四方田犬彦 1991年 扶桑社
いま二十年以上ぶり(←たぶん?)に、書店の紙カバーを外してみたら、帯に「最新エッセイ」ってあるけど、内容は1989年から90年にかけてのものだ。「週刊SPA!」連載のコラムの2か年ぶん。
どんなこと書いてあったか、今回読み返すまでほとんど憶えてなかったけど、「かばんは靴と同じだから机の上に置いてはいけない」とか、出典忘れてたのに、ずっと私に影響与えてたものもあった。
著者がおもしろいとおもった映画や書物について書いてある回もあるけど、私には興味の共通項がないものが多くて、その後もぜんぜん知らないものばかり。
それよりも、台湾の料理学校の第一日目は「鶏のさばき方」で、まるごと一羽の鶏を巨大な中華包丁で解体することから始まるとか、フルコースというのはロシアで発明されて、狭いテーブルでいかにうまく食べるかというための形式とか、わりとどうでもいい話のほうがおもしろい。
1990年10月の「わたせせいぞうの『ハートカクテル』はバカにでも読める村上春樹である」って章は、タイトルそのままなんだけど、辛辣でおもしろい。
当時、角川文庫が夏目漱石のカバーをすべてわたせせいぞうに描かせたことに憤ったあまり、ケチョンケチョンに言ってんだけどね。
ついでに松任谷由実と柴門ふみについても、「ああいうことを商売にしてる人もいるんだよね、くらいの感想が精いっぱい」とか「上等のセーターの本当の着心地を知っている人間は安物には手を出さない。ただそれだけ」とか、ビシビシ断じてるし。
それはそうと、1988年12月の岩波書店の「ちびくろサンボ」絶版に関する章があって、そこで語られてる憂慮が、きのうからのつながりっていうか、最近読んだ本とも関連してたのが、私にとっては奇遇。
>ひとつは差別を糾弾している市民団体が誰を代表しているのか、という問題である。彼らは(日本人の親子三人で構成されているそうだが)いったい黒人の誰に依頼され、彼らの声なき声を代弁しているのだろう。差別問題でもっとも重要なのは差別された側の当事者の直接の声なわけだが、寡聞にしてぼくは日本のこの場合、それを聞いていない。考慮すべきは、安全地帯にあるある声が別の人間の別の状況の声を代表=表彰してしまうという、今日の政治=社会的システムではないだろうか。(略)
>もうひとつ生じる困難とは、この絶版事件によって、童話のみならず日本のマスメディアにおける黒人の映像が消滅してしまうのではないかという問題だ。白人や中国人の絵は描いてもいいが、黒人だけはウルサい文句が出るから描かないにこしたことはないという暗黙の了解が横行しかねない。結果的に黒人は登場させないということになれば、ここにさらに深刻な差別が発生する。(略)
だって。「紋切型というのはそれを単に禁止したり隠蔽するだけでは不十分で、逆により性質の悪い紋切型を産んでしまうだけだ。」と。
(ちなみに、ちびくろサンボを絶版にさせた「黒人差別をなくす会」というのは、当時小学四年生の子どもが書記長もつとめていた家族三人で、1988年の黒人マネキンや当時の渡辺美智雄自民党政調会長の発言への抗議の報道をみて活動を開始、1990年くらいまでに、次々と出版社に改善を求める郵便を送ったらしい、ってことは『消されたマンガ』に書いてあった。)
どうでもいいけど、本書のタイトルは、「黄色の犬が宮殿に入るならば、入りたるその門は壊れるであろう」という古文書からとられている。
いま二十年以上ぶり(←たぶん?)に、書店の紙カバーを外してみたら、帯に「最新エッセイ」ってあるけど、内容は1989年から90年にかけてのものだ。「週刊SPA!」連載のコラムの2か年ぶん。
どんなこと書いてあったか、今回読み返すまでほとんど憶えてなかったけど、「かばんは靴と同じだから机の上に置いてはいけない」とか、出典忘れてたのに、ずっと私に影響与えてたものもあった。
著者がおもしろいとおもった映画や書物について書いてある回もあるけど、私には興味の共通項がないものが多くて、その後もぜんぜん知らないものばかり。
それよりも、台湾の料理学校の第一日目は「鶏のさばき方」で、まるごと一羽の鶏を巨大な中華包丁で解体することから始まるとか、フルコースというのはロシアで発明されて、狭いテーブルでいかにうまく食べるかというための形式とか、わりとどうでもいい話のほうがおもしろい。
1990年10月の「わたせせいぞうの『ハートカクテル』はバカにでも読める村上春樹である」って章は、タイトルそのままなんだけど、辛辣でおもしろい。
当時、角川文庫が夏目漱石のカバーをすべてわたせせいぞうに描かせたことに憤ったあまり、ケチョンケチョンに言ってんだけどね。
ついでに松任谷由実と柴門ふみについても、「ああいうことを商売にしてる人もいるんだよね、くらいの感想が精いっぱい」とか「上等のセーターの本当の着心地を知っている人間は安物には手を出さない。ただそれだけ」とか、ビシビシ断じてるし。
それはそうと、1988年12月の岩波書店の「ちびくろサンボ」絶版に関する章があって、そこで語られてる憂慮が、きのうからのつながりっていうか、最近読んだ本とも関連してたのが、私にとっては奇遇。
>ひとつは差別を糾弾している市民団体が誰を代表しているのか、という問題である。彼らは(日本人の親子三人で構成されているそうだが)いったい黒人の誰に依頼され、彼らの声なき声を代弁しているのだろう。差別問題でもっとも重要なのは差別された側の当事者の直接の声なわけだが、寡聞にしてぼくは日本のこの場合、それを聞いていない。考慮すべきは、安全地帯にあるある声が別の人間の別の状況の声を代表=表彰してしまうという、今日の政治=社会的システムではないだろうか。(略)
>もうひとつ生じる困難とは、この絶版事件によって、童話のみならず日本のマスメディアにおける黒人の映像が消滅してしまうのではないかという問題だ。白人や中国人の絵は描いてもいいが、黒人だけはウルサい文句が出るから描かないにこしたことはないという暗黙の了解が横行しかねない。結果的に黒人は登場させないということになれば、ここにさらに深刻な差別が発生する。(略)
だって。「紋切型というのはそれを単に禁止したり隠蔽するだけでは不十分で、逆により性質の悪い紋切型を産んでしまうだけだ。」と。
(ちなみに、ちびくろサンボを絶版にさせた「黒人差別をなくす会」というのは、当時小学四年生の子どもが書記長もつとめていた家族三人で、1988年の黒人マネキンや当時の渡辺美智雄自民党政調会長の発言への抗議の報道をみて活動を開始、1990年くらいまでに、次々と出版社に改善を求める郵便を送ったらしい、ってことは『消されたマンガ』に書いてあった。)
どうでもいいけど、本書のタイトルは、「黄色の犬が宮殿に入るならば、入りたるその門は壊れるであろう」という古文書からとられている。