昨日は、日曜日に都内まで出かけましたが、電車の中でボーイスカウト隊の集団に乗り合わせました。
まだボーイスカウト活動が続いているのかと、電車の中でしばし感慨にふけりました。
私がボーイスカウトに入団したのは、昭和37年の11月23日でした。
なぜ覚えているかというと、今から50年前の勤労感謝の日のことなのですが、秋の日差しが、乾いた埃っぽい小学校のグラウンドに差し込んでいたことが記憶に残っています。
入隊したボーイスカウト川越第2団は、戦後の比較的早い時期に創設されていたためか、テントや野営道具はその当時でも、大体そろっていたように思います。
いまでは、アウトドアギアーと称して、いろいろなテントやガソリンランプ、バーナー、シュラフがアウトドアショップや郊外型の大型店舗に行けばありますが、そのころはまだ戦後の雰囲気を残していたためか、「野営」とか「野外生活」という言葉のほうがふさわしかったように思います。
今時病院でも使わないような、ホーロー引きの皿には確か「Occupied by USA」と書かれていたことがありました。
テントは、今から思えば、朝鮮動乱後の進駐軍からのお下がりだと思いますが、キャンバス地に植物質のオイルがしみこんだ独特の臭いがしました、そして代々何故か「象の鼻」と呼んでいたのが不思議でした。
シュラフなんて気の利いたものなど無くて、母親がどこで聞いたのか、使い古しの毛布を半分に折ってファスナーを付けたものでした。
この毛布のシュラフは、後年大学受験の時に夜中の勉強時には役に立ちました。
ある年、ジョンソン基地(現在の航空自衛隊入間基地)のボーイスカウト隊と交歓野営大会が開催されました。 その時の野営場というか今ならキャンプサイトと呼ぶのでしょうが、私の目にも敗戦国の惨めさが自覚できました。
私たちのテントは、前述の進駐軍のお下がりで、テントの周囲には雨が降った時のことを考慮して深さ10センチほどの溝を掘り、炊事といえば、地面に穴を掘って大きめの石を数個拾ってきて作った竈に飯盒炊さんにカレーが定番のメニューでした。
アメリカ合衆国の少年たちはといえば、同じくらいの年頃でも長ズボンに明らかに上等そうなジャケットを身にまとい、テントは完全自立型で、コットと言われる野外用のベットが中に設えてありました。
食事はというと、今では量販店に行けば置いてあるコールマンのツーバーナーが青い炎を上げて分厚いステーキを焼いていました。
飲み物は我が隊は、水嚢という布バケツに汲んだ水を各自のホーロー引きのコップですくって飲んでいたのですが、彼らはCoca Colaのロゴが入った、緑色の瓶が山のように補給用のテントに置かれていました。
かの国は、兵站施設を充実させ、作戦を成功させることに戦略を持って望んだけれども、こういうことにも、兵站施設は必要なことなのですね。
そのころの私たちは、各自の山岳縦走用のキスリングから、手ぬぐいで作った袋から米を出し、ジャガイモ、タマネギ、ニンジンを出して、地面に穴を掘った竈でカレーを作っていたのですから。
最後の日に、プレゼントの意味なのか、コカコーラを1本もらって飲んだのはいいけれど、その薬臭い黒い液体を嚥下したときの感触をいまでも覚えています。
その数年あとのことだったと思いますが、11月の感謝祭に進駐軍所沢兵站所(いまの航空公園のあたりだったと思いますが?)の合衆国のボーイスカウト隊に招待された時のことも、食べ物の記憶とともに生涯忘れることができない思い出です。
11月の下旬で半ズボンが寒かった記憶がありますが、招待された進駐軍のカマボコ兵舎の中は飾り付けがしてあり、食べ物の臭いと、米国の少年達の体臭の臭いが混じり合って、アメリカとはこんな臭いがするものかと思ったものでした。出てきた料理が厚さ1センチはあろうかと思われる、大人の掌くらいの分厚いステーキ肉でした。
それに、いろいろな野菜と大きな肉塊がたくさん入ったシチュー、当時通っていた小学校で始まったばかりの自校方式の学校給食のシチューと比べると、こってりとした食感がしたのを今でも覚えています。
その当時の我が家のご馳走といえば、毎月25日の父親の給料日に出る卵焼きが一番のご馳走でした。
すき焼きなんてまだまだ、夢のようなころでした。
私は当然のごとく、ポケットから出した灰色の粗雑なちり紙からステーキがはみ出るのを承知で、大切に包んで家に持ち帰りました。