大野晋・丸谷才一 1990年 中公文庫版
いま振り返ってみたら、この文庫を中古で手に入れたのは、一昨年の秋だった、読んだのは最近、なにやってんだか。
日本語論ってことでむずかしそうな気がして読むの後回しにしてたんだが、対談形式なんで読んでもそんなに疲れない。
ただし文法の話なんで、なかみはちょいとむずかしい、どうむずかしいかってえと、万葉・古今・新古今の歌を読んでなんとなくでも意味わかるんぢゃないと、なにが問題なのかわからなくなっちゃうくらい。
そんで、タイトルになってる「日本語で一番大事なもの」は何かっていうと、それは助詞とか助動詞だって話がいろんな例を引き合いにだして延々と繰り広げられる。
万葉集で多く使われてたこの言葉は、古今時代には使われなくなって、代わりにこういう言葉になった、みたいな話、学校の国語の授業で聞いたら、それがどーしたと思わざるをえないんだけど、この一文字とか二文字でこんな思いを表現できるんだ日本語は、とかこの二人に言われちゃうと蒙を啓かさせるものある。
質問・疑問に「や」とか「か」とか使うとしても、その違いについて、
>大野 (略)「や」は自分の判断を相手にもちかけるという役目をおびているという見方が私にある。それは「か」が自分で自問自答するのに対して、「や」は多く相手にもちかけて相手に聞いている。(略)だからもし「か」と「や」を分けるなら、疑問と質問とに分けたいですね。問いとはいっても疑(うたがい)と質(ただす)なんで、自分で疑うのと、相手に質す、相手に問いかけるというのとは違う。(p.76)
なんて説明して、「野守は見ずや」って歌の文句は「野守は見ないんですね」と相手に問いただしていることになる、それって反語的な表現で「野守は見るではありませんか」って意味になる、というふうに解説してくれる、うーむ、深いね。
だいたいにおいて、
>大野 歌を作った人がその言葉に何を託したか、ことに助詞や助動詞で何を言おうとしてそれを使ったのかを正確に受けとりたいですね。(p.151)
って問題意識がすごくて、「だに」って言葉の解説のとこでは、
>大野 (略)「だに」という言葉については、「せめて……だけでも」とか、あるいは「譲りに譲ってこれだけどもと思うのに」とかいう意味を覚えておいて、それをあてはめると綺麗に解けるものが少なくありません。(p.253)
と言って、「だに」ってのは単に「さえも」のような訳をあてるだけぢゃなく、いろんな心をこめるには大事な言葉だとして、
>大野 日本語というのは、こんなに短い形式で、こんなに複雑なことが言えるんですね。(p.252)
と、ある歌のことをほめているんだが、そのくらい丁寧に教えてくれたら学校の古文の時間ももうちょっと興味もてたんぢゃないかという気もする。
古文っていえばねえ、係結びってあったけど、「ぞ」とか「こそ」とかきたら、そのあと連体形って、教わったから、はい、そうですかと習ってはみるんだけど、
>大野 どうして係結びでは連体形で終るのかについて、事の本質を見抜こうという立場から考えれば、これが強調のための倒置表現からはじまったんだととらえることができるでしょう、もともと日本語にはちゃんと終止形という形があるのですから、なぜ連体形で終るのかということを説明しなくてはいけないんです。(p.102)
ってことは教えてもらわなかったと思う、そうかあ倒置なんだ、順番ひっくりかえって、体言にかかるものが下に来ちゃってるから、それ連体形なんだ、と初めて納得した。
ちなみに、「ぞ」については、
>大野 いったい「ぞ」という言葉は、奈良時代、あるいはそれ以前には、「……である」ということを表わすための、たった一つの言葉だったんですね。(略)ところが、これを否定形にしようとしても、できないんです。(略)推量形にしようとしても、できません。(略)つまり、(略)「AはBではない」とか、「AはBであろう」とか、そういう言語形式はなかったんです。(p.106-107)
として、奈良時代に漢文の翻訳するには否定や推量表現が必要になり、「ぞ」だけではうまくいかなくて、存在するって言い方の「あり」をつかって、「あらず」とかいうことができるようになった、って話もあるんだけど、深い歴史だ。
そこで「にあり」という言葉ができて、それが「なり」って変化すると、便利なもんだから「……である」というときには、みんな「なり」って言葉を使うようになって、「ぞ」は使われなくなっていったと。
ちなみに、「にあり」が「なり」になるのは、
>大野 古代の日本語では、母音が二つ続くのは大変嫌いました。それを避けるために、母音が二つ続くときには、どちらかを落すとか、二つの母音の間に何かを挟むとかいたします。(略)
>それからもう一つは、融合して別の母音をつくることがあります。(p.156-157)
ってことの作用と思われる、こういうの大前提として説明しといてくんないと、ときどきなんで言葉の形がそうなってんのかわかんないで困る。
漢文の翻訳との関係では、「こそ」の解説で、
>大野 漢文の訓読では、主として事柄を論理的に運ぶように読むわけだから、そういうところへは「こそ」は入りようがないんですね。「こそ」は選抜した対象を感情的に強調して、下が逆説になるときに使います。(p.176)
として、漢文の訓読に「こそ」は使わないっていうんだけど、だから「こそ」がついてると物事がきわめて感情的になるんだってことが逆にはっきりしてくる。
でも、なんで現代では係結びを使わないんだろうねってことについては、
>丸谷 (略)係結びは詩的技法で、いわば実体のない虚辞としての語法ですが、この虚辞というのは現代短歌には向かないということがあります。いったい現代短歌は、三十一音という少ない字数のなかに、あらゆることを入れなければならなくなった。そうしなければ現代詩やさらには小説に張り合えないと痛切に感じたのが、明治以後の歌人なわけで、ですから三十一音をむだに使いたくなかった。つまり実体としての言葉を求めたわけですが、そのせいで虚辞のいのちを忘れたんですね。(p.114-115)
ということらしい、もうちょっと誰か多く使うひとがいてくれてれば、古文で係結びでてきてもすんなり理解できるようになったのかもしれないが。
助詞の話もおもしろいものばかり。
まず、「は」について、
>「は」はどんな操り方をする言葉かといえば、「は」とくれば、「は」の上にきた言葉は、話し手も相手ももう知っている題目として話し手が扱うんです。ここに「は」の役目がある。「春はあけぼの」といった場合に、「は」がついた以上は、「春」については、我も汝も話題として知っているという扱い方、操り方をする。相手が実際に知っていようが知っていまいが、それはかまわない。そして、「は」の下に、それについての答、説明を要求する。(略)
>(略)だから「は」は、動作の主をいう主格だとか、処分の対象をいう目的格だとか、あるいは場所格だとかいった、格には特別の限定はないんです。(略)だから、「は」は「は」の上の言葉(「は」の指す実体)を問題として提出し、下に答を求める形式なんです。(p.194-195)
として、「提題の助詞」という説明をしてくれる、これは以前に丸谷さんの『新々百人一首』にも出てきたけど、そういうことを小学校のうちに教えといてほしかった。
それから、存在の場所を表わす「に」は、
>大野 (略)もう一つ大事なことは、この「に」も「の」も省略されないということです。『万葉集』などを見ますと、「を」とか「は」とかいう助詞は、しばしば書くのを省略されていることがあるんですが、「に」はほとんど省略されていないんです。(略)
>大野 まめに書いてあるということは、「に」について強い意識をもっていたということでしょう、日本人は、どこにあるか、それが「身内」にあるか、「そと」にあるかということについては、非常に意識が強かったということです。(略)
>大野 目的格をあらわす「を」なんていう助詞は、あったってなくたっていいんです。(略)それから、「花咲く」「月出づ」でよかった。前に言いましたように、日本語ではもともと動作の主体を明確にあらわす助詞はなかったのです。ところが、「に」だけは非常にはっきりしていますし、「の」という助詞も使われることが多かったんですね。「の」と「に」が圧倒的に使用度数が多い助詞です。たとえば『源氏物語』のなかで使われている助詞の中で、いちばん多いのは「の」です。多い順に言いますと、「の」「に」「も」「て」「を」「と」「は」「ば」「や」の順です。(p.280-281)
と日本人の意識と関わる重要性を説明してくれてるが、しかし、源氏物語の助詞の数とか誰が数えるのかね、でも、古文の授業でもそういうこと教えてくれたら、現代語訳する作業とはべつに、源氏物語の字面にもちょっと興味持てたかもしれないね。
さてさて、そういう調子で大野さんはすごい博識なんだが、その大野さんについては、丸谷さんの随筆集『低空飛行』のなかに「大野さんのこと」って一篇があって、学生んときから有名で、
>ところで、当時の文学部で、みんなが異口同音、「あいつはできるんだつて」と噂してゐた男がゐる。国文の特研、つまり特別研究生の大野といふ人です。誰も彼もが、「何しろ国語学の大野つてのはできるらしいや」と言ってゐた。さう言つては畏怖してゐた。研究室の仄暗い階段で、
>「ほら、あれがその大野だよ」
>なんて教へてもらつたことがあります。(『低空飛行』p.126)
なんて逸話が明かされているんだけど、
>単にすぐれた国語学者であるだけではなく、さらに文学がよく判るといふ点で、この人ほどわたしが日本語について相談するのに向いてゐる先生はゐないのです。(同)
という存在なんだそうだから、日本語をめぐるこの対談が充実するのはあたりまえなんだろう。
本書の単行本は昭和六十二年刊行。
コンテンツは以下のとおり。
鴨子と鳧子のことから話ははじまる
感動詞アイウエオ
蚊帳を調べてみよう
「ぞける」の底にあるもの
「か」と「や」と「なむ」
已然形とは何か
「こそ」の移り変り
主格の動詞はなかった
鱧の味を分析する
岸に寄る波よるさへや
場所感覚の強い日本人
現象の中に通則を見る
古代の助詞と接頭語の「い」
愛着と執着の「を」
「ず」の活用はzとn
『万葉集』の「らむ」から俳諧の「らん」まで
「ぞ」が「が」になるまで
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