西部邁 1989年 講談社現代新書
いや、こないだ「臨機応答・変問自在」なんかを読んでるうちに、大学とは、学問とは、どーゆーもんであるべきか、なんて思ってしまったもんで。
(ちなみに森博嗣氏は、授業料を出して学校に来ているお客さん=学生が、休講になると喜ぶとは如何なものか、なんて卑俗な問題提起もしている。)
ひさしぶりに、西部邁氏の本なんか出してきてみたりした。
著者が(中沢新一騒動で?)東京大学を辞めた後に書かれたものなんで、いまの(当時の?)大学のダメぶりに触れられている。
当時の「大学が崩壊しつつある原因」については、
(1)日本社会が方向喪失、価値喪失の姿をさらしつつある
(2)社会のなかにおける大学の位置がますます不明確になっている
(3)これまでの大学が得意としてきた欧米思想の輸入・紹介といった作業が限界に達してしまった
(4)大学の内部において教養と専門のあいだの関係が動揺している
(5)現代の大学人は、その受ける収入、与えられる権威という面でも窮乏化しつつある
と冒頭で挙げられてるけど、日本社会はこの二十年くらい失われたまんまなんで、今もそんなもんぢゃないのと思う。
まあ、書いてあることは難しいんで、私がここにサラッと要約をすることなんかできませんが。
大学のなかのひとたちが自分の専門に閉じこもっちゃうことのダメさとか、お得意の「伝統の知恵」に関することもいいんだけど、やっぱ、言葉の大切さを説いてることにつきるのではないかと。
科学、哲学の発展の歴史からひもといて、良き言葉をつかうことの重要性があちこちに出てくる。
中庸は折衷とは異なるものだと言い、
>いかにして怜悧と誠実を中庸させつつ賢明な立場をとりつづけることができるか。人間の場合、怜悧も誠実も言葉によって遂行されるものであるから、問題はいかなら言葉遣いによって中庸を具現するかということになる。
なんて言ったあとに、言葉のもつべき秩序の大切さについて、
>平衡のとれた言葉遣いによって話され書かれるのが、少なくともそのように努力するのが、真の言論なのである。それにたいし、不徳に転落したものとしての抑圧的な言葉と無秩序な言葉との混淆、それが世論の本体である。
なんて解説してくれてるのが、分かりやすい。
チャート式勉学ばっかりに慣れてしまった学生たちをかかえる教育現場の荒廃に立ち向かうには、
>活気ある言語生活を大学の場に取り戻すことである。その一つは、学生たちが教師を交えて活発に議論するという風習を確立し、そのなかで、専門主義を超克し相対主義を克服していく必要と手立てをみつけること
>学生たちが自分で論文を、とりわけ専門主義と相対主義の何たるかを理解しつつ、それらを超えていく方向での論文を書く機会を増やすこと
として、「話し言葉と書き言葉を習練する場所、それが大学であるべきだ」と言っている。
もちろん学生だけがわるいんぢゃなくて、大学に閉じこもってる学者たちも、言論が衰弱してて、なにかを表現しようという気がないし、表現するにしても仕方が専門にしか分かんないような言葉遣いしかしないと、攻撃してる。
で、大学で学んだことは役に立たない、企業に入ってから本当に役に立つ教育・実学を与えますよ、と多くの経営者が認めちゃってるような現状において、大学はどうしてったらいいのかっていうと、国際化するとか、民間との人事交流とかを提言してるのもいいんだけど、やっぱ言葉遣いの問題において、ジャーナリズムとの相互乗入れを提唱してるのが大事なとこだと思う。
アカデミズムは世間の人に通じない言葉によって語り継がれているにすぎないし、ジャーナリズムのほうも事実に過度に拘泥した言葉に頼りすぎてて雑な言葉遣いになってると。
自分のアカデミックな業績を状況(ジャーナリズムだろうな)にぶつけてみて、そこでどういう反応が生じるかを確かめて、専門の学問を修正したり発展させるとか、ジャーナリズムも流通はしやすいが皮相に流れている世論をアカデミズムに照らし合わせてより確かなより説得力のある言論に組み立て直すとか、そういう両者の相互応答があるべきだって。
>このアカデミズムとジャーナリズムの相互乗入れは、かならずや文体上の変化を要求するであろう。(略)概念的であると同時に経験的な、抽象的であると同時に具体的な文体が志向されるようになるであろう。それをもって散文的健全性とよぶのである。
っていうまとめ、なかなか素敵だと思います。
いや、こないだ「臨機応答・変問自在」なんかを読んでるうちに、大学とは、学問とは、どーゆーもんであるべきか、なんて思ってしまったもんで。
(ちなみに森博嗣氏は、授業料を出して学校に来ているお客さん=学生が、休講になると喜ぶとは如何なものか、なんて卑俗な問題提起もしている。)
ひさしぶりに、西部邁氏の本なんか出してきてみたりした。
著者が(中沢新一騒動で?)東京大学を辞めた後に書かれたものなんで、いまの(当時の?)大学のダメぶりに触れられている。
当時の「大学が崩壊しつつある原因」については、
(1)日本社会が方向喪失、価値喪失の姿をさらしつつある
(2)社会のなかにおける大学の位置がますます不明確になっている
(3)これまでの大学が得意としてきた欧米思想の輸入・紹介といった作業が限界に達してしまった
(4)大学の内部において教養と専門のあいだの関係が動揺している
(5)現代の大学人は、その受ける収入、与えられる権威という面でも窮乏化しつつある
と冒頭で挙げられてるけど、日本社会はこの二十年くらい失われたまんまなんで、今もそんなもんぢゃないのと思う。
まあ、書いてあることは難しいんで、私がここにサラッと要約をすることなんかできませんが。
大学のなかのひとたちが自分の専門に閉じこもっちゃうことのダメさとか、お得意の「伝統の知恵」に関することもいいんだけど、やっぱ、言葉の大切さを説いてることにつきるのではないかと。
科学、哲学の発展の歴史からひもといて、良き言葉をつかうことの重要性があちこちに出てくる。
中庸は折衷とは異なるものだと言い、
>いかにして怜悧と誠実を中庸させつつ賢明な立場をとりつづけることができるか。人間の場合、怜悧も誠実も言葉によって遂行されるものであるから、問題はいかなら言葉遣いによって中庸を具現するかということになる。
なんて言ったあとに、言葉のもつべき秩序の大切さについて、
>平衡のとれた言葉遣いによって話され書かれるのが、少なくともそのように努力するのが、真の言論なのである。それにたいし、不徳に転落したものとしての抑圧的な言葉と無秩序な言葉との混淆、それが世論の本体である。
なんて解説してくれてるのが、分かりやすい。
チャート式勉学ばっかりに慣れてしまった学生たちをかかえる教育現場の荒廃に立ち向かうには、
>活気ある言語生活を大学の場に取り戻すことである。その一つは、学生たちが教師を交えて活発に議論するという風習を確立し、そのなかで、専門主義を超克し相対主義を克服していく必要と手立てをみつけること
>学生たちが自分で論文を、とりわけ専門主義と相対主義の何たるかを理解しつつ、それらを超えていく方向での論文を書く機会を増やすこと
として、「話し言葉と書き言葉を習練する場所、それが大学であるべきだ」と言っている。
もちろん学生だけがわるいんぢゃなくて、大学に閉じこもってる学者たちも、言論が衰弱してて、なにかを表現しようという気がないし、表現するにしても仕方が専門にしか分かんないような言葉遣いしかしないと、攻撃してる。
で、大学で学んだことは役に立たない、企業に入ってから本当に役に立つ教育・実学を与えますよ、と多くの経営者が認めちゃってるような現状において、大学はどうしてったらいいのかっていうと、国際化するとか、民間との人事交流とかを提言してるのもいいんだけど、やっぱ言葉遣いの問題において、ジャーナリズムとの相互乗入れを提唱してるのが大事なとこだと思う。
アカデミズムは世間の人に通じない言葉によって語り継がれているにすぎないし、ジャーナリズムのほうも事実に過度に拘泥した言葉に頼りすぎてて雑な言葉遣いになってると。
自分のアカデミックな業績を状況(ジャーナリズムだろうな)にぶつけてみて、そこでどういう反応が生じるかを確かめて、専門の学問を修正したり発展させるとか、ジャーナリズムも流通はしやすいが皮相に流れている世論をアカデミズムに照らし合わせてより確かなより説得力のある言論に組み立て直すとか、そういう両者の相互応答があるべきだって。
>このアカデミズムとジャーナリズムの相互乗入れは、かならずや文体上の変化を要求するであろう。(略)概念的であると同時に経験的な、抽象的であると同時に具体的な文体が志向されるようになるであろう。それをもって散文的健全性とよぶのである。
っていうまとめ、なかなか素敵だと思います。
