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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

一目小僧その他~柳田國男全集6

2012-04-15 19:37:19 | 読んだ本
柳田國男全集6 1989年 ちくま文庫版
この文庫版全集のコンテンツは、「妖怪談義」「一目小僧その他」「おとら狐の話」「片目の魚」である。
「一目小僧その他」のオリジナルは、昭和9年の刊行であるという。
「一目小僧その他」を読みたいと思っていたのは、諸星大二郎の「詔命」や「鎮守の森」のモチーフにつながっているからである。
検索して調べてみたりすると、昭和9年の本があるはずもないが、角川文庫から出ていたものがあったようで、しかしながら、どうやら絶版。
古本屋で探すことにしたんだが、そんなの簡単にあるわけない。
で、先月のことだけど、休日に、以前住んでた街の古本屋まわりをしてみることにした。
この街は、住んでみるまで知らなかったんだけど、駅のまわりの狭いエリアに、古本屋が数軒あるという、たいへんイイ街である。(古本屋が多いというのは、私のイイ街の基準のひとつである。)
大手リサイクル書店ぢゃなくて、かと言って専門書ばかりの古本屋でもなく、ふつうの、それでいてそれぞれ面白い品ぞろえの三軒があるんだけど、久しぶりに順にまわってみた。
(べつの一軒は無くなってたなー。悲しい。べつの街の、私が休日とかによく行った古本屋も、こないだ行ったら、無かった。ほんと悲しい。)
で、昭和二、三十年代からやってるとおぼしき(この街には古書店以外にも、そういう店がかなりある)この日二軒目の古本屋で、この文庫を見つけた。
ここは、文庫は棚の一角に固められてるんだけど、著者別でも、出版社別でも、ジャンル別でもなくて、私には法則が無いとしか思えない並べ方をしている。
そんななかで、私が爪先立ちをして、やっと指先が文庫の帯のあたりにかかる高さの棚のとこに、探してた角川文庫ぢゃなくて、ちくまの背表紙の「柳田國男全集6」の下に、さらに小さい字で「一目小僧その他」とある文庫を、たまたま見つけたのは、ラッキーだったとしか言いようがない。
さっそくつかんで、新刊時の定価1030円のところのものを525円で購入。本日の収穫、大満足である。
まあ、私の古本屋めぐり趣味のことは、そのへんにしといて。
「一目小僧その他」は、文庫にして三百ページ余の長いものだった。んで、とりあえず「妖怪談義」とかは後回しにして、「一目小僧その他」のほうを読んだんだけど。
そのコンテンツは以下のとおり。
「一目小僧」
「目一つ五郎考」
「鹿の耳」
「橋姫」
「隠れ里」
「流され王」
「魚王行乞譚」
「物言う魚」
「餅白鳥に化する話」
「ダイダラ坊の足跡」
「熊谷弥惣左衛門の話」
どれも日本の各地に伝わる伝説についてで、ある橋(の神?)からべつの橋への手紙を届けるように頼まれるが、内容は「これを持参したやつを殺してくれ」だったりとか。
茶屋で麦飯を食ってる客が、店の亭主に「鰻を釣って殺生すんのはやめてくれ」って意見してったんだけど、後刻釣った鰻の腹を割いたら麦飯が入ってた、だったりとか。
そういう不思議な話ばかり。あちこちに似た話があるから、その原型はどんなので、なんの意味があったんだろうかと考える。
で、「一目小僧」だ。
もちろん、おなじみの妖怪なんだけど、いろんなバージョンがあって、目が一つなのは当然として、足が一本ってのも多い。
ところで、日本のあちこちには、神様が転んで、その拍子に生えてた植物に目を突いて、片目になってしまった、その後その土地では、その植物は生えてこないとか植えてはいけないとかって禁忌がある、っつー伝説も多い。
で、著者は、神様の片目の怪我ってのは、
>これはもと祭のおりにある一人を定めて神主とし、神の名代として祭の礼を享けさせた時、その人間について起った出来事に他ならぬ。(略)
>神様が片目を潰されたという事実は、その御代理の身上にあったことと思う。(略)
>ある時代まで、祭の日に選ばれて神主となる者が、特にそのために片目を傷つけ潰される定めであったからで、口碑はすなわちその痕跡であろうと思っている。
と断じている。ここんとこが、諸星大二郎が参考にしたと言ってるとこ。詳しくは、絶版ぢゃない、諸星の「詔命」か「鎮守の森」あたりを、どうぞ読んでください。
この本には、このほかにも、片目の蛇や、ある池沼の魚がすべて片目だとかいう伝説や、鹿の耳を切るなんてのを、神のイケニエのしるしとしている話がある。
うーむ、詳しいことはよくわからんが、最後に、今回読んで思わずメモっとこうと思った、「橋姫」の結びのとこを引用しときます。
>自分は伝説を愛せらるる人々に勧告する。伝説はその片言隻語といえども大切に保存しなければ、たちまち無用の囈言(うわごと)になってしまう。ゆえにこれを人に語る場合には誇張してはならぬ。修飾してはならぬ。ことに変更に至っては罪悪である。我々の祖先の墓を拝すると同じ心持をもって、祖先の思想信仰の断片をも尊敬せねばならぬ。この趣旨の下になるたけ多くの伝説の蒐集せられんことを切望する。
祖先の墓を拝すると同じ心持ってのが、いいやね。私なんかは、気をつけなきゃ。
コメント
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