったこともあるのに対し、2003年、中国人宇宙飛行士の楊利偉は、正直に「長城は見えなかった」と発言して、大紛糾を引き起こしたというのが可笑しい。中国では、小学生の教科書に「長城のレンガ」という読み物が使われており(近代的なビルディングをうらやましいと思っていた長城のレンガが、月から見える偉大な建築の一部だと知って自信を取り戻す、なかなか愛国的な教材)、その是非をめぐって、議論が起きたという。まあ読み物なんだし…月にウサギがいてもいいのと同じくらい、いいんじゃないの?と私は思う。

 それより苦笑を禁じ得ないのは、「見えぬなら、見せてしまえ」的な中国人の発想。著者も最後に書いているように、中国人の心の拠りどころである長城(日本人にとっての富士山みたいなものか)は、今後、ますます長く、立派に"復元"されていくに違いない。さらには強力な電飾を施され、いつか本当に月から見える長城に大改造されるのではなかろうか。うん、それでこそ中国(笑)という気がする。
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2011秋の展覧会など拾遺

2011-11-12 11:45:18 | 行ったもの(美術館・見仏)
仕事が押したり、関西に出かけたりしていて、このところレポートを書いていない「行ったもの」拾遺。

■板橋区立美術館 江戸文化シリーズNo.27『実況中継EDO』(2011年9月3日~10月10日)

 9月19日に榊原悟先生の講演会を聴きに行って、展覧会のレポートはまた別稿、と思っていたら、書き逃した。宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の応挙筆『群獣図屏風』が初見で、インパクトがあった。応挙の動物画のコラージュみたいで、あまり全体の構成とか考えていないのではないかと思われるのだが、その寄せ集め感が、かえって面白かった。東博の博物画コレクションは大好きなので、あらためて「美術」として展示されている図は、なんか勝手に面映ゆい感じがした。

■日本橋高島屋 『大和の尼寺 三門跡寺院の美と文化展』(2011年10月19日~11月1日)

 法華寺、中宮寺、円照寺の歴史と儀礼、尼僧の修行生活を紹介する展覧会。近世~近現代の工芸品が中心だが、中には室町・鎌倉に遡るものもあった。小袖を裂いて仕立てたという中宮寺の幡(ばん)や打敷、円照寺の春日神鹿厨子が愛らしかった。円照寺の文秀女王御作という『男子一代出世競べ双六』は、四隅から官・農・工・商のいずれかを選んでスタートするもの。時代を写していて、面白い。

■浄土宗大本山 増上寺 『三解脱門』一般公開(2011年9月17日~11月30日)

 戦後初の一般公開。楼上には釈迦三尊像、十六羅漢像および歴代上人像が安置されている。十六羅漢像は玉眼、色鮮やか。動物はいない。羅漢のステレオタイプにならず、個性を描き(造り)分けている。第十六尊者の注荼半諾迦(ちゅだはんたか)だけ、達磨ふうに赤い頭巾をかぶる。歴代上人像31体は、3~40世(欠落あり)の法主に定められている。小さな像だが、これもぶつぶつ喋り出しそうな人間味がある。

■東京国立博物館・本館特別2室 特集陳列『板谷家の絵画とその下絵』(2011年10月25日~12月4日)

 住吉家から分立し、江戸中期に幕府の御用絵師に加わった板谷(いたや)家を紹介する。東博は、2010年3月、板谷家最後のご当主から、絵画・歴史資料1万点を寄贈いただき、現在整理中であるとのこと。いや~博物館の展示の裏で行われている整理や鑑定作業って大変なんだろうなあ、と思う。今後に期待。

■東京国立博物館・本館特別1室 『中国書画精華』(前期:2011年10月18日~11月13日)

 久しぶりに、伝・毛松筆『猿図』を見た。東博のサイトにある短い説明「単なる写実を越えたすぐれた表現」に同感。「中国の猿ではなく日本猿」は不思議だなー。なぜそんな作品が描かれたんだろう。おなじみの館蔵品に混じって、山梨・久遠寺の伝・胡直夫筆『夏景山水図』や岐阜・永保寺の『千手観音図』が見られるのも嬉しい。後者は、白い雲に乗った白衣の千手観音で、様式化されない肉厚の腕が生々しい。
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ご近所散歩(竹虎図)@2011年11月

2011-11-12 08:41:25 | なごみ写真帖
光琳の『竹虎図』×2。駐車場の竹林にて。



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2011秋の関西遊:兵庫/中国の花鳥画(黒川古文化研究所)

2011-11-10 23:00:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
黒川古文化研究所 第106回展観『中国の花鳥画-彩りに込めた思い-』(2011年10月15日~11月13日)

 関西展覧会めぐり小旅行の〆めは、迷った末に此処にした。今年の春に続いて、2度目の訪問。展示室に入って、あ、春よりずっといい、と感じた。やっぱり山水画よりも、明るく華やかな花鳥画のほうが、日本人の遺伝子が騒ぐのである。

 展示は、絵画より前に、銅鏡や玉製品、磁器などの文様に表された花鳥の意匠から入る構成。昨年、奈良県美で行われた『花鳥画』展を思い出す。『羽状文地四獣文鏡』のシッポの長いクマとか、『「日光」禽獣鏡』のゾウ、シカ、サル(?)とか、可愛いな~。こういうモチーフが、正倉院の工芸品に流れていったのかな~と考える。

 絵画は明清ものが中心だが、その前史が簡潔にまとめられていた。花鳥画(花卉画)の画法は、五代十国時代に「輪郭線の内部を彩色する鉤勒填彩(こうろくてんさい)」と、「輪郭線を描かず色彩の濃淡で表現する没骨(もっこつ)」が作られ、前者は職人、後者は文人の画法とされた。…これ、一生懸命メモしてきたのだが、いまネットで検索すると、ほとんど同じことを書いている書籍がヒットする。中国絵画史としては基礎中の基礎なのだろう。

 明代。前期の画家・辺文進の花鳥図は、空間が平板だが、中期の呂紀は、浙派の山水樹表現に学び、空間の厚みを取り入れた。本展に呂紀の作品は出ていないが、同時代の陳箴『鳥花山水図』や紀鎮『春苑遊狗図』を見ると、なるほど空間の奥行きを感じる。前者は、高い山嶺を背景に群れ飛ぶスズメ。後者は、桜の木の下でじゃれあう2匹の仔犬と見つめる母犬(?)を描く。母犬の渦巻くシッポがかわいいが、ツメが長くて、小熊のように獰猛そうでもある。

 清代。日本美術に大きな影響を与えた画家に沈南蘋がいるが、本展には、その師匠である胡湄の『花鳥図』も出ている。胡湄は、明中期の呂紀と清中期の沈南蘋をつなぐ重要なキーパーソンであるらしい。ただし、沈南蘋は、呂紀系の花鳥画に学ぶとともに、李郭派などに淵源を持つ華北山水画系の皴法(しゅんぽう)を取り入れ、鉤勒填彩に加え、文人花卉図的な没骨法を併用した。これは、明末以降の南宗画(北宋画)重視の傾向にのっとったもので、沈南蘋の作品には「北宋人に倣う」という款記が多い。うん、言われてみれば、そうだ。以上は会場の解説から。私の誤認があるかもしれないが、複雑な中国美術史の大筋が頭に入るまとめかたで、ありがたかった。

 沈南蘋の『花鳥図』は、柘榴の木に集まる小鳥(文鳥?)、薔薇、露草、萱草、タンポポ、そしてオシドリを描く。縮れて絡まる細い葉、棘のある茎など、いくぶんマニエリスティックな印象。もう1点『梅花山茶游鴨図』には水面下に頭を潜らせた鴨、沈南蘋の甥にあたる沈天驤の『蘆雁図』には、真っ逆様に急降下する鴨が描かれており、若冲作品を思い出す人も多いと思う。

 会場には、このあと、江戸絵画(あまり有名画家はいない)が展示されている。会場の解説によれば、中国から日本絵画への影響の波は三度あるそうだ。(1)隋唐→奈良・平安/(2)宋元明→室町:カクカクした線、斧劈皴(ふへきしゅん)が特徴。→雪舟、狩野派/(3)明清→江戸:没骨、隈取りによる遠近感、雲紋皴が特徴。これも分かりやすかった。中国絵画史が頭に入ると、日本絵画の見かたも、深くなってくるような気がする。

 清朝の花卉図(揚州八怪といわれる、親しみやすい花卉図を描いた李鱓とか陳撰とか)も好きだ。水彩画タッチが抒情的。家庭用のデジタルフォトフレームを使って、図冊の中から複数作品を見せる工夫がされていて、ありがたかった。詳しい解説は、全て「ワープロ貼り紙」で、凝った演出は全くしていないのだが、研究所を名乗るだけあって、美術好きには気持ちのいい展覧会だったと思う。今回から始めたという、拡大鏡の無料貸出もGood Job! 辺文進描く鶴とか、沈南蘋のオシドリとか、鳥の羽根の描写はすごい。肉眼とは全く違う絵画の世界が開けてくる。この「腕の振るいどころ」があるから、画家たちは花鳥画、なかでも鳥を描き続けたんだな、と感じられる。

 今週末は、公開研究会ですね。行かれる方は、どうぞ楽しんでください!
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2011秋の関西遊:大阪/中国書画・阿部コレクション(大阪市美)

2011-11-08 00:43:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
大阪市立美術館 常設展『中国書画II-阿部コレクション』(2011年10月20日~11月23日)

 9つの所蔵館が開催する「関西中国書画コレクション展」シリーズの中で、いちばん楽しみにしていたのがこれ。大阪市美のサイトを見て「常設展」(観覧料300円)と知ったときは、目を疑ったが、質量ともに圧巻の展覧会だった。

 「阿部コレクション」は、実業家・阿部房次郎氏(1868-1937)のコレクション。総数は160件にのぼり、「その白眉は、完顔景賢旧蔵の宋元以前にさかのぼる作品群」であると、関西中国書画コレクション展のサイトに説明されている。完顔景賢(1875-1931)は、清末民国初期における書画・古籍の屈指の収蔵家。今年の初めに聞きに行った、京都大学東京オフィスの市民講座で、初めて聞き覚えた名前である。また、2011年10月22日・23日に行われた国際シンポジウム『関西中国書画コレクションの過去と未来』(←行きたかった~) のレジュメが公開されていて、そこにも何度か登場する。

 本展では、美術館2階の4室を使って60余点が展示されている。半数が明清ものだが、宋元及びそれ以前のものが半数(!)を占める。まずは、元と両宋の山水図で、本場ものの「重厚長大」感をしみじみ味わう。伝・李成筆『読碑窠石図』には見覚えがあった。「李郭派」という名前を知るきっかけになった、2008年の大和文華館『崇高なる山水』で見たのではないかと思う。伝・郭忠恕筆『明皇避暑宮図』は、大画面の「界画」(=定規を用いて、入りくんだ楼閣などを精密に描く作品)。前々日に京博で見た、細川コレクションの『咸陽宮図』といい勝負(!?)である。

 さらに時代を遡る(かもしれない)のが、6世紀の『五星二十八宿神形図』。2009年、『道教の美術』のチラ見せでハマってしまった作品だが、今回は、巻頭から巻末までを一気に見せる太っ腹な公開に、ぐふふと変な声を漏らしそうになる。獣頭人身の神々など、謎めいた図様に施された丁寧な色彩。妖しい字体(篆書)も魅力的だ。

 8世紀の伝・呉道玄筆『送子天王図』は、浄飯王が幼い釈迦を抱いて神廟に詣でると、全ての神像が動き出したという説話を描いたもの。コミカルな躍動感が楽しく、闊達な墨画の線が、鳥獣戯画などの絵巻作品を思い出させる。12-13世紀(金代)の『明妃出塞図』は、寒風吹きすさぶ中、塞外の地に旅立つ人々の悲愴感が感じられ、中国にも、ストーリー性のある画巻の伝統があったんだということを認識する。

 次室は『石渠宝笈』収載の絵画を公開。『石渠宝笈』は、乾隆~嘉慶年間に編纂された清朝宮廷の書画目録で、阿部コレクションには8件が収められている。本展は、この8件を全て公開しており、『聚猿図』『蘭図』については、清朝の書画庫で使われていた包袱(ほうふく、風呂敷)が一緒に伝わっているのがすごい。風呂敷の内側には墨書(ハンコ?)で、作品の題と作者名が記されている。

 それにしても、牛だらけの『散牧図』、おサルさんだらけの『聚猿図』は絵本のようで、中国美術の先入観を完全に裏切られる。特にルーズソックスを穿いたような足の牛が、可愛い。『芸術新潮』2011年9月号「ニッポンの『かわいい』」特集に「基本"かわいくない"中国美術」というフレーズがあって、妙に同感したのだが、実は「"かわいくない"中国美術」というのも、日本人が文化戦略的に選んだ結果のような気がしてきた。あの乾隆帝が、こんなかわいい作品に御題を書きつけているのも微笑ましい。

 後半、明清の書画になると、知っている名前が増えてくる。石濤の『東坡時序詩意図冊』は、いかにも石濤らしい抒情的な色彩(同名の画冊が「近代デジタルライブラリー」に入っているのを見つけたけど、白黒じゃあなあ)。明の邵彌 『雲山平遠図』や清の王時敏『墨筆山水図』も好きだ。八大山人が着彩の山水画を描いていたり、書家・傅山の絵があったのも面白かった。

 しかし、併設の常設展『雲の上を行く-仏教美術II』も見ごたえがあるのに、あまりにもお客さんがいなくて、もったいない。最近の国立博物館はやりすぎだが、大阪市美、もうちょっと営業努力をすればいいのに。
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2011秋の関西遊:奈良/正倉院展+東大寺ミュージアム

2011-11-06 21:40:45 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 特別展『第63回 正倉院展』(2011年10月29日~11月14日)

 昨年の記事を読み返したら、私は、これで10年、正倉院展に皆勤らしい。今年は東京駅や新宿駅で正倉院展の宣伝を見なかったので、少し宣伝熱が引いたかな、と期待していたのだが、とんでもなかった。朝8時半頃に行ったら、もう博物館前のテラスの行列は三折して、屋根の下からはみ出るところだった。少し待たされるかな、と思ったが、8時50分頃に開館すると、入館制限をせずに、どんどん中に入れていく。も~やだ、こんなの。

 入ってすぐの東新館の南側は、すでに展示ケースが見えないくらいの混雑なので後にまわし、遠目に物体が確認できればOKの『蘭奢待』あたりから見ていく。今年は、あまり華美な装飾で人目を引く品がなくて、染物とか合子(ごうす)とか絵箱とか、日用品が多いように感じた。でも却って地味な日用品のほうが、当時の生活を髣髴とさせて面白い。

 例外は『金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)』。最前列で見たい人のための長い列ができていたが、私は人の頭越しでよしとする。個人的には、宝庫で最も重い銅鏡(52.8キロ!)『十二支八卦背円鏡(じゅうにしはっけはいのえんきょう)』と聖武天皇遺愛の『七条織成樹皮色袈裟(しちじょうしょくせいじゅひしょくのけさ)』が印象に残った。後者は、平成の複製品とあわせて鑑賞するのがいいと思う。

■奈良国立博物館 なら仏像館(2011年10月4日~)

 新館(正倉院展会場)のロビーで、写真入りのリーフレット「なら仏像館展示会場案内図」を見つけた。おや、ずいぶん親切になったな、と嬉しかった。そういえば、前回(2011年7月)、仏像館の照明の変化について書いたが、いつの間にか奈良博のホームページに「なら仏像館の照明をめぐって」という文章が上がっていた。これ、照明のリニューアルが実際にいつ行われたかと、この文章がいつ公開されたかの年記が入っていないことが記録として惜しまれる。

 ざっと見たところ、あまり7月と変化がないようだったが、2件の「特別公開」が気になったので行ってみた。すると、前回来訪時は「十一面・海住山寺・平安」が「特別公開」されていた(7)の位置(※配置図)に、大和高田・弥勒寺の弥勒菩薩坐像(平安)がおいでだった。子供っぽい丸顔に眠たげな半眼だが、厚みのある体躯には緊張感がある。解説に言う「足首を膝頭より奥にぐっと引く」座り方(平安中期の作風)のせいかもしれない。耳朶の網目模様に特徴がある。

 もう1件の「特別公開」は第3室。東大寺法華堂の金剛力士像2体が立っていたところだ。ものすごく巨大な青黒い顔がこちら(中央第1室)を睨んでいる。映画ジュラシック・パークの恐竜に見つかったような迫力に、震え上がる。大阪・金剛寺の降三世明王坐像だという。さっき見た「会場案内図」に写真が載っていたのだが、まさかこんなに巨大だとは、思いもよらなかった。解説に「2メートルを超える」とあったのは像高だけで、台座と火炎光背を足せば4メートル近くなると思う。驚いたのは、この降三世を脇侍とする、金剛寺金堂の本尊・大日如来坐像は、さらに巨大だということ。大阪・河内長野の金剛寺へは、一度だけ行ったことがあるが、時間切れで金堂三尊は、見逃してしまったのだ。もったいないことをした。

 それにしてもすごい。大きいけれど鈍重ではなく、水平に構えた五鈷杵、膝に置いて軽く握った右手など、隅々まで緊張感がみなぎっている。文句なくカッコいい。

 仏像館には、もうひとつ大きな変化があった。大和高田の弥勒菩薩像の背面、長年、この位置を占めていた『東大寺西大門勅額』が忽然と消え、「かつての陳列風景」という写真パネル展示に変わった。ま、勅額の行き先は、だいたい予想がついている。

東大寺ミュージアム 特別展『奈良時代の東大寺』(2011年10月10日~2012年4月1日)

 奈良博を出て、東大寺の境内に向かう。目指すのは、10月10日にオープンしたばかりの東大寺ミュージアムである。南大門をくぐってすぐ、参道の左側(旧・東大寺学園の移転跡地)に新造されたもの。しかし、土塀に囲まれ、瓦屋根を乗せて、周囲の景観に溶け込んだ造りなので、ホッとする。「東大寺総合文化センター」というのが建物の正式名称である。

 奈良博でおなじみだった『西大門勅額』や『弥勒仏坐像』(試みの大仏)、『誕生釈迦仏立像及び灌仏盤』などが、こっちに移動してきていた。特別展のお楽しみだった『二月堂本尊光背』や『金銅八角燈籠火袋羽目板』も、今後、ここで常設化するのだろうか。

 展示室は、いかにも「いまどき」の博物館で、全体の照明は暗く、展示物だけがスポットライトで浮かび上がる。資料保存には適しているのだろうが、演出としては、もう新味がないように思う。ただ、スポットライトのおかげで、細かいところ、『灌仏盤』の花鳥文などが見やすいのは嬉しい。

 そして、三月堂(法華堂)の不空羂索観音立像と久々の再会。日光、月光菩薩もお揃いで、嬉しいのだが、ちょっとした違和感。不空羂索観音が「丸裸」なのだ。あの特徴的な光背、持物の蓮華や錫杖、瓔珞、宝冠、全て取り払われている。この状態だと、上半身に比べて下半身が貧弱なこと(腰から下が短い)や、下腹の肉のだぶつきが目立って、体形的にはあまりカッコよくないなあ、と感じた。

 また、胸前の合掌手の間には宝珠(水晶玉)を挟んでいるはずだが、それもない。展示リストを見ると、「不空羂索観音立像」とは別に「不空羂索観音立像宝冠及び化仏」という番号立てがされているのだが、なぜか1期から6期(~4/1)まで、どこにも「○」がついていない。展示を計画したものの、全く展示できなくなってしまったか、いつから展示できるか決まっていないか、どちらかなのだろう。

 ミュージアム展示のいいところは、以前よりも至近距離から観音を拝することができるようになったことだ。観音の合掌手とお顔が重なるような角度で見上げると、その迫力に打たれる。横斜めのアングルも新鮮だった。

 昨年秋の不確定情報と比較すると、吉祥天、弁財天は、東大寺ミュージアムにおいでになっていなかった。展示リストに記載もなし。あと、奈良博から消えた金剛力士像二体はどこに行かれたのだろう。本格的な修復に入ったのかなあ。いつ、我々の前に戻ってきてくれるのだろうか…。

 外に出ると、天気予報どおり、小雨が降り始めていたので、参道でビニール傘を買い、次の目的地・大阪へ向かった。
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