平成23年3月11日14時46分、あの東北大震災でした、1年と2ヶ月の時間が経過しようとしています。
当日は日曜勤務の代休を取って、某所にリサイクル家具の引き取りに出かけていました。
車に中古の食器棚を積み込み帰宅すると、卒業式を数日後に控えた息子の友人たちがいたため、物置小屋に入れるのを手伝ってもらっているさなかでした。
てっきり、脳梗塞はこんなものなのかと、瞬間思ったところ、物置小屋が大きく揺れていました。
人生で、このまま死ぬかも知れないと思ったのは初めてのことでした。
息子を含めた5人に、「早く外に出ろ!」と怒鳴ったものの、足が地に着かず出口になかなかたどり着きません、裸足で建物から出てもまだ地面が揺れていました。
それからしばらく、船酔いのような、三半規管が機能しないのか、軽いめまいの様な感じでした。
震源は何処なのか、かなり大きな地震であることは間違いない、たぶんテレビもラジオも電源が落ちていれば難しいだろうと、庭先のキャンピングトレーラーに積んでいるアマチュア無線のスイッチを入れて国内の短波帯を取りあえず受信することにしました。
7,14,21Mhz帯を受信するも、静かなままでした、国内のこの時間帯なら、7Mhzかと思い、国内のアマチュア無線局を呼び出すも応答はなく、携帯ラジオでは、東北地方の地震らしいとのことを放送していました。
携帯電話は案の定関東地方でも輻輳が始まったようで、ただの小箱となりました。
そうこうしているうちに、また大きな余震がやってきました、今晩は送電が停止するかも知れないと思い、近所のガソリンスタンドに行き、車のガソリンと灯油の補充をし、物置にある2台の大型発電機の燃料も入れて、しばらくしていなかった試運転だけは念のためしておきました。
ふだん配偶者から冷たい目で見られていた、物置小屋のガラクタと思われていた道具がこんなに頼もしく思えたのは、初めてのことでした。
さらなる余震で、ガス、水道、電気のインフラが停止することを考え、ポリタンクに100リットルの水を貯水し、キャンプ用のガソリンランタンを用意して、カレーと御飯を多めに作り、夕食に備えました。
息子たちの安全は確認できたのですが、配偶者との連絡が取れなくて、結局帰宅したのは、土曜日に日付が変わった頃でした。
その日から、新聞、テレビ、ラジオでは津波の被害に加え、福島第一原子力発電所のメルトダウンという未曾有の厄災を国民が抱えることになったのは、ここで書くまでもありませんでした。
我が家では、その日から、炊飯行為は電気釜ではなく、鍋を使って都市ガスで炊くようになりました。
そんなこと想定もしていなかったのですが、怪我の功名なのか、都市ガスで同じ量の炊飯をすると、短時間で御飯が大変美味しく炊けるということも判りました。
自宅のコンセントプラグのずっとずっと先には、何処かで誰かが絶え間なく電気を作っているのだろうし、二酸化炭素が多少排出されてしまうかもしれないけど、少しでも、わずか少しでも、負荷を無くす努力をしていこうと思いました。